シェイクスピア『あらし』における「死」のイメージの考察
シェイクスピアの『あらし』(『テンペスト』)に関する考察を昔まとめたレポートを少し編集した記事です。シェイクスピア作品を色々読んで楽しみながら書いたので、楽しそうな雰囲気を感じてもらえたらというエッセイになっています。
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1、はじめに
シェイクスピアの『あらし』において「死」を迎える登場人物は存在しない。それどころか、プロスペローは自身を離島生活に追い込んだ人物たちが死んでいないかをエーリアルに確認するだけでなく物語には影響を与えそうにない船員たちの無事まで気に掛けるように、他者の「死」を望んでいない。一方で、シェイクスピアの四大悲劇の中では人々が簡単に死んでいく。例えば、『リア王』の中では舞台袖において「死」を迎え、そのことを告げるものによってその人物の死が物語の中で共有されているように、「死」を抵抗なく受け入れてしまっているように見えるのである。もちろん、『あらし』は悲劇ではないという点を考えることで、「死」は似つかわしくないという判断もできるかもしれないが、悲劇とされる「ピラマスとシスビー」の物語をシェイクスピアは『ロミオとジュリエット』では悲劇として描きだし、『夏の夜の夢』においては劇中劇において喜劇へと転じさせているが、どちらでも人物たちの「死」は訪れている。つまり、「死」でさえ喜劇の1つへと昇華するような筆致がシェイクスピアに備わっていないという見方は不正確と言えそうである。そのように考えると、シェイクスピアは「死」を取り上げつつも実際には殺さず、しかも死んでいても生きていても物語に影響を与えないであろう船員の安否を明示しているという点において、『あらし』の世界における「死」というものは特殊な意味を持っていると考えられる。ではそのような含意とは何であるかを、『オセロー』、『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』における「死」について考察を行い、それぞれの作品における「死」の意味を明確にした上で、『あらし』と比較していくことで、明らかにしていく。
2、『オセロー』の中の「死」―罪を引き取る高潔な「死」―
『オセロー』は、旗手イアーゴーの策略により、オセローは妻のデズデモーナが不義の行為をしていると思い込み、強い嫉妬に駆られ、デズデモーナを手にかけてしまうが、その不義がイアーゴーの策略によって作り上げられたものとわかり、最後にオセロー自らその命を絶つ物語である。『オセロー』において「死」はストーリーの展開において重要な役割を果たしている。それは物語の最後にあたり、オセローの「死」という幕引きを行うためには妻デズデモーナの「死」は不可欠なものであるばかりか、イアーゴーの妻エミリアの「死」もイアーゴーの悪心を知らしめるために重要であり、一層デズデモーナの「死」の悲嘆さとオセローの不遇さを高める。
このように『オセロー』における「死」はそれぞれ意味を持ち、重要な展開の一部として機能している。そのためか、死んだと思われていたロダリーゴーは一命を取り留めている。ではそれぞれの「死」の場面に焦点を当てて『オセロー』における「死」の意味を深めていく。
『オセロー』の終盤において最初に取り上げられる「死」はデズデモーナの「死」である。デズデモーナは物語の序盤から最上の女性として描かれており、最期までイアーゴーによって語られているような不貞を働くことはない。それどころか、自身を疑い、「死」に追い込んだオセローをかばい、エミリアに対し自殺したと嘘をつく。嘘が罪であることはオセローがデズデモーナの「死」の直後に語っているだけでなくデズデモーナ自身も物語の中盤で語るようにキリスト教徒であることを考えると重大な罪と言え、デズデモーナの唯一犯した罪と言えよう。しかしそれは物語の全容を知っている読者からの視点であって登場人物の視点で見るとクレタ人のパラドックスのようなことが起こっている。