キリンであること キリンをすること
NVCでは、共感的に相手に寄り添う象徴として「キリン」を使用しています。キリンは首が長いので、血液を全身に回すのにために心臓が大きいこと、そして草食動物のため、葉に含まれる毒素を咀嚼し分解することが、NVCの共感的なコミュニケーションに重なると言われています。
ハートで受け止め、ハートから差し出し、ハートで寄り添い、ハートで響かせあう、相手を尊重し、相手も自分も大事にしている。評価判断がなく、自由で解放的てあり、どんな事が起ころうと 開いている。相手や周りを信頼している…そんなイメージです。
枠や型のない 存在が認められる居心地の良さ。
その対極に「ジャッカル」がいます。相手を思い通りにしよう、お前が悪い、お前のせいだなど相手のせいにしたり、常に評価判断や否定批判、方法解決が優先していることの象徴でもあります。
含まれるために、嫌われないように、置いていかれないように 必死に頑張って結果を出そうとしている。自分であることすら人の評価を欲する。なので軸がなく、言いなりや諦めを抱えている状態。
皆さんは、どちらで いたいですか?
どちらも 表現が違うだけで、ハートは同じ・・・人間。
どっちっが良い悪はない。、今まで培ってきた方法でコミュニケーションを行うと相手に攻撃的になっていたりしませんか?相手も攻撃性を感じたら、そのエネルギーに反応し受け取りにくい・・・
本当に伝えたいことを伝えられない状態、本当に伝えたいことを受け取ってもらえないのは残念なこと。
私は、今まで培ってきたその方法を手放すのに、苦労しています。
ついつい、そのスイッチが入ってしまうのです。
無意識に人に会わせようとか、顔色を伺ったり、声が大きい人、尊敬するような人には圧倒されて何も出なくなる、「それちがーう!」と考えがいっぱいになったらり・・・批判否定したくなる。聞いてほしくて自分のことしか見えなくなる。
いわゆる 私視点や社会性のスイッチ。
とある夜、NVC認定候補生でつながっている仲間とKD「非暴力コミュニケーションの重要な相違点」を掘り下げました。
お題は「キリンであること」VS「キリンをすること」。
"Being Giraffe" VS "Doing Giraffe"
各々の イメージや広げる世界観を共有し、深める時間。
私は「キリンをすること」をイメージできず、少し拒否するような感覚になり、頭の後ろ側から首筋が緊張で固まり、ぎゅっとしました。
この感覚・・・何だろう・・・悲しい・・・。
そう、身体で悲しいと表現している。なぜ?
その場では、自分に起きていることを正直に話をし、それぞれのキリンについて話を深めた。
仲間に十分に受け止めてもらった。
その夜には、自分が固まってしまった答えが見つからなかった。
「キリンをすることに」拒否反応を起こした理由。
朝になって、ふっと気づいたことが。
キリンでありたい。
キリンになりたい。
こうすればキリンで、人とつながれるんだ!!
そう思ってキリンにチャレンジし始めた、NVC入門の頃の姿は実に美しく、心や魂は希望に満ちていて・・・
でもやりなれない方法に難しを感じて、失敗する怖さもあって・・・しどろもどろしながらでも、私にはキラキラしているように見える。願う美しさ。
一方、意図的な策略があって キリンをしている姿もある。
そんな時に、悲しみがある。
私も、意図的なキリンをしてきたかもしれない。子供に対し、職場で、仲間のなかで。そう思ったらギョッととしてしまった。そう思ったら、キリンをすることを想像すらできなくなってしまった。
昨夜は、前者ではなく後者のキリンをイメージしてしまって 拒絶する自分がいました。絶対嫌だ!!
美しいさのあるキリン、
キリンができるできないではないんだろうな〜。見えている姿の他にキリンがある。
その人の心にあるキリンを大事にしたい。
NVCのプロセスは、形はあるけれど同じように使うことが目的ではない。手段として「形」を学ぶことは大事だけれど、そもそも目の前の相手とどうなりたいのか・・・その意図の重要性を改めて感じた。
NVCは家族やコミュニテイ、社会や仲間との関係性に 生かせる 手段。あなたが何を選択し、目の前の相手とつながるのかは、もしかしたら手段を超えた純粋さなのだと理解。
NVCの精神性を育む・・・そんな時間でした。
世界は愛でいっぱい♡
何をやるかではなく、何を大事にしたいのか。
「形」ではなく「心」を感じて生きていきたい。
あなたの心は、気づいているはず・・・自分が何を必要としているか。
〜自分とつながる〜