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絶望感を心に収めるために

毎度noteを私物化するようで申し訳ないけれど今回も自分の「心の整理」のために書いておく自分語り、ほぼひとりごとみたいな内容なので前もってお断り。

小学生の頃百人一首が大好きで、全首を熱心に覚えてクラスの大会で横綱(一等賞)を取った思い出がある。みんなクラスいち勉強ができる子が取ると思っていたはずで、突然空気みたいな存在だった私がその子を勝ち抜いて横綱の地位をさらってしまったことに驚いたと思う。恋の歌や季節を表現した歌も多い和歌の中で私がもっとも好きだったのは、ひときわ寂しいこの歌だった。理由は「私みたい」と感じたから。

心にもあらでうき世にながらへば、
恋しかるべき夜半の月かな

三条院   百人一首:六八番

現代訳:心ならずも、このはかない現世で生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月が。

背景:病のために退位を余儀なくされた三条院は、短い在位中、内裏が二度も火事に遭う、栄耀栄華を誇った藤原道長からの圧迫を受ける、病弱のため退位の一年後亡くなる。短い生涯中苦難ばかり経験した人だった。憂い多き世に誰より思いを馳せた人なのかもしれない。

はるか遠い昔に存在した人なのに、この歌を詠んだときの詠み手の心情が私には手に取るように伝わってきた。その夜、月を眺めた彼の胸に込み上げた哀しみ、寂しさ、美しい風景への郷愁とその儚さ、……長い月日を経てなお色褪せぬ「強い感情」がひたひたと胸の奥に沁み込んできた、あれは小学四年生の日。社会の苦しみと虚しさ、私利私欲にまみれた人間の惨めさ、哀れさ。そんなものに憂いを感じていた心に、これが一番刺さった歌だった。大会の数週間前から家で一緒に特訓をしてくれていた母と妹に「なんかこの歌の人、私みたいに感じる」とぽつりこぼしたことを覚えている。

HSPは、そうでない人たちが一つや二つに受け止めるものを四つにも八つにも受け止めてしまう敏感な感受性を持っている。何かが本来より多くあっても少なくあっても差分を鋭く感じ取り、それが良いものなら良い影響を受け、悪いものなら悪い影響を受けてしまう。「差次感受性」を持っているからだ。とはいえ何をどれほど感じとるかは個々に違いがある。人の性格はスペクトラム状である。HSP、HSS型HSPといっても濃淡のグラデーションの中でほど近い場所にいる人もいれば、ほど遠い場所にいる人もいる。皆一人一人個性があり違っているのだからそれは自然なこと。
「生きづらい」は、家庭や学校や会社、自分の日常生活を快適にして充実した人生を送る──これが難しいことを意味するようだ。確かにそうだけれど、世界で起きている出来事や社会の変化、人々が積み重ねてきた歴史の中、そこから窺い知れる人間の本質のようなもの。それを敏感に感じとってしまい憂いを覚える──この「生きづらさ」もある。これが心の深層部分にぐさりと突き刺さった苦しさを抱えて生きているHSPもいるだろう。私はそういうタイプのHSS型HSPなのだろうと思う。

実存的うつの話を書いたけど、↓

思い返すほどに、これが私の精神生活のスタートだった。小学中学年から中学生までの多感な時期、心に重くのしかかったこの問題をどう処理すればよいかわからなかった。(最初HSPの概念を知った時、ついにこれを語り合える人たちを発見したと思ったけど段々そう単純ではないことがわかっていった。)記事には三つ書いたけど特に、歴史の中で人の尊厳を無惨に剥ぎ取られて亡くなっていった善良な人々、強欲で残虐な人間に殺されていった高潔な人々、これを思うときの痛みをどう心に収めて生きていけばよいのか……。
だから〝しんり〟に出会ったとき、私は救われた。彼らの命には意味があったと思えたから安らぎを得られた。だからそれを心の礎としている間ずっと正気でいられた。道徳心に則って貫かれた勇気ある行動、人知れず果たされた尊い犠牲、これらに価値を付けて報いてくれる存在がちゃんといる、そう捉えることで憂い多き『うき世』に対しても希望を失わずにすんだ。人を助けるための〝ほうし〟を自分の果たすべき使命だと考え十代半ばから三十代半ばまでその活動に没頭した。……なぜこれほど長くいたかといえば、そこではいわゆるスピリチュアル的な儀式や儀礼(側頭葉のシルビウス溝が関与する刺激による霊的体験)ではなく、科学の知識や社会の道理に沿った振る舞いの価値、良心や道徳心の意義などをたくさん考える機会が用意されていたから(前頭葉眼窩部を始め前頭葉の様々な部位が関与して引き起こす理性的活動)。無知で無学な私にとって、人間の共感性、向社会性、道徳的観念の価値、心の心理、脳の構造などを学べるよい機会でもあった。この手の組織によく見られる他集団への排他的行動を示すこともなくむしろ対照的に(特に欧米では)道徳的で誠実で善良な市民として知られるコミュニティーでもあった。(そもそも、私の中にこの憂いと実存的うつがなければ選ばない道だったかもしれない。私の脳は、宗教的観念に結びつきやすい脳の領域─前頭前野の領域に複数存在するらしい─が遺伝的に発達しているのだと思う。特に物事に深い意味付けをする各部位が時として機能しすぎることも背景にある。むろんそれは側頭葉のいわゆるゴッドスポットと呼ばれる神秘的直感を引き起こす部分も幾らか関与している可能性は否定できない。)けれども結局、私はこの安定を手放す道を選び、朗らかな精神で生きていくための土台を失った。