つまり、デズデモーナの発言を正しいと考えると自殺をしたことになり罪を犯しているし、発言を誤っていると考えると他殺ではあるが嘘をつくという罪を犯している。彼女はその1つの発言によってキリスト教徒であることを考慮すると罪から免れないのであり、天国に行くことはできない。それまで一切罪を犯していない彼女が最期にした逃れられない罪は彼女の「死」の見方を変える可能性がある。つまり、彼女の「死」を唯不幸なものとして捉えることはできなくなり、彼女にとって「死」がありえたものとなるであろう。だがそのような点を考慮すると、「死」には罪の浄化としての側面を持つと言えるかもしれない。つまり、「死」は罪の浄化としたとき罪のないデズデモーナの「死」は不幸という一言では報われないし、オセローの罪を高め、「死」へと追い込むための「死」と捉えるにはあまりにも酷い終焉と言えるが、最期に罪を犯したのであれば状況以外に「死」の要因が生まれる。
次に取り上げられるのはエミリアの「死」である。エミリアはオセローたちの前で夫のイアーゴーに殺される。これはエミリアがイアーゴーの策略を曝露したことでイアーゴーの反感を買ったことによる。そして自身が語っているようにエミリアは真実を伝えたから天国に行けるように見える。だが、実際は彼女も罪を犯しているのである。彼女はイアーゴーに制止されたにも関わらずに真実を語ろうとするときに、「主人の言うことなら随うのが当たり前でしょう」(p.197)と一般論を述べているように、彼女は一般的な常識に違反する行為をすると言っている。つまり、彼女もまた真実を伝えるためとはいえ罪を犯しているのである。デズデモーナの「死」もそうであるが、「死」の直前に自身の口から罪があることを吐露し、浄化としての「死」を迎えるに値するような要因が言及されているようである。
最後にオセローの「死」が訪れるが、嫉妬心に駆られ、人を疑い、妻を殺し、最期には自殺をしている。このように見るとオセローには多くの罪を抱え込んで死ぬのであるが、イアーゴーという元凶を自らの手で討ち取ることはない。オセローは罪深くまた不幸を抱えているが、一方で元凶を絶てないのはなぜであろうか。オセローはロードヴィーコーらに対して、庇うことなくありのままを報告してほしいと伝えつつ、心情、とりわけ愛情の獲得したことを示し自害する。しかし、その直後死の間際に妻への最期の手向けを行い、息を引き取る。彼は自身の罪の軽減を望んでいないが、一方で後悔し妻に対しては配慮を行っている。このように見ると、オセローは全てを引き取って死ぬのである。「死」は罪の完全なる浄化であるからこそできる行為と見ることもできるが、一方で浄化後の現世は存在しないのであり、「死」は現世での自己を救うことはできないのである。つまり、オセローは罪を全て被り、現世において不幸な男というレッテルを張られることで罪によりくすんだ自己を救い、その罪を死後の世界に持っていき浄化をもって完全に救われるのである。そのように考えると、デズデモーナも自己に「死」の要因を収斂させることで現世の自己を救っているように見えるが一方で、エミリアは自己の誉れを語るだけで自己の罪を引き取ってはいないのであり、オセローとデズデモーナの高貴さを明白にしている。
このように、『オセロー』では「死」の要因を誰もが抱えているだけでなく、「死」によって救われない現世の自己を意識して行動をしている。そのため、読者は哀れなオセローの死という「悲劇」の言葉が最適と言えるような劇を目にし、オセローの罪に対する憤慨より悲愴あるいは悲壮を感じる。その悲壮・悲愴の感覚を支えているのが、自己の罪を引き取り死にゆく自己への配慮と考えることができよう。
2、『ハムレット』における「死」―報復による自滅的な「死」―
『ハムレット』は、父の亡霊に出会ったハムレットが王の死の真相を知り、復讐を決意し、狂乱したふりをしながら懐疑心に苛まされながらも復讐を成し遂げるものの毒刃によって自身も倒れる物語である。またその物語の中に恋人オフィーリアの自殺も描かれており、文学だけでなく美術に対しても一定の影響を与えた作品と言える。
