見出し画像

天華百剣と名刀写し展レポ

岡山県津山市にある津山郷土博物館にて行われていた展示に行ってきました。20振りの写しと大きな槍の鞘が並んでいるのは壮観でした。

津山市では津山松平藩に伝わった天下の名刀、童子切安綱と石田正宗の再現プロジェクトに取り組んでいます。
この企画展では知られざる郷土の歴史的資源にスポットをあて、郷土博物館のリニューアルオープンする本館において人気コンテンツ「天華百剣」とコラボし津山に関連の深い刀剣や全国の名刀の写しを展示したものになります。(byパンフレット)

私が普段書いている刀剣乱舞コラボではないです。

天華百剣コラボですのでご注意を。



実は小学校時代は津山に住んでいた筆者。中学進学とともに引っ越したものの人生の半分以上を過ごした思い入れの強い土地でもあります。

郷土博物館も以前来たことがあります。あれは小6?の社会科見学でしたかねえ。博物館の火縄銃を触らせてもらった記憶があります。意外と重かったような…記憶はあいまいな部分が多いようです。

郷土博物館に行く前に登ったのは日本三大平山城の一つである津山城。現在は鶴山公園として桜の名所となっています。

さて、津山藩の歴史とともに説明していきましょう。

津山藩の初代藩主は外様大名の森忠政。
誰?と思う方も多いでしょうが、森という名字でピンとくる方はいませんか?

そう、織田信長に仕えていた森蘭丸の弟です。森可成の6男(末っ子)です。
森忠政が立藩した際、従来の鶴山(つるやま)から津山へと改められました。
現在の鶴山(かくざん)公園の鶴山は津山の昔の呼び方というわけです。

一度領地を召し上げられたものの再襲を許されています。

元禄11年(1698年)に徳川家康の次男、結城秀康を祖とする越前松平藩分家の松平宣富が藩主となったことで外様から親藩に代わり、廃藩置県まで松平氏が治めることとなりました。

意外と重要な人がいるな?というのが歴史を学んだあとの人間の感想です。徳川の血縁ってなかなかでは?刀剣乱舞をしてる人間としては狂喜乱舞って感じです。というか蘭丸の弟だったというのを初めて知った筆者です。

現在鶴山公園には津山城天守閣は存在せず、備中櫓だけが再建されており見学することができます。

画像1


津山藩森家は鶴を家紋としていたためか中の障子を見ると、鶴の紋がびっしり。

画像2

とうらぶ好きな筆者としてはなんとなくテンション上がりますよね。
厳密には違うものの、鶴丸国永の紋とよく似ており嬉しくなりました。

それだけではなく、備中櫓の瓦には三つ葉葵と右三つ巴の紋もありました。
津山藩松平家は徳川の三つ葉葵を使っていたようですが結城の右三つ巴も使っていたということなのでしょうか。何にしろ再建した建物だし、筆者はそこまで詳しくないもので。

画像3

昔は家紋まで意識が向かなかったので鶴の家紋も徳川の三つ葉葵も結城の右三つ巴も何も知りませんでした。

いろんな新発見と昔の記憶の補完をしながら見て、郷土博物館に足を運びました。
天華百剣のパネルがお出迎えしてくれました。

画像4

郷土博物館は古代から順に津山の歴史や遺跡が学べるようになっています。

珍しいものと言えばパレオパラドキシアの骨格復元模型とかでしょうか。津山で発見されたものの復元だそうで、昔も見た記憶があります。
あとはまあ、いろんな文書だったり、出土した焼き物だったりが並んでいますがほぼスルーしたので割愛。

昔の津山城の復元模型もあって、なかなか大きいので見ごたえがあります。今は備中櫓しか残ってないのが残念でなりません。天守閣残ってたらもっとすごかっただろうに…
平山城なので意外と遠くからでも見えるんですよね。周りに大きな建物もないし。何分田舎なもので、高層ビルとかないんで…ええ。