以前の土台を打ち壊した思考、つまり心に招き入れた新たな〝しんり〟は残酷だった。それは無慈悲で容赦がない。善なる魂、高潔な精神は、あってないようなものだとする。人生を全うし得なかった善人の命は見捨てられたまま、悪も正されず、良心や道徳心にも(社会的実益以外の)意味はない。暴虐は終わらない、悪人は善人を殺し続ける、永遠に……。なぜ? なぜ? そんなこと赦されていいのか? 善は護られるべきではないのか? 絶対ではないのか? 高潔な魂を保護し崇高な精神を理解し評価してくれる高次元の知的存在などどこにもいない……それは私にとって『人』としての人生が終わったも同然だった。

無人の荒野にぽつり身を投げ出され、風化を待つだけのゴミ屑と化した私。しかしここからが本当のスタートだと踏ん張り痛みを引きずって前に進み始めた。これまで二十年もの月日、弱い私を支えてくれた足元の大地が裂けて空洞へ落ちそうになって、必死に抗って、知識という光を詰め込んで辛うじて描けたビジョンを信じて土台を強固にしていくことでようやく笑いながら生きていける道を再び創っていった。

多感な頃抱いた人の世に対する疑問。その疑問ゆえに選択した道が『誤』であり、いくらそれが私の中に信念や勇気ある行動を促したとしてもそれが虚構の土台である限り何ら意味をなしていない──というのであれば……、私は積極的分離において「退行」していたことになるのやもしれない。そんなことを最近考える。心で起きたことよりも正しい形が重要なのであればそうなのだろう。
ただ、荒れまくった家庭の問題、敏感過ぎて苦しかった気質の問題、次々と対処せざるを得なかった精神上の問題、これらを必死の思いで克服してきた力と、この世界の受け止め方向き合い方において選択してきた思考と行動とが、時間軸上、心理上、複雑に絡み合い同時進行しているせいで、どれが分離と再統合に該当しどれが該当しないのか正直混乱しているところがある。どれもが嵐のように酷で耐え難い内面の問題で、どれもが孤独で勇気が必要となる私の闘いだった。……生まれつき積極的分離の最高人格を体現でき得る能力を持つ当事者ならば、これほど混乱した環境に置かれたとしても、この違いを明確に判別できるのだろう。上へ行くとき、意識で受け止める情景すらも違っているのだろう。私ももう少しまともな環境で落ち着いた暮らしをしてこられていたなら、物事の一つ一つに区切りを設けて正確に語れたのかもしれない。何かがわかったらまた書いてみたいけれど、この弱い頭でできるのはここまでな気もする。

信仰を貫く人を一様に『妄信者』とし一笑に付す人がいる。正義や理念や信念というものは人を傷つけ争いを生んできた。その事実を知る人は、ダーウィンの進化論、マルクスの言を借りてそれは愚かで心弱き人が行く場所と一様に評価を下し、自身の洞察力に自信を持っている。だけどその人は知ることがない。強い道徳心を持って生まれついたために人殺しに繋がる制度や組織への従属を拒絶し処刑される道を選んだ人の勇気、平和を強く願うばかりに命を投げ打つ決意をした人の悲しみと希望。はなで嗤う人は、そんな人々のエピソードに行き当たることすらなく、微塵も思いを馳せることもなく、常に中庸を取り傍観者でいられる自分の賢さに誇りを持ったまま暖かい部屋の中で発言し続け一生を終えるのだろう。でも私はそのような人たちが示した行動を笑えない。利他精神から尋常でない勇気を心に創り上げてしまった人を『妄信』の一言で片付けられない。その精神力に畏敬を表したいし一生忘れることができない。『正』─正しさは大事だ。けれども正しきのみを見て心にあるものを見られない人になったら終わりだ。

孤独な人間を癒してくれる相手は、理解、共感、対等、この三つを持つ人である──と某脳科学者が言っていた。この三つを追求すればするほど、私には居場所なんてないな、と思う。多感な頃も落ち着ける自分のスペースがないことが堪らなかったけれど、この歳になっても腰を下ろせる場所がない。過去の〝しんり〟の世界にもいわゆる二世である同年代の人たちは身の回りの事や生活や仕事のことばかり話して楽しんでいて根本的に何かが違っていた。自己探求をするうちに辿り着いた強く惹かれる人たちがいる場所については到底、学もない育ちも悪い突出した知能もない、ないない尽くしの私にとって、ただただ引け目を感じるばかりの世界だ。同じ日本のHSS型HSPの発信する情報(主にSNSで見かけるもののこと)にも肝心なものが足りない感じを覚えてしまう。アーロン博士によるHSPの本を読めば感覚として身に覚えがあることばかりで深い充足感を覚えるけれど、少なくともこの日本で発信されているHSPの説明、交わされているあるある話などには妙な違和感を覚えてしまう。同じように機能不全家庭で育った人たちとも大抵は性格や気質の違いを感じる。