ハムレットの父も亡くなっているが、物語の中で亡くなっているのはまずオフィーリアの父ポローニアスである。彼はデンマーク王と間違えられてハムレットに殺されてしまう。ハムレットはこの行為を悪いと認めつつも、王がした父への計略に比べれば悪いことではないと認識している。そのため、直ぐにポローニアスの問題点を追及している。つまり、ハムレットは自身の非を認めつつも、ポローニアスの非も糾弾しており、彼の「死」は自業自得の「死」として扱っている。
そしてそのポローニアスの「死」は物語の大きな起点となり、オフィーリアの自殺を生み出し、ポローニアスの息子レイアーティーズの復讐心を駆り立てる。ハムレットがそうであったように、父親の「死」によってその子どもたちも動き出すのである。
オフィーリアは舞台上では亡くならないため、登場している場面まで遡ることになるが、そこでは明白に「さようなら」と宣言している。つまり、このときの退場は場面からの退場ではなく舞台からの退場であり、ここでは自殺への決意を述べているのである。彼女の死は自殺という言葉が指すように、自滅的な「死」であり、他者の批判を大いに受ける「死」である。実際、第一の道化と第二の道化が語っている場面で第二の道化が、「この女の身分がよくなかったら、クリスト教の葬式は出来なかったろうぜ」(p.180)と言っており、彼女は自滅し、さらに遺体の処理では酷い扱いを受けることになると考えてよいだろう。彼女は自殺という言葉通りだけでなく、禁忌を破った罪を自ら被ったという点においても自滅しているのである。
そしてこの「死」によってさらにレイアーティーズの復讐心は増すのである。その結果、王と画策し毒を利用してハムレットを殺そうと企む。しかし、この企みは結果的に彼らの命を奪うのである。まず、毒が入っていることに気づかなかった妃が誤って毒入りの杯を飲み、死に絶える。これにより、毒を利用して自身を殺害しようとしていたことを知り、王を毒の付いた剣で刺し、さらに毒杯も飲ませて殺す。その後、毒が効いてきて、レイアーティーズが先に死に、その後オセローと同様に近くにいるものにありのままを伝えるようにと告げてハムレットが死ぬ。
まず妃は自身の気遣いが結果的に自身の死を招いており、これは『オセロー』のエミリアに似ている。つまり、妃もまた罪を意識せずに死んでいるのである。彼女の「死」に値する罪はないように思えるがハムレットは父をすぐに忘れて現在の王につき従っていることに対して、批判的である。確かにハムレットは登場の場面では喪服を着ており、喪の期間と言える可能性は十分にありえる。少なくともハムレットの中では彼女は喪の期間にあるにも関わらず新しい夫をこしらえているわけであり、罪を犯していると言える。
次に亡くなる王は、先代の王を殺した罪もあるが、最も問題だったのは今回の計略でも毒を用いたことにあり、それによって彼が亡くなることから彼の罪は、ハムレットを殺そうとしたということも重要なのである。だからこそ、彼は自らの犯した罪に関連する毒によって死ぬ。もしそうでないとしたら、この物語に流れる一種の自滅的な雰囲気と合致していない。彼は毒によって地位を手に入れ、毒によって死ぬのである。これこそ自滅的な「死」の典型と言える。その点でいえば、復讐心というハムレットも抱えていたものによって、ハムレットを殺そうとし、さらに実際に殺した罪によりレイアーティーズも死ぬのである。彼もまた用意した毒で亡くなっており、自己の罪によって自滅的な最期を迎える。
ではハムレットは何が罪でなくなったのであろうか。一見すると、関係ないポローニアスを殺したことにあるように思えるが、実際はそうではない。そもそも復讐心を持たなければこのような結末は迎えなかったと言える。つまり、彼はまだ浄化し切っていない王の亡霊の戯言を聞き入れ、行動に移し多くの人々を巻き込み最悪の形としてポローニアスを殺し、それをきっかけに新たにオフィーリアの自殺と、王やレイアーティーズの計略へと物語が展開し、その結果皆が亡くなる。ここから彼は2つの罪を犯している。1つは浄化されていないものの言葉を信じたことであり、もう1つは他者を殺したことである。だからこそ、ハムレットの父の「死」を暗示する毒と、ポローニアスの「死」を暗示する剣の2つが合わさった毒が塗られた剣で命を落とすのである。つまり、ハムレットもまた自己の犯した罪をそのまま受け止めて死ぬのである。
