良く寝る猫と彼女の秘密。

今になって考えてみると、彼女はよく眠っていたと思う。

机にかじりついて国家試験の勉強をしている僕のあぐらの外側に頭をくっつけるようにして。勉強に飽きてコントローラーを握っている僕の投げ出した足を枕にして。夕食後の眠気に耐えきれず横になった僕の腕を引っ張って脇の下に頭をフィットさせて。

とりあえず彼女はよく眠っていた。いつも僕の身体の一部に触れながら。「誰かに触れていたほうがよく眠れるもの」といつだか笑っていたっけ。そのとき僕は「ああ、僕じゃなくてもいいんだ」なんて卑屈なことを考えていたっけ。まぁその考えはあながち間違いではなかったことを僕はあとから知ることになるのだけれども。

彼女と僕はなんてことない日常の、なんてことない昼下がりの大手チェーンのカフェで出会った。そこのカフェはバイトしている会社の人がほとんどこなくて、対面式で真ん中についたてのあるタイプの席がいつも空いている、僕にとって貴重な休憩場所。そこでカフェラテとサンドイッチを食べながら本を読んだりスマホをいじったりしながら学校終わりからバイトまでの隙間時間つぶしをするのが僕の日課だった。その日、僕はいつもと変わらずカフェラテとサンドイッチをもそもそと味わっていた。ついたての向こうに香水とコーヒーの匂いを連れて座った女の人。「お、いい匂いだな」なんてのんびりしていた僕の机の上が、そろそろクリーニングに出そうと思っていたワイシャツが焦げ茶に染まるまでさほど時間はかからなかった。彼女が並々と注がれたLサイズのカフェラテを一口も飲まずに全てぶちまけたのだ。「わ、ごめんなさい!!!」店内に響き渡る彼女の声とグラスが倒れた音を聞いて店員が集まってくる。「お怪我はありませんか?」そう言いながら差し出されたおしぼりで応急処置にもならないなと思いながらワイシャツを拭いてみた。案の定そのシミがきれいになるわけでも、水気が取れるわけでもなく、ただおしぼりだけが茶色くまだら模様に染まった。そこからはもうチープなマンガみたいな展開で、クリーニング代を出す出さないと押し問答をしたあと、「じゃあせめてしみ抜きだけでも‥家すぐそこなんです」なんてベタなセリフに乗せられた僕は気づけば彼女の家にお邪魔していた。下心があったわけではない、決して。たぶん。いや、あったとしても少し。彼女は僕のタイプではなかったが間違いなく美人だった。

「人を家に上げるの初めてなんです、不快にさせたらすみません。とりあえずあの、これ…」そう言って差し出されたTシャツは明らかにオトコモノ。さっきの台詞が少し気になったが、とりあえずお礼を言って着替えさせてもらった。脱いだワイシャツを受け取った彼女はぱたぱたと洗面所の方だろうか、廊下に消えていった。

手持ち無沙汰になった僕はとりあえず部屋の中を見回してみました。ぬいぐるみとか、ガーランドとか、所謂オンナノコが好きそうなものは1つも見当たらない。テレビに視線を戻そうとした僕の視線の先にテレビの横の琥珀色の鈴が1つ。

「なんとか取れましたー。ごめんなさいお茶も出さずに…」鈴に手を伸ばしかけたところで彼女が部屋に戻ってくる。「あ、いえ。」さっと手を引っ込めた僕を見て彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにハッとしたような顔で「あ、お茶、お茶」と言いながら台所へ向かっていった。

「熱いので気をつけてくださいね」そう言いながら手渡されたマグカップのお茶はお世辞にも熱いとは言えず、むしろぬるいくらいだった。彼女はそのお茶に一生懸命息を吹きかけながらゆっくりと飲んでいる。のどが渇いていた僕はお茶を一気に飲み干した。「ごちそうさま。」「えっ、もう飲んだんですか?こんなに熱いのに。」どうやら彼女と僕の温度感覚には考えられないほどの差があるらしい。

そのままワイシャツが乾くまでテレビを見て過ごす事になった。彼女の部屋の中央を陣取るこたつで暖を取っていると眠気が僕に手を振り始めた。「少し、寝ていてください。乾いたら起こすので。」前日の残業で寝不足だった僕は彼女の言葉に素直に甘えることにした。

目を覚ますと外は真っ暗で、彼女の家の近くの街灯の光だけが部屋の中を照らしていた。脇の下に暖かさを感じて手を伸ばすと、ふわっとした手触り。

「ん、あ、え?!ごめんなさい私、寝ちゃってました…」寝ていたポジションについてはノーコメントらしい。少し照れて混乱した僕と、その様子に気づいたのか気まずそうに目線をそらす彼女。「あっ、ワイシャツ」そう言うと彼女は洗って乾いたワイシャツを持ってきてくれた。「ありがとう。」そう言って手早く着替えを済ませると「じゃあ、僕はこれで」と玄関へ向かった。

「あの、」彼女のうわずった声が僕の歩みを止める。「今度はカフェラテこぼさないように気をつけますね。また、あのカフェで会えたら嬉しいです。」下を向きながら早口で言う彼女がなんとなく可愛く思えて。「毎週火曜日と金曜日のお昼は、あそこにいます。また見かけたら話しかけてくださいね。」普段なら他人に絶対に言わないであろう自分の予定を話して彼女の家をあとにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?