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『読まれる』と『読まれない』の意識バランス

『書く』の意味

私にとって『書く』とは何だろう?という記事を以前書いたことをふと思い出した。自分にとっての『書く』の意味を突き詰めていくと『息をすることの次に自然なこと』という結論になってしまう。今改めて考えてみてもやはり同じだなぁとなる。

『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』の名言で知られる作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは文章で何かを表現するということは私が生きることの意味そのものだと述べていたけれど、つまりこれ。プロアマ問わず物書きの中で、書くことへの情熱の根底にあるものが生きる意味と同義になる人は多いだろう。

人間とは悲しいほどに徹底した社会的生き物である。社会に向けてのアイデンティティの確立(存在証明)に一生かけて尽力しているような気がする。書くことで社会と自分の距離を省み程よい塩梅を探りながら自己の内なる世界を深め、意義を加え高めていくのかもしれない。ある意味ものを書くという行為は徹底的な社会的行為に他ならないのだろう。

目に見えない曖昧な思いというものを文字という明確な記号に変換して残す。思いは常に変化している。人の心は常に流動的であり、変わらないものなどないといえる。『意識』では変わらないと思っていても『無意識』では何かしらインプットした情報と内面からの起こる思考や感情により微細な化学反応を起こしていて、多かれ少なかれ必ず変化という事件がどこかで起きている。
『諸行無常』という言葉があるが、変わらないものなど実際はどこにもない。宇宙も人の世も何もかもがすべて変化の上に成り立っている。だからこそ、一瞬の心の在り様を変わらない文字というものに換えて普遍性を持たせたい──そんな人の心の本質的欲求がものを書かせるのかもしれない。人の心は移ろっても、心の瞬間を切り取った文章は書き記された時のまま不変である。ページに落とされたインクの形状は時の流れを経て掠れて消えるかもしれないが、思考と感情と概念を受け渡しする文字という記号は、別のインクなり印字なりデジタル文字なり時代に則した方法と手段に形を変えてまた同じ意味を持つ記号として再生されていく。時代を超えて、世代を超えて、言語という記号が受け継がれ残されていく。
言語とはつまり、人の概念や論理という実体のないものを現実世界に繋ぎ止めるための便利なツールだ。このツールは時代を跨ぐ力を持っている。大脳の前頭前野が巨大化してしまった人類だけが手にし得た画期的な道具だ。むろんもっと長い目で見れば言語を含め変わらないものなんて何もないが、個人の一生という視点に立てば不変に近いものと言っていい。抽象という掴みどころのない世界から、具体という五感で掴める実存世界へ落とし込まれた概念表現ツール、それが文字であり文章と言えるのか。

変わりゆく世界で、変わらないものを創る。

こうして考えると、書くとは息をするほどに自然なことでありながら自然の法則に逆らおうとする特殊な行為のような気もしてきた。新約聖書冒頭の一句も『はじめに言葉あり』だが、やはり人間の根源的な欲求と関連づいていると思えてならない。

……はっ。

私は何を書いている。
『自分にとっての』書くを書き始めたはずなのに、いつのまにか書くの本質に迫ってしまっていた(汗)

話を元に戻そう。……私というあまりに小さな取るに足りない個にとって、書くことは心や思考を表現することであり、それはお金を得る手段でもなければ地位や名誉を得る手段でもない。社会的なアイデンティティーの確立にはさして関わりがない。むしろ内面世界を探求したり内なる情熱を昇華する行為だから、やはり生きる意味そのものとなる。目で確認できる目的がないという面では、明確な意味などないとも言えるのだ。

読ませる文章と読ませない文章

とはいえ文章とは、誰かに読まれるために書き表されるものであるに違いない。誰かに読まれる必要がないのなら、そもそもこの文字という道具の存在は必要ない。誰かに読まれる目的を持つからこそ、わざわざ変わる思いを変わらない記号へと変換する必要が生じる。

ところが、誰にも読まれない文章も在って然るべきなのだ。文字自体がコミュニケーションのための道具、という事実と一見矛盾しているように思えるが、人はやはり(本来誰しもが)読まれないためにも文章を書いたほうがよいといえる。