このように、『ハムレット』の中の「死」はハムレット自身の視点からでないとそのように見なせない「死」もあるが、自滅的な「死」を取扱っていると言える。
3、『リア王』における「死」―積み重なり集合する稀薄な「死」―
『リア王』は老王リアが退位にあたり、3人の娘に領土を分配することを決意し、親孝行ものに土地を譲ることにしたが、真実を述べるコーディーリアに対して激怒し、勘当を言い渡した後、他の娘たちに全て譲ることにするが、このことが契機となり悲劇へとつながる作品であり、最も死者の数が多い作品と言える。
しかしながら、良く見てみると、舞台上で明白に死んでいくのは、第一の召使いとオズワルドとリア王のみであり、他の人物たちは死にそうになって舞台から退場し、他者によってその死が完遂されるのである。つまり、主要な人物にも関わらず他の四大悲劇と比べると稀薄な「死」なのである。『ハムレット』では自殺したオフィーリア以外は全て舞台上で亡くなるし、『オセロー』ではそもそも亡くなったと思われた人物が、死にそうになって退場したにもかかわらず、舞台袖では生きているのである。
例えば、舞台上で殺された第一の使いによって手傷を負わされたコーンウォールは血が止まらないことを強調し、死にそうになった姿を観客に見せつつリーガンに支えられて退場する。ここでは死んだのか生きているのかが判断できないが、場面が変わり使者によってその死が告げられる。
次に亡くなるオズワルドはエドガーと対峙して殺されるが、彼の死は一見すると第一の召使いやリア王と同じように、舞台上で亡くなっているとみなせるが実際はそうではないと言える。なぜなら、舞台上で観客には見られているが、オズワルドは他者に看取られることなく死ぬのである。確かに殺した張本人であるエドガー以外にもグロスターが存在するが彼は既に視力を失っており、オズワルドが亡くなったことをエドガーの口伝えで知るのであり、オズワルドの「死」もまた稀薄な「死」の中の1つに過ぎないのである。
その後の「死」は立て続けにしかも視覚外で生じる。グロスターの死を息子のエドガーが伝え、リーガンとゴネリルの死が伝えられ、コーディーリアの死が伝えられ、エドマンドの死が伝えられる。主要な登場人物にも関わらず、彼らは希薄に扱われているのである。そして、最後にリア王の死により話が閉じる。最後にエドガーが「最も年老いたる者が最も苦しみに耐えた」(p.199)と言っており、このことから稀薄な「死」たちの意味が明白になる。彼らの「死」を受け止めるのは観客ではないのである。彼らの「死」を受け止める主体はリア王自身であり、彼は全ての「死」を受け入れた後、全員の罪を背負い自身の命を失う。リア王自身は老齢により、正常な判断が出来ない老人のように見え、『ガリヴァー旅行記』の中に出てくる死なない人の醜さと同じように、老化は美しくないと言わんとしているように見えるが罪を犯したというほどではないだろう。彼は罪を受け止める存在であり、罪を犯すのが仕事ではないのである。だからこそ、エドガーが述べたような存在として描かれ物語が結ばれる。
このように、『リア王』では罪を受け止め、全ての罪を浄化する役割を担う存在が描かれており、王以外の人物たちの「死」は稀薄に見える。ただし、第一の召使いだけは皆に見られるのは、主要な登場人物の「死」の契機であり、また主要な登場人物たちが明白に起こした罪であるからこそ、描かれるべき「死」なのであろう。しかも、この「死」を先頭にすることで、描かれる「死」から始まり、描かれる「死」で終わるという構成上の均整も取れており、第一の召使いの役割は物語の上で重要な位置を占めているのである。
4、『マクベス』における「死」―罪意識を掻き立てつづける扇動的な「死」―