閑話休題

今回のメインである刀剣の写しは三階の展示室にありました。

写真撮影可だったので写真もどんどん出しますよ~
へたくそなのは気にしないでね。


もう一度言いますが今回の刀はすべて写しです。
お間違えの無いようご注意を。
刀の名前は展示にのっとって表記しています。
感想はすべて鑑賞素人な筆者の主観に基づいて書かれております。
ご了承ください。

写真より上が博物館にあった解説を要約したもの、写真より下が筆者の感想になります。


1、岡田切吉房
 刀匠:木村兼光

吉房は備前福岡一文字派の刀工で、織田信雄が岡田助三郎重孝を切り捨てたことから名前が付いた刀です。
華麗な重花丁子の刃文が特徴です。

画像5

一目見て福岡一文字派かなと思うような刃文が印象的でしたね。どっしりとしつつも華やかな印象の刀でした。


2、厳島の友成
 刀匠:三上貞直

平安時代の古備前物の刀匠、友成の太刀です。
友成の作は、抜群の刀姿の良さと透明感のある地鉄に定評があります。
平宗盛(別説:平教経)が厳島神社へ奉納したもので、当時の姿をとどめた貴重な作です。

画像6

先程の岡田切吉房と比べると細長く刃文もシンプルです。
なんだかクールな印象を持ちます。
何でしょうね、先程のがかわいい少女ならこちらはクールな女性といったイメージでしょうか。


3、狐ヶ崎為次
 刀匠:宮入小左衛門行平

鎌倉時代の備中国青江派の名工、為次の作です。
新田義貞が鎌倉幕府を攻めるとき、狐ヶ崎の海岸で御太刀を掲げ祈念したところ遠浅となって鎌倉へ攻め入ることができたという霊験のある名刀です。

画像7

反りが大きな印象でした。身幅はそこそこ広めだと思います。あと、茎部分が大きめなのかなとも思いました。


4、鯰尾藤四郎
 刀匠:木村兼嗣

山城国粟田口はの名工、藤四郎吉光の薙刀直し(もともと薙刀だったものを脇差に仕立てなおしたもの)です。刀姿がナマズの尾に似ていることからこの名が付きました。
織田信雄が敵方である豊臣秀吉に内通した家臣を成敗するのに使ったと言われています。その後土方氏から豊臣家にわたったものの大坂夏の陣で大阪城落城とともに焼身となりますがこれを惜しんだ徳川家康が越前康継に再刃させました。

画像8


確かにしっぽのように見える刀姿に鵜首造が特徴的な刀です。
個人的にこの鵜首造の刀姿が好きです。
骨喰藤四郎を見たことがありますが、なんとなく似ているような?どちらも薙刀直しですから雰囲気が似るんですかね。


5、五虎退吉光
 刀匠:木村兼光

鯰尾藤四郎と同じく藤四郎吉光の短刀。藤四郎吉光は短刀の名手として有名でした。
足利義満が派遣した遣明船の使節団が虎に襲われた際、五頭の虎を退けた逸話に由来します。足利義満から天皇家へ献上され、正親町天皇より拝領し、上杉家へ伝来しました。

画像9

反りがないのと護摩箸の彫りが特徴です。去年の11月に福岡で本歌を見たときにも護摩箸と直刃の刃文が印象的で、五虎退の刀身には護摩箸があるということはしっかり覚えていました。


6、山鳥毛一文字
 刀匠:大野義光

鎌倉時代の備前国福岡一文字派の作。
刀剣史上最も華麗かつ複雑な刃文を現出し、山鳥の羽毛を思わせることから名前が付けられました。
上杉謙信の愛刀の一つ。五虎退と同じ場所にいた刀ですね。

画像10

岡山県立博物館に本歌が展示された時にも思いましたが、刃文が本当にきれいなんですよね。ぱっと見たときのインパクトが非常に強いです。
福岡一文字派の重花丁子の刃文は研ぐのが大変なのではと思った記憶があります。
本歌には、はまちから少し右の所に欠けた部分があります。