これについて、もう少し具体度を高めて考えてみる。例えば日記は本来他人に見せるために書くものではない。むろん文章である以上将来の自分が見ることを念頭におくから成立する行為ではある。が、元々の存在意義は他人のために書くのではなく自分のために書くものだ。
最近ジャーナリングの価値を伝える方々が多くなったように思う。iPhoneにも「ジャーナル」の純正アプリが加わった。自分が思ったことを自然に任せて書き連ねていくことで心の整理ができメンタルバランスをよくするために役立ち自己理解にも役立つ。ジャーナリングは単なるライフログ以上の意味を持つ。

このジャーナリングが持つ〝心の整頓〟機能にのみ特化したのが『いくつになっても「ずっとやりたかったこと」をやりなさい』ジュリア・キャメロン著 で紹介された『モーニングページ』だ。見せるためではなく『排出』のためだけの文章。むしろ誰かに見せてはいけない文章。
他人の目を意識して書くとどうしても本心が書けなくなる。人間は多かれ少なかれ誰しも建前と本音を使い分けて生きている。この建前、人からこう思われたいという理想やこう受け止めてもらえるだろうという憶測などを、知らずに文章に含めてしまう。ビシッと決まったかっこいい文を作ろうとする。すると、自分でも気づけないほど心の奥に入り込んでしまった本音や本心は出てくる機会を失ってしまう。本心を炙り出す心の整理という目的は一向に果たせなくなる。微細な自己欺瞞が積み重なっていつか自分が苦しくなる。

絶対に誰にも見せない、将来の自分にすら見せない、と決意して書くことで本当の意味での『排出』ができるという。頭の中にあった言葉にならないモヤモヤが少しずつ少しずつ文字や文章となってより明確な形を帯び表れてくる。そして気づかぬうちに消化されていく。『瞬間』を明確な形で切り取って捨てていくことで、次の『瞬間』に対し清々しい気持ちで向き合うことができるようになる。つまり、これも書くことの実に大きな効能であり、間違いなく書くが持つ威力のひとつだ。

一方、読ませるために書く。『言葉は剣よりも強し』(アヒカル)、『智者のペンよりも恐ろしい剣はない』(デジデリウス・エラスムス)などの有名な言葉が象徴するとおり書くことがどれほどの威力を持つかはもはや自明だ。時代を超えて残り世間の心を揺さぶり誰かの人生を変えてしまうことだってある。
(……ちなみに、ここで私が「ペンは剣よりも強し。こいつは真理など滅多にない人間社会の中で数少ない例外の一つだ。〜 剣を携えて歴史の流れを遡行することはできないがペンならそれができるんだ」というヤン・ウェンリー[銀英伝]の台詞を思い出さないはずはない。)

具体的には、読まれるために書くことでどんな効力があるのか。まずは文章力をめきめき上げることを可能にする。誰かに読まれる、を意識した途端、文章と向き合う姿勢に客観性が生まれ、独り善がりを排除しようという意識が働き、わかりづらい表現を使うまいとの心がけが桁違いにアップする。
一文単位でも起きるし文章全体の構成に配慮するという意味でも変化が起きる。構成は文章の骨組み、大枠である。枠に嵌め込む言葉というピースにも、できるだけたくさんの人に届くよう平易かつ明瞭な語彙を選択し、レトリックを駆使しつつ表現に工夫を凝らす努力を惜しまない。
文章力が上がることで書くという行為がどんどん楽しくもなってくる。これは書きたいトピックを思いつく脳の働きにも影響を与えてくれる。アイデアが浮かび、構想を練って文章にするという流れが、経験を積み重ねるごとにスピードと質を増していく。

さて。
書くの方向性には「誰にも読まれない」と「誰かに読まれる」があることをここまででまとめてみた。前者は己の本心を見つけて素直な自分軸を確立する、そんな効能と意味を持っている。後者は文章力を高め書くこと自体を楽しくしたり、誰かに有益なメッセージを送ることで共感や評価を得たり、人によっては報酬を得て実生活の質まで変化させてしまう。

