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突然書きたくなったことを

母方の亡き祖父は小中学校の教員だった。

母はそれを周りに言うことを極力避けていた。
それは過去の教師という立場がどういうものだったかを知っているからだと思う。
嫌っている人も居るかもしれないから、とちらりと零したことがある。

私が物心着いた時には祖父はもう定年退職を迎え、定年後の職も退職し、家で過ごしていた。

祖父は、社会科を教えていて文字と絵画が上手い先生。
私が知っている祖父の教員時代の話はこれだけだった。

実は私にはとても怖かった人という記憶がある。
まだ幼かった頃、祖父母の家に遊びに行った時に確か立ったままお菓子を食べてしまったら、座って食べなさいと怒鳴られた。幼心に恐怖心が残ってしまい、その記憶ばかりが強くなってしまった。

そして、教員時代の話など聞くことも無く、わたしが中学のころ、脳梗塞になり性格が変わってしまい、病院に入り、弱っていき、胃ろうの手術をし、会話も出来ぬままに私が高校を卒業する前に亡くなってしまった。
ただ、お見舞いに行く度にいつも、絞り出すような声で、帰りたい、と拭う事も出来ないままに涙を流していた。また来るね、が精一杯の言葉だった。

だから私は祖父がどんな教員だったのかを知らない。

話は変わるが、私が中学時代、不登校になってからとてもとてもお世話になった養護教諭が居た。
早期退職をされてしまったが、未だに交流がある。
命の恩人だと言っでも過言ではない先生。
その先生のお母様が祖父の教え子だった。(以下お母様)
お母様は祖父の事をとてもよく覚えていらして、また祖父の事をそれはもう、とても慕って下さっていたと先生から聞いた。
先生の退職時、私はお世話になった御礼にと先生に学校側の許可を得て頂き保健室の片付けの手伝いに行った。久しぶりに先生と二人、話をした。
丁度、私がパワハラで精神崩壊して休職寸前のことだった。
途中とても明るい女性の校長先生が様子を見に来てくださったり、差し入れを下さったりと此方が恐縮しきりだった。
片付けは無事終わり。

その後、先生から連絡があった。
コロナ禍で外食もままならなかった頃。
片付けの御礼と言ってはなんだけれども父が居ないので良ければ家でお昼ご飯を一緒に食べませんか、と。
(先生はご実家でご両親とお住いになってる)
お母様はいらっしゃるとの事で、緊張したけれどご好意に甘えてお伺いすることにした。

当日。先生の作ったカレーを戴きながら、お母様から色々な話を聞いた。
祖父は出会えばいつも名前を呼んで挨拶してくれたこと、祖父が当時書いていた作品を褒めてくれたこと、だからそれを続けられたこと、それが今でもずっと嬉しくて忘れられない事。
あれこれと聞かれたが私には答えることが出来なかった事も多く、母から事前情報を仕入れてくるべきだったな、と後悔した。

私の知らない祖父の話。
ずっと、本当にずっと祖父の事を嬉しそうに話すお母様の姿を見て、何だか教師の影響力って凄いんだなって改めて思った。

私の命の恩人とも呼べる先生と繋がった事で、お母様とも縁がつながった。お母様は祖父の事を未だに忘れること無く嬉しさと喜びを抱えて思っていて下さった。
それが何だか嬉しくて。

私が先生を恩人であり恩師と思うと同時に、先生のお母様も祖父の事を恩師だと思ってくださっていた。

まさかこんな因果の末に縁が繋がるなんて思わなかった。
そんな、話。

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