7、謙信兼光
 刀匠:三上貞直

兼光は南北朝時代の備前国長船派の棟梁鍛冶。時代の需要に合わせた作が残っており相伝備前の作まであります。切れ味のよさでも定評があり、多くの大名物として現存するものが多いです。

画像11

この刀自体のことはよくわかりませんでした。調べても出てこず…ご存じの方教えてくださいな。
切っ先が大きく波紋がはっきりしているなという感想を持ちました。


8、小豆長光
 刀匠:久保善博

長光は鎌倉時代後期の備前国長船派の棟梁鍛冶。
名前の由来は割れた鞘から刀身が見えたところに落ちてきた小豆が真っ二つに割れたことから名づけられました。
上杉謙信が川中島の戦いで武田信玄を切りつけたときの佩刀とも言われています。

画像12

切っ先が大きく刀身もそこそこの身幅があったように思います。
前二つが割と派手な刃文だったのですごくスッとした印象を持ちました。
名前の由来見て、小豆”切”ではないんだなと思ったり。ほら、何かを切った刀って○○切って名前が多いじゃないですか。


9、大般若長光
 刀匠:宮入行平

室町時代の鑑定で六百貫ついたことから六百巻ある大般若経とかけて名前が付けられました。除災招福、鎮護国家を祈念されています。
足利将軍家や織田信長、徳川家康などの手を渡ってきました。
関東大震災で曲がってしまいましたが修復されました。

画像13

この刀は去年の夏に九州国立博物館で本歌を見ましたね。その時とはまたちょっと違う印象を持ちました。時間がたっているのもあるかもしれないですけど。
なぜか刃文よりも茎尻が印象に残りましたね。


10、稲葉郷
 刀匠:宮入小左衛門行平

鎌倉時代の名工正宗の弟子または兄弟弟子だったと言われる郷義弘の作。
戦国武将である稲葉良通が所持していたことから名づけられ名物となりました。
越前松平家を経て津山藩松平家へと伝来しました。

画像14


この展示では数少ない打刀です。すごい刀が地元にあったもんだと驚きを隠せない筆者。現在は岩国美術館にあるそうなのでぜひ見に行ってみたいです。


11、童子切安綱
 刀匠:三上貞直

平安時代の放棄の国の名工安綱の作。
天下五剣の一つで現存刀剣の横綱ともいわれるほどの名刀です。
源頼光が酒呑童子を退治したときの佩刀と言われておりそこから名前が付けられました。
室町幕府が所持し足利家から豊臣秀吉、徳川家康へと伝来し越前松平家を経て津山藩松平家へと伝来しました。

画像15

今回の展示の目玉の一つです。
1月に奈良で本歌と写しを見たばかりでした。
切っ先が小さくだんだんと細くなっているのがよくわかります。
刃文もきれいなのですがこの刀身の色が好みでした。


12、石田正宗
 刀匠:宮入小左衛門行平

鎌倉幕府お抱えだったという相模の国の名工。
石田三成が所持していたことから名前が付けられました。さらに、刀身に戦闘における受け傷が無数に残ることから「切込」の名が付きました。
宇喜多秀家から石田三成へ贈られ、襲撃事件の折、護送してもらった謝礼に結城秀康に贈ったとされます。その後越前松平家を経て津山藩松平家へと伝来しました。

画像16

童子切と並んで、展示の目玉の一つです。
小ぶりなわりに身幅が広い印象を受けました。


13、城和泉正宗
 刀匠:宮入小左衛門行平

鎌倉時代の相模国の名工正宗の作。のたれ刃の奥底へ入り込むかのような沸の輝きが魅力的です。
元武田信玄の家臣で後に徳川家康に仕えた城和泉守昌茂が所持していたことから名づけられました。江戸期には城家を離れ津軽家の所持となり、津軽正宗の号も持ちます。

