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【エッセイ】丁寧な暮らしと割れ窓理論

インスタやYoutubeを開くと、人はこんなに丁寧な暮らしをしているのかと驚く。丁寧な暮らしをする人は大抵早起きだ。朝の光をちゃんと浴び、コーヒーを淹れて、身体に優しい彩り豊かな朝食を食べる。部屋も常に整っていて、センスのいい家具に囲まれている。
これがパフォーマンスではなく、リアルな日常の切り抜きだとしたら、間違いなく彼らは精神の勝者だと思う。日常を慈しむことこそ、人類の究極のゴールな気がするのだ。

一方私のモーニングルーティンはというと、まず昼夜逆転しているので基本的に朝は存在しない。昼頃にノソノソとベッドから這いずり出て、まず煙草を探す。あると思ってた煙草の箱が空だったりすると灰皿からシケモクを探す始末なので、本当に目も当てられない。
コーヒーを淹れ、朝食は面倒なのでそのへんにあるお菓子を適当に口に放り込み、無理矢理血糖値を上げる。そこから洗濯やら掃除やらをバタバタやって疲れて一旦横になり…そうこうしてるうちに仕事が間に合わないことに気づき、頭を抱えながらパソコンに齧り付く。そんな毎日の繰り返しだ。繁忙期など納期が重なったりするといよいよ余裕がなくなっていく。仕事の忙しさと生活の荒れ具合は見事に比例するものだ。

そして一旦荒れた生活に入るとすべてがどうでもよくなり、立て直そうという気も起きなくなる。まさに『割れ窓理論』だ。一枚の割れた窓を放置しておくと、街全体が荒廃していくという、犯罪心理学でよく言われるアレだ。
だがひとたび余裕ができると、少し丁寧な暮らしをしてみたくなる。観葉植物に水をやり、部屋を整え、お香を焚いてみたりなんかして。家を居心地の良い空間に作り上げていくと確かに気分がいい。

「The Last Of Us」という海外ドラマでこんなエピソードがあった。謎の寄生菌による感染が世界で蔓延し、文明が崩壊したアメリカ。ビルとフランクは、ゾンビと化した感染者から逃れるため、誰もいない郊外の家でひっそりと暮らしていた。サバイブするだけでも過酷な環境の中、フランクは芝刈り機とペンキで家と近所の通りを綺麗に整えたいと言い出す。こんなディストピアな世界で家の外観を整えることに何の意味があるんだと問いただすビルに対し、フランクは「手入れをすることは愛情の形のひとつだ」と答える。「僕らが暮らす通りを、自分なりに愛したい」と。

本来そういうことなのかもしれない。人が暮らしを整えるのは、誰かに見せるためでもなく、おしゃれだと思われるためでもなく、自分の精神衛生のためなのだ。たとえ絶望しかない世界でも自分の暮らす家を居心地の良い空間にしたいという願いは、人間であることを忘れないための最後の抵抗のように思えた。フランクの言葉に妙に納得した私は、家の庭に小さな畑をつくってみた。

たぶん私は一生どっちつかずだ。丁寧な暮らしを試みて生活を大切にしている自分に酔ってみたり、「丁寧な暮らし?笑わせんな」と自堕落な生活に堕ちてみたり。きっとその繰り返しだろうが、そのブレも人間らしさと言える気もするので、まぁ良しとしよう。とりあえず小さな畑は継続している。早速パセリは枯らしたが、ネギとルッコラは健在だ。
割れた窓を放っておくと心の治安はあっという間に荒れてしまう。自分を蔑ろにしないためにも、忘れずに水をあげようと思う。

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