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数字の魔力

突然ですが、私は昔から数字が苦手です。学生時代一番悩まされたのは数学ですし、今も苦手感があります。しかし夫は数学は言語だ。と言います。
確かに国を超えても理解ができますし、中には美しい数式などというものもあるそうで。(笑)音楽も数学の一部だとも言えるらしくその点においては私には全くわかりませんがスゴイなーとは思うものの全く理解を超えた話でもあります。

で、
私が言っているのは数字という大発明によって数学という言語が生まれ、その便利さや人類にもたらした恩恵は疑うところはなく、パソコンだって数字がなければ発明されなかったでしょうし、そうすると私がこの「note」に文章を書くこともできなかったわけで。
何を言いたいかというとつまり

数字はめっちゃ便利
しかも人間の文明に不可欠
ちょーすごい発明

って事なんです。

じゃあいいじゃアーリませんかって(古いっ)

いやいや
よく効く薬に副作用が有るように、数字にも副作用があると思うんです。

私たちが数字にしてモノを語る時、本当は実態が見えなくなっているのではないかと思うのです。

先日あるお母さんが、私のところに泣きながらやって来ました。
お子さんが知能検査を受けてIQが70台だったとのこと。
「うちの子もう将来は就職無理ですよね。私が居なくなったら、生活保護とかになるのでしょうか?」とお母さん。

ちょっと飛躍し過ぎやろ!と思うかも知れませんがお母さんは大真面目です。数字を突きつけられて。頭の中は数字でいっぱいになりました。
一度の検査。しかも幼い子どもであること。かなりの幅がある検査で、一つの目安であることを伝えても70という数字は目の前のお子さんの実態を見えなくしてしまいました。数値よりもも中身が大切でその意味を支援に生かすことが大切と知っているにも関わらず数字の威力は凄まじいものです。

思えばダイエットだってそう。体重が50キロっていっても筋肉や脂肪や骨の総量が重さなのに、いつか数字だけを追い求めてしまう。結果、健康を損ねたり本末転倒的な結果になったりしますよね。
脂肪の50キロと筋肉の50キロは数は同じでも内容は全く違うのに。

考えて見ればお金も数字です。人は便宜上お金という数字を発明したはずです。確かにそれは私たちに文明と富をもたらしましたが、100億200億などといった数字に踊らされ、まったくリアリテイのないマネーゲームが人を豊かにするでしょうか。
大切なのは数字に振り回されることなく、時間をかけて命を削りながらリアリテイのある人間が何かを生み出したり、分け合ったりして生活していることです。

歴史を紐解いてみても数字は機能的で、独裁者や為政者にとっては都合の良い道具でもあります。思えば捕虜なども番号で呼ばれます。個別性は消されるからです。数字には個別性を消すという意味も含まれているのだと思います。一人一人の個別性を大切にしない時、もののように人間を束ねたい時、便宜的に人は番号で呼ばれます。
この先も人が番号で呼ばれる世の中にはしたくないなと心から思います。


私たちはいつしか。数値化することがエビデンスを取ることだと思ってきました。何%。何億人。何位などなど数字は客観的、相対的に見るにはかなり便利なスケールです。
しかし。数字に着目するとき現実味がなくなります。50万人が飢えている。亡くなったのが100万人?その一人一人に物語があり、家族があり、人格があったリアリティーを数字から私たちは感じることができません。

目の前にいることもたちは一人一人違う。こんな自明の理を数字はその明確なわかりやすさ故に曇らせてしまうことがあります。

数字の魔力や危うさ便利さとともに、私たち支援者は肝に銘じておかなくてはならないと思います。


大切なのはリアルな身の前にいる唯一無二の生の人間であるということを。




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