『マクベス』は3人の魔女の不吉な予言と、妻の言葉に煽てられ、王位の座を手にするが、王位に就いた後も手を手で染めていき、最期には殺されてしまうという物語である。『マクベス』において人の「死」は『リア王』ほど稀薄でないにせよ、少なくない。だが、それらの死は確実にマクベスを苦しめることになるのである。マクベスはまず予言の通り、王を殺してしまう。この段階においてマクベスは王を殺した罪に苛まされ、偽造巧作を提案する妻の言葉を耳にしても現場に戻りたくないと拒絶する。そのため、実際に行うのも妻となり、これによって妻も共犯者となる。この事件により、マクベス夫妻は明示的に罪人になったのである。この場面以降では常に罪人として認識されるわけだが、王は恨み言を伝えたり、ましてや『ハムレット』やバンクォーのように亡霊になって出てきたりもしないし、そもそも王の「死」は見えない舞台袖においてなされているに過ぎないのである。それにも関わらず、マクベスにのしかかりこの後の行動を扇動させてしまう。罪意識は予言への意識を高めることになり、もう1つの予言へと乗り出すことになる。
そして、2番目の「死」である、バンクォーの暗殺は刺客によってなされるが、肝心の予言で王になると呼ばれたフリーアンスを殺すことに失敗する。この死の場面はギリシア神話の中にある創世記の話に似ている。ウラヌスを殺し、代わりに主神となったクロノスが子どもに殺されると予言され、子どもたちを体内に飲み込み続けるが、最後のゼウスのみは母親の計略で失敗し、予言通り殺されてしまうという点は、構造が似ていると言って良いだろう。しかしながら、神話との違いは予言が更新されるという点であろう。その結果、マクダフに打ち取られてしまうのがマクベスの運命となる。
バンクォーの「死」は運命に抗うことができないマクベスの不遇さを感じさせるのはもちろんのことだが、亡霊として出現し恐怖心を植え付けるとともに再度予言を聞きに行かせるように働いている。
そして次に行う行動は予言を防ぐために、マクダフを殺すことを決め、その結果その息子を討ち取ることになる。この場面ではマクダフの妻は殺されていないが、その後皆殺しにされたという連絡を受けるマクダフの様子からマクダフの妻も殺されたことがわかるだけでなくマクダフに縁のある人物たちの「死」が表現されている。これを契機にマクダフは行動に移すことになるので、結果的にマクベスは自身の運命へと前進させていることになる。
次の「死」はマクベスの妻の「死」である。彼女はマクベスが運命に向かって進んでいくにつれて、精神的に病んでいき、「死」を迎えるのである。それに対して、マクベスは悲観するのではなく運命として受領するのである。ここから、マクベスはいつの間にか運命の必然性を感じるだけでなく、運命への心酔を深めていくのである。
そして、一見無用に見える、小シュアードの「死」も、予言の内容を確信するようになり、力を与えるものとなる一方で、自身の最大の弱点として機能するようになる。その結果、マクベスは予言の内容に適合するマクダフによって殺される。
このようにマクベスは「死」を経験することで、予言を絶対的なものと思い込むようになるが、予言に基づいた行動を起こすことはその行為が従ったものでも、逆らったものでも、予言には常に「死」が付きまとっているため、マクベスが行動を促進する要因は、「死」を経験することにあると言って良いだろう。『マクベス』における「死」は罪が積み重なり、自身の行動を自然に規定し、運命へと突き進むような扇動的なものとして描かれている。
5、『あらし』における「死」―プロスペローの望みに反する「死」―
四大悲劇とは異なり『あらし』では「死」を望まないし、「死」は生じないのである。舞台袖の「死」もなく生きていることを明示しており、その点では『オセロー』に似ているのかもしれない。しかしながら、オセローが信頼を寄せたイアーゴーは策略の犯人であるのに対し、プロスペローが信頼を寄せたエーリアルは指示を完遂する存在である。『オセロー』との違いは信頼を寄せた人物自体の問題があるのである。イアーゴーは十分に裏切り素因を抱えているのに対し、エーリアルは救われた身であることから服従をしており裏切りの可能性は極めて低い。