画像17

切っ先はそんなに大きくないかなと思いました。
ゆったりとした刃文が印象的でした。


14、小烏丸
 刀匠:三上貞直

平安時代の天国と呼ばれる伝説に近い刀匠の作。
手元は腰ぞりのある片刃の太刀だが切っ先から三分の一ほどが両刃の剣となっています。平家の重代の家宝だったと言われています。
特異な姿と伝来から多くの写しが作られ、「小烏丸造」という刀姿の一つとして定着しました。
明治時代以降は元帥刀の姿として採用されました。

画像18

小烏丸造は鵜首造と同じく個人的に好きな刀姿のひとつです。
切っ先両刃の類が好みなんだと思います。
奈良で見たものより刀身が短く身幅が広いように感じ、どっしりとした印象を受けました。


15、金地螺鈿毛抜形太刀
 刀匠:吉原國家

毛抜形太刀は、茎に毛抜きを二つお尻合わせにした形をすかし彫した太刀で、現在の日本刀の原型と言われます。平安時代には「衛府太刀」とも呼ばれ、天皇を守護する人々の正式な太刀として用いられました。

画像19

これも奈良で見たものの写しですね。
本歌は刃が見えない状態(鞘に収まった状態)の展示だったので、刃を見るのは初めてです。茎部分が大きく反っていることと切っ先が角ばっているのが印象的でした。


16、物干し竿
 
刀匠:松葉國正

宮本武蔵と巌流島で一騎打ちを行った佐々木小次郎が所持していたといわれる佩刀。
加幕田時代の備前国長船派の長光の作で刃長が三尺(約90cm)ほどあったと言われています。
佐々木小次郎の手に渡った経緯や反りの大きい長光の作が物干し竿に見えるのかなど、とにかく伝説の佩刀です。

画像20

なんといっても長いなというのが一番の感想でしょうか。
長さ的には大太刀の部類に入るのでしょうか。
この長さの刀を振るっていたというのは想像がつかないですね。


17、津田越前守助廣
 刀匠:尾川兼國

助廣は江戸時代中期に大阪城代の青山家お抱え工として活躍しました。彼の作った御刀は大業物にランク付けされるほど抜群の切れ味で名を馳せました。
嵐の海のうねりを彷彿とさせた刃文は鯉口を切った瞬間に煌めき多くのサムライを魅了しました。

画像21

反りが小さく身幅が広い印象を持ちました。
解説にあった通り、海のうねりのような大ぶりな刃文がとても印象的でした。


18、にっかり青江
 刀匠:三上貞直

平安時代から南北朝時代にかけて備中国で活躍した名工集団の青江派の作。身幅の広く大切っ先の姿は南北朝時代に作られたものです。
ある日の夜道でサムライに声をかけた女性が物の怪だと察し切り捨てたところ、にっかりと笑いながら消え、その翌日その場所を改めてみてみると石地蔵(別説:石灯籠)がすっぱり切れていたという話が号の由来です。魔を斬り、石をも切った名刀というということで号されるようになりました。

画像22

思っていたより刀身が長かったです。大脇差というかもはや打刀では?と思ってしまいました。身幅も広かったです。
にっかり青江ですが、見たときになんとなくへし切長谷部と似たような雰囲気を感じました。
共通点は大太刀を磨り上げたことですが、磨り上げの刀はなんとなく雰囲気が似るんでしょうか。鯰尾と骨喰みたいに。


19、包丁正宗
 刀匠:上山輝平

現存する刀剣の中で特異な姿をした御刀の一つで、名前の通り包丁のように幅広い姿が特徴。二筋樋などの透かし彫を入れ、軽量化と神仏の加護を兼ね備えています。

画像23

「うん、たしかに包丁っぽい」と思いました。
とても特徴的な刀姿ですが、私はそんなに好みじゃないですかねぇ。身幅の広い刀姿は割と好きですがこの刀身の長さだとちょっと好みから外れます。
両端が見切れちゃってます。ごめんなさい。


