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子ども食堂での様子/共感を通わせること

二本松市で「子ども食堂」の見学。
今日は、我が家の子供2人も参加。
(中学生の息子はお留守番。それもそうだよね^^;)

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近所で、「風の空」さん主催の子ども食堂が月に2回開催されています。
気楽に見学&参加を受け入れていただき、
「一緒に行ってみる?」の私のお誘いに、
次男(小5)と、三男(小2)が一緒に参加させていただきました。

この子ども食堂さんは、地域の方なら誰でも参加できる気軽さ&オープンさ。
そして、料理は大人と子供で一緒に作ります。
今日のメニューは、
1、しゅうまい
2、春雨サラダ
3、スープ
4、ご飯
5、ナタデココ
2人ともおかわりしてモリモリ食べて、美味しくいただきました。

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料理をしながら三男くん「どうせ僕は下手だし…」と玉ねぎのみじん切りがうまくいかないもどかしさを感じながら、自己否定しています。
「上手にみじん切りできない自分が嫌なの?」
って、聞いてみても、もじもじ…。
「そうなんだね。」
「その玉ねぎ、かわいいね。」って、声をかけながら、
「上手になりたいんだね。」って、
自分で上手と思えないのに、適当に「上手〜」って言われたくない。

「わかるな…その気持ち。」
「できない自分を感じるのって、嫌だよね。」
自分の小さな時のことを思い出し、いつも兄弟に囲まれて過ごす中、
小さい人扱いされることやダメ出しされることへの抵抗があったことを思い出す。
ダメ出しされないように自分を賢明に守ってきた自分を重ねて三男の気持ちを味わいました。

存在そのものを そのまんま見てあげるそんなスペースを感じながら、一緒に自分が癒されました。

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この週末はいくつもの気づきもあった。

今週は、ロープレやワークをする機会が多くありました。
NVCの共感がベースになります。

きりん学校のアドバンス、
オープンハートJP無料の練習会。

「共感」は誰のものでもなく、自分のためにしているという気づき。
そして、相手に共感するだけでは関係性が構築されにくいこと。
共感を目的にしてしまうと、「私」のいのちが脇に置かれたままになる。
自分に痛みがあると「私とは違う」と、分離思考が先に立つ場合もある。

「あなたそのものを尊重したい」つながりを相互に感じ会いたいし、その質を纏った言葉の選択を目指したい。

自分が脇に置いたままであることに無意識であると、共感された相手との間に、いのちを感じるような質を響き合わせたり、通わせるのが難しいという気づき。

確かに、共感された相手(自分)は、深く自分とつながることができる。
共鳴もできる。
でも、全く同じではない。

お互いのエネルギーそのものをかわす感覚で相手の存在を感じるところまでいかないもどかしさがあった。

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そこに何が必要かを考える。
巡らせながら、必要なことがみんなが場に差し出していくのを感じた。

「思いやり」
「相手とつながる意図」
「無防備さ」
「真性さ」
「純粋さ」
「諦めない」強さと挑戦
それを意図した時にあたらな視点が持ち込まれる。
「インパクト」に対する思いやり、
「場にあるものへの観察」
「相手を信頼する」
「自分への信頼」
「共にする場への信頼」
「オープンであることへの深さ」
癒しではなく、願う世界に進むために 私は何をしていきたいのかが見えてくる。
「私」が大事にしたい世界へ進むことを自分で選択できる。
それをみんなで体感できた時間を感じる場面がいくつか重なった。

「私」一人ではないのだ。
「私」が満たされるだけでは、一方通行。
「共に生きる」ところに立っていない。


自分のニーズを表現するだけが目的ではない。
自分のニーズに気づき、表現するまでではまだ途中であること。
そして「考え」や「反応」しているその人を変えるのではなく、
その存在をそのまま受け取り、自分の状態をそのまま受容し、
そこにただ存在すること。
私ができることは、「呼吸」すること。
そのままを吸い込み、
自分の内側を通して、自分の質感や体温、「私」を吐き出すこと。
それが世界の平和に向かうことを、もともと知っていることを思い出すことだった。

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この辺りは、ロープレが一番触れられるし、
エネルギーでつながる質感を感じやすく、深みを体験できる。
そういった練習の場を体験できる仲間がいること、
仲間ができたことにホッとした。

世界を「共に生きる」その世界に向かっていくように願い、小さな積み重ねの大切さを感じた週末でした。

愛がいっぱいの世界に子どもたちが踊り、歌い、笑う世界はもうすぐそこにきています

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