また、『ハムレット』と比較すると、王は計略で死んではいないのであるから、「死」によって報復する必要性がなく、アントーニオーもまた追い出したことは悪行と言わざるを得ないが、取り返しのつかない罪を犯しているわけではない。そのような取り返しのつかない罪になる可能性をゴンザーローがプロスペロー達に食料支援をしたことで救われているのである。つまり、ゴンザーローという存在がプロスペロー達の「死」を遠ざけただけでなく、アントーニオーの罪も遠ざけたのであり、現世での救済が十分に可能な状況を作り上げているのである。
『リア王』のように、登場人物たちが罪を抱えていないのであり、またプロスペローはミランダとファーディナンドの婚姻によってアントーニオーやアロンゾー達との和解を目指しており、和解を目指さず老齢さのあまり正しい言葉に耳を傾けられず、また許した方が良いという提案を拒絶した頑固な王ではないことから、プロスペローは「死」の連鎖の中へと巻き込まれ全ての「死」を受け入れる存在にはならず、むしろミランダとファーディナンドという若人に和解の役目を譲ることで罪を受け止める存在となる子も免れている。
そのような「死」の連鎖からの免れは『マクベス』とは異なり、結果的に「死」によってツミ[積み、罪]重なる自己の運命の固着も免れ、「死」による浄化も不要なのである。
このように見てみると、四大悲劇の主人公たちがなしてしまった行為をプロスペローは一切していないのであり、しかも「死」による浄化に求めるのではなく、現世での決着とその後の余生を意識していると考えられる。だが、最も大きな違いは事の責任を負わなかったことにある。四大悲劇の主人公たちはその物語の中で起きた責任を取るために死ぬのであるが、先にも述べたようにプロスペローは若い2人にそれを任せている。つまり、彼はエーリアルだけでなく、ミランダもファーディナンドも信じていたのである。何より現世での救済を成功させたいプロスペローにとってはそもそも浄化としての「死」であっても不要な産物と言わざるを得ない。つまり、プロスペローは舞台上・舞台袖で「死」が生じることは自身の「死」を意味することを理解していたのではないだろうか。だからこそ、彼は自己の「死」を遠ざけるために他者の「死」を遠ざけたのである。
6、まとめ
シェイクスピアの作品において「死」には多くの役割を持つことがわかった。特に、浄化としての「死」と、罪を被る者としての「死」という特徴は多くの作品で共有されているようである。つまり、作品ごと差異はあれども基底の「死」の概念は変わらないように感じる。だからこそ、シェイクスピアは『あらし』の中で「死」を描かないのである。現世での救済を願う登場人物にとって最も遠い解決策である「死」は『あらし』にとってまさに無用の長物であり、物語を一切盛り上げることはないだろう。つまり『あらし』においても「死」の含意することは四大悲劇と変わらない可能性が高いが、『あらし』においての「死」の効用はそれを避け続けることにあるのである。悲劇においては通過し続けるものであるのに対し、『あらし』では避け続けるものなのである。これはモチーフの転倒と見ることもできよう。つまり、「死」のように物語を着色するのに強力なモチーフを通常とは異なる形で利用することで、新しい物語の描き方を提示しているようである。
7、参考文献
・シェイクスピア ウィリアム『オセロー』福田恒存訳、新潮社、1973年。
・シェイクスピア ウィリアム『夏の夜の夢・あらし』福田恒存訳、新潮社、1971年。
・シェイクスピア ウィリアム『ハムレット』福田恒存訳、新潮社、1967年。
・シェイクスピア ウィリアム『マクベス』福田恒存訳、新潮社、1969年。
・シェイクスピア ウィリアム『リア王』福田恒存訳、新潮社、1967年。
・シェイクスピア ウィリアム『ロミオとジュリエット』河合祥一郎訳、角川書店、2005年。
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