HSS因子の仕業は大きい。これは人生の節々で常に私を「放浪」へと追いやってくれた。いつだって人との違いを付けて少数派の中の更なる少数派へとこの身を追い込む。……なんだか本当に、どこが自分(=私の精神)のいるべき場所なのか見当がつかなくなった。身体に貼り付けるラベルがほしいというより、ただいるべき場所を見つける「手がかり」「決定打」があればと思う。(行動としてやりたい事は思い浮かぶけれどそういうことではなく。)もとよりHSS型に生まれた私には見果てぬ夢なのか。そもそも、そんなものは誰にだってないよ、みんな一人一人違うのだから──。そう言われてしまえば元も子もない。

今わかるのは、この「実存的うつ」を同じように持っている人、それを忘れぬまま希望を抱えてこられた誰かの経験に裏打ちされた言葉を欲しているような気がする。また、孤独に身を置いたままどんなふうにこの絶望感を心に収めてきたのかを聞いてみたい気がする。(いつかどなたかの記事を読んで〝聞ける〟のかもしれないけれど。)刺激追求型敏感気質の人間の中にそれを持っている人がどれだけいるのだろう。少なくとも現在のところ、日本の著者の本を読む限り、私にとってのこの主軸(深層心理にあるうつ)を示唆するような記述はすっぽり抜けていると感じる。あくまで仕事や人間関係や身の回りの細かな出来事において上手くやっていく方法しか書いていないように思うから。

また改めてよくわかった視点がある。色々調べて自己理解が捗った。でも一つ一つ得てきた貴重な理解はどれもこれもこの強い『感情』と繋がっているということ。そもそも美を愛するあまりの嘆息、善悪の感覚に鋭いゆえの苦悩、思考を深めれば深めるほど孤独へ行きつく虚無感、……発端はどれも『感情』だ。だからたくさん知識や知恵を得て行き着く場所、この問題の落とし所もつまり『感情』に違いない。『感情』が『知への旅』に意味を付し、最終的な評価をくれる。(新しい脳領域である前頭前野の働きに評価を下すのは、強い情動を生み出す扁桃体の役割、といえば良いのだろうか。もちろん感情を作り出す部位は扁桃体のみならず様々関わると思うけど古い脳に行くほど本能に近づくわけで、最終的にそれに適うものはないと思う。)

昔の日本人は、淡々と過ぎる日々の中に小さな季節の移ろいを感じとり、繊細な美しさに思いを馳せ、自然界の懐の深さに畏怖の念を抱いた。それを建築や芸術や言語の中に丹念に落とし込んできた。
この世には、ゆっくり時間をかけてこそ気づけるよろこびがある。何もなしていないようで微細な変化が積み重なりじわじわと意味を作り上げてゆくものがある。即断即決だけがすべてではない。それを教えてくれるのが古き良き日本文化だ。侘び寂び、もののあはれ。日本人の精神に息づく悟りは美的観念と強く結びついている。他者と自然との調和を保ち、目を配り心を配り、暗い洞窟の中で鍾乳石が長い年月をかけ独特な形を造りあげていくかの如くじっくり意味あるものを育み、儚い美しさを愛おしみ、清さと潔さを求め、悲しみから平和を学び、違いなきものに違いをつける。
古来から受け継がれてきた敏感で豊かな感受性を持つ先人たちが残した文化に触れ、その精神を垣間見る時間を、忙しないこの日常に設けゆっくり噛みしめつつ進めばよいのかもしれない。比類なき繊細さで形作られた文化から『真理』を掬い上げ、語り継いでゆけるのもまた、後世に生きる〝違いを感じ取れる敏感な人たち〟なのではないか。──移ろわぬ、それもまた好きことなり。移ろわぬ中にごく微細な移ろいを見い出す感性をこそ、これから私は磨いてゆくべきなのだろう。そうすればこの絶望感とも仲良くなれるだろうか。何食わぬ顔でしっくり心に収めていられるようになるのだろうか。

幼い頃の私が三条院の詠んだ歌から共感という安らぎを得られたように、生涯忘られぬ『感情』的な何かを私も見知らぬ誰かに伝えられたなら。豊かな感性を育む日本的情緒は合理性と生産性を正義とする西洋的精神に飲み込まれて久しいけれど、儚くも尊い何かを残したり伝えたりしてゆけるなら。理解と共感と対等を感じられる生身の人間を探すのはなかなかに叶わぬ夢である。つまるところ、私にはもう創作活動しか残されていないのかもしれない。絶望感を上手く心に収めるための永続的な手法は、孤独や寂しさも感動や感慨へと昇華させ得る創作の中にしかないのかもしれないな。

毎度ながら取り留めのない文になった。

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