Virtual存在とは何か

1.緒言(のようなもの)

 我々Vtuberというのは、2D又は3Dの動作する「アバター」と呼ばれるキャラクターの体を有し、Youtubeにて動画投稿や配信等をする人たちのことである(※所説あり)。しかしVtuberに限らず、Virtualな肉体を有して活動する人たちは多い。これをVirtual存在と呼ぼう。

 しかし不思議なものだ。これらは、アバターと呼ばれる存在を「生きている」ように扱っているのだ。我々の世界では「中の人」や「魂」等と(大体は忌み嫌う意味でだが)言われる現存在があることだろう。しかしそのVirtualな存在以外の存在による観測では、現存在とは即ち「アバター」であることが多い(※身バレVと呼ばれる存在においては、身バレしている相手からすれば現存在はその中の人に向くかもしれないことに留意する。)。ここでは、「中」と「体」、この二つが分離している事による諸々の謎について考えていきたい。

2.アニメ等のキャラクターとVirtual存在の違い

 ここで一つ、考えなければならない問題がある。それは、「アニメのキャラクターと何が違うのか」ということだ。アニメのキャラクターというのは、「(ある意味において)Virtualな体を有し」「中の人とも呼べる声優によって」「動く存在」と言えるだろう。これは、Virtual存在ととても似通っている。しかし現に我々は、Virtualな存在とアニメのキャラクターとは明確に区別して考えているだろう。その理由は恐らく、「意思」の存在だ。

 アニメのキャラクターというのは、「台本」があり、声優がその台本を「読む」ことで、その存在を発現させる。このキャラクター達には意思は無く、我々は「作者」という意思ある存在によりそのキャラクター達が意思があるものと「錯覚させられている」。あたかも彼らが彼らの世界で意思を持っているように感じているだけであり、彼らもその世界も全て実在してないと捉える事が可能だ。

 ではVirtual存在はどうだろうか。少なくとも、この存在には「中の人」と呼ばれる現存在が存在する。この存在は意思があるのだから、アバター達には意思があると捉えることができる。故に、彼らの世界は実在せず、アバター達も実在するとは言えないが、少なくともそこに「意思は存在する」と考えられる。

 しかしここでまたもや困ってしまう。Virtual存在もまた、「中の人」がある種の作者とも言えることだ。彼らはそのアバターがどのような存在なのか空想し、その架空の存在に合わせて意思を吹き込む事が多いのだ。であれば、アニメのキャラクターと何が違うと言うのか。

3.ペルソナと呼ばれる仮面たち

 ペルソナという言葉を聞いたことはあるだろうか。この言葉は元々、古代の劇の仮面を指す言葉だ。我々は状況に合わせて様々な仮面を被って生活をする。それは、「外の顔」と言われたり、「ありのままの姿」と言われたり、様々だろう。しかしそれらは全て「その自分という名の仮面」を被っているに過ぎないともいえる。であれば、少なくとも各個人が演じるVirtual存在というのは、一つの仮面の形態と言えるだろう。よって、ここに現存在と変わらない「意思」の存在があることもわかるだろう。

 しかしアニメのキャラクターは違う。彼らは作者の脳内で作られたキャラクター達なのだ。故に作者のペルソナではなく、それこそ架空の人格であるべき存在だ。しかし、意思は作者によるものである。よって、作者の意思によるものではあれど、それは作者のペルソナではない(※一般的には)。ここがアニメのキャラクターとVirtual存在を分かつ部分だと考える。

(備考:今回は分かりやすくアニメのキャラクターとしたが、これはつまり、演劇の役者でも同じ事が言えるだろう。姿形は現存在であるものの、その意思は作者によるもの、その役はその架空の世界の物だからだ。役者は実際に「なりきる」ことはできるが、しかしそれは「彼ら自身」ではないことこそが重要だ。)

4.主観と客観

 これまでにより、Virtual存在の区別はできた。では、次はVirtual存在について主観的立場と客観的立場による違いについて考えていきたい。

 「中」なる現存在は、「外」なるアバターと自身とで明確な違いを感じる。これは、容姿なり、性格なり、人それぞれであるものの(※ごく少数であるものの、明確な違いが殆ど無い場合がある。例えば、現存在の姿形をそのままデータ化してアバターとし、自身を一切変化させることがなければ当然違いは生まれにくくなる。しかしそれも完全な違い無しという訳ではない。それは、動作や存在する場所において、現存在とアバターとで乖離が起きるからである。)、しかし絶対にあるものだ。この視点を主観的視点としよう。主観的視点では、我々は明確な存在の違いを認知することが可能ということだ。

 逆に客観的視点、つまりそのアバターの現存在以外の現存在による観測を考えてみよう。今度は、認知可能なものは「外」なるアバターのみとなる。客観的視点においては「中」なる現存在はあまり意味をなさず、その影、または仮面とも言うべきアバターとその意思のみを重要とする。この時、「中」なる現存在は彼らにとって存在しない。彼らにとってはアニメのキャラクターもVirtual存在も差は無い。何故なら、客観的な観測者側からすればその裏の現存在とはそのキャラクターそのものだからだ。

 恐らく、「Virtual存在(特にVtuber)は、我々現存在と対話が可能なのだから、客観的に観測しても違いがあるのではないか」という意見が出てきている方もいるのではないだろうか。確かに、ある意味においてその応答性は意思の面から違いのように感じられる。しかし、よく考える必要があるのは、対象となる世界だ。アニメの世界とは我々の世界とは完全に隔離されている。よって、アニメの世界のままではそのキャラクターがこちらとの応答性が無いのも当然だ。しかし、Virtuak存在は違う。彼らは、確かに架空世界にいるものの、それは我々の世界と意思疎通の可能な世界であるのだ。疎通が可能な世界にいて、実際に疎通ができない方が可笑しいのだ。もしそうならば、そのVirtual存在はVirtualの世界に入れたアニメとそのキャラクターでしかなくなる。また、裏を返せば、アニメのキャラクターも意思疎通可能範囲の世界へ持ち出すのであれば疎通(と錯覚)するようなことは可能だ。良い例が、自分で1から入力するようなチャットゲームだ。あの場にあるキャラクターは、開発者たちによりその意思や人格は決められており、その人格に合うように我々に機械的に応答している。開発者たちはそのキャラクターではないのだから、これはアニメのキャラクターと何ら変わらないだろう。

5.結局Virtual存在とは

 では結局の所Virtual存在とは何なのか。私は、以上を踏まえて「現存在の生み出す概念存在である」と考える。如何なる性格のキャラクターであれ、Virtual存在の内なる現存在は自身そのものの一つの仮面として存在を顕現させ、観測者はこの仮面しか見れない。よってこの存在は概念でしかありえず、それは現存在によって生み出される。だからこそ、Virtual存在は「現存在の生み出す概念存在である」と考えたのである。

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