これを「noteに書く」というさらに具体行為に当てはめてみる。もし私の持つ目的が、誰かに有益な情報を提供して注目を受けたり収益を得たりするところにあるのなら……。後者に強く振り切る必要があることがわかる。見られる意識をしっかり保つべきなのだ。これで目的を達成しやすくなるし、それは充足感に繋がるはず。
ところが私の目的はそこでないことは先述したとおり。もとより私の場合書くということは息をすることと似たランクにある。あまりに自然な行為なので、前者の「読まれていない」を強く意識することで、私らしい性格と目的に適った文章が書けるはず。いいねを付けてもらったりコメントを頂けたりするのはもちろん嬉しいことで、大変ありがたいこと。しかしそこが目的ではないことを今一度改めて意識しておきたい。書くときの意識として「誰にも読まれてなんかいない」というイメージを持つことは、私の場合には不可欠な心構えといえる。
ちなみに岡田斗司夫氏提唱の『人の四大欲求タイプ』において、私は「理想型」であり、勝ちや成功を求める「司令型」とは対極にある。金や名声を求めるタイプになりたくてもなれないことがすでに判明している。その証拠に、電子出版までした自作長編小説もいわゆる「売り込み」がまったくできず、というかマーケティングに微塵も興味が湧かず放置した挙句、自作品が商品として扱われることに嫌悪感まで募ってきて、毎月印税が発生していたにも拘らず、しまいには削除してしまった。どれほど徹底した「理想型」なのか。もはや笑えてくる。

したがって、私がもしこの辺の認識を曖昧なままでnoteを続けていくと、目には見えない歪みが必ず知らぬ間に積み重なり無意識の中で無用なものが生まれてしまうと思う。それはしんどさだったり、恥ずかしさだったり、小さな嘘や聞こえが良いだけの中身のない表現だったり、ごくごく小さな自己欺瞞に繋がる要素だったりするのかもしれない。
よく知られていることだが、X(ツイッター)など他のSNSではあからさまにこれが出ることがある。いつの間にか人目を意識しすぎて承認欲求の奴隷になってしまう現象が多くの人に起きていることは今更言うまでもない。noteは比較的こういう側面が弱いとは思う。それでも、いやだからこそ認識を改めておく必要があるともいえる。

特に抽象化思考が得意な人間というのは、自分の文章に対して客観的な見方を持ちやすいので、魅力的な表現を捻り出すことがなんとなく得意だったりする(自分の場合はそこまで到達していないのが悲しいところ)。これは話を盛るとか大袈裟な喩えや表現を使うことが元々得意だということだ。……少し話が逸れるが、日頃愛聴しているYouTubeチャンネル『ゆる言語学ラジオ』でもインテリなMCの二人が「自分たちは話の盛りグセがあるよね」なんて笑いながら話していた…笑。私は聴きながら『そうだろうとも』とにまにましてしまった。
この癖は、小説などの創作には大いに活かせると思う。でもnoteに書くものには基本的にしたくない。だから、自分軸をしっかり固定して書き続けていくために、「読まれない:読まれる」の意識の配分は、私の場合7:3ぐらいがちょうどかなという結論に辿り着いた。なぜ9:1ではないかというと、やはりここで書くという行為は、どう足掻いても『発信する』の域を出ないわけで。この辺が妥当なラインだろうと思えた。とはいえ、マガジン機能で振り分けてみたとおり、きっと誰かの役に立つはずタイプの記事(敬体で書く)と、今書いている独り言要素の強い記事(常体で書く)ではいくらか配分が違ってくる。むろん独り言や自分語りが強い方は、「読まれない」意識を強めて書いていく。

……今回は冒頭から書き始め、書くの本質を探り、書く時の意識の方向性二つを省みてそれぞれの効果や影響を考えてみる、というかなり面倒くさい廻り道をしながら自分なりの結論へ到達することをしてみた。4,000文字辺りを越えた時点でようやく私なりの配分が決まった。大抵は下書きを保存しながら記事を仕上げていくやり方で書いているけれど、これは題の思いつきから結論まで一気呵成に書き綴ってみた。この方法もまたいとをかし。

まとめ

個人的な日記やジャーナリングなど「読まれない」書くには、素直な自分軸の心を確立して生きやすさを手にできるという良さがある。誰にも邪魔されない自分だけの表現場所を持つ安心感も得られる。一方、ブログやnoteなどの「読まれる」書くには、何らかの期待や見返りがつきものである。
私にとって書くことは生きる意味そのものなので、この動機を鑑みると「読まれない」と「読まれる」の意識バランスがとても重要になる。あらゆる場所において何かを書くことは見返りと紐づけないほうが自然だといえる。したがって私の場合は「読まれない」「読まれる」の意識配分は「読まれない」を優勢にしておくのが長期的にみて正解だろうと思った。……いつも『たぶん誰にも読まれないだろう』を前提に気軽に書き出して、これからものびのびと自由に続けていきたい!

初心忘るべからず、として書いておく。

※ただしこれは『意識』のバランスに過ぎない。『無意識』の世界の配分がどうなっているかなんて私は知らない…笑

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