20、後藤藤四郎
 刀匠:石田四郎國壽

五虎退吉光や鯰尾藤四郎と同じ粟田口派の名工藤四郎吉光の作。ただ、吉光の作の中では大ぶりで、かつ乱れ刃となっていて珍しいです。
江戸初期の金座の元締めをしていた後藤庄三郎が所持していたことから名づけられました。
後藤家から譜代大名の土井家へ、そして三代将軍家光の時に土井家から献上され家光の娘の婚礼のご祝儀として尾張徳川家へ贈られました。

画像24

隣が包丁正宗ということもありすごく細身な印象を受けました。
反りは無しですかね?
個人的に直刃の刃文が好きなのですが、乱れ刃のこの刀にとても惹かれました。
「鋭利なもの」という印象を受けます。刃物なので鋭利なのは当たり前なんですけど、若干冷たいような印象を受けました。伝わるかなぁ…


展示について

展示自体はとてもよかったと思います。今回の展示は天華百剣という知らないコンテンツとのコラボ展示でしたが、展示されている刀のラインナップが非常に豪華だったと思います。というか、写しとはいえ20振りもの刀を一気に見られるというのはとても楽しかったです。

身長が低い私(153cm)でも刃文がとても見やすかったですし、一部の刀剣は横から見ることもできたので刀の厚みなんかも見ることができました。関連資料もいくつかあり、武具もいくつか見ることができました。
最初の展示室のガラスが真ん中で重なっているところは少し残念でしたけど、それでもきれいに見えたので良かったのではないかと思います。

館内自体もとてもきれいで明るかったです。

画像25

キャラクターの解説も一つ一つありましたし、今回の写しのプロジェクトについてのパネルもあり、充実した内容だったのではと思います。

岡山の県北という田舎ですが昔はなかなかに重要な人がいたのではないかということも知りましたし、自分の地元が童子切安綱や石田正宗などの名刀に縁のある地だというのを知りとても嬉しくなりました。ぜひまたやってほしいなと思います。

残念だったのは3点。

1、刀自体についての解説が少なかったこと

各刀剣の伝来と作刀者の紹介はあったものの、刀自体に触れている内容は少ないように感じました。

刀身、反り、刃文、切っ先、地肌などの解説がもう少し充実していると嬉しいですね。
個人的には一つ一つにこれでもかというくらい詳しい解説があればうれしいですが、一つ一つでなくても展示室のどこかにこういう刃文がありますよとかそういうパネルが一つあれば鑑賞のとっかかりになりやすいのではと思いました。
自分で判別するのは難しいのでこういうレポを書くときに間違った情報を載せそうで少し怖いです。間違ってたらごめんなさい。

2、愛染国俊がいなかった

これは完全に自分のことなのでここに書くのは少し違うかもしれませんが…。
筆者は刀剣乱舞ユーザーで来派好きなので愛染国俊(初代藩主森忠政の刀)を期待していましたが、なかったので少し残念でした。
天華百剣にも愛染国俊はいるようですが今回は見ることができませんでした。次は展示してくれたらうれしいなと思います。
というか、刀剣乱舞とコラボしませんかね。毎週通いますよ。

3、図録がない

これはあってもよかったのではというものですが、図録とか写真集とかあったらほしかったなぁと思ったり。もしかして私が見逃した?物販はほとんどないのが残念でした。


感想

今回は、息の詰まるような感覚がなかったので少し不思議な感じでした。あれはやっぱり、刀が吸ってきた時代の空気とか戦闘の跡とかが関係するんですかねぇ。
刀の出す威圧感がなんとなく現代の刀と昔の刀では違うと感じてしまいます。

久々の刀の鑑賞はとても楽しかったです。
本当は秋に丸亀に行ってにっかり青江を見る予定だったのですが展示が無くなってしまったので次に行くとしたら、長船の山鳥毛の展示でしょうか。あれはとうらぶコラボが決まっていますし、多くの刀が所蔵展示されているので時間を見つけて行ってみたいと思います。

それでは、今回はこれで終わりたいと思います。
ここまでお付き合いくださった皆さんありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?