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夏がとまる

この季節がきた

風がぐぅんと湿気を帯びて海のにおいを運んでくる

窓のすきまから堂々と悪びれもせず吹いてくる風の

あの季節

私はあの頃、ここから逃げ出せると思っていた
1人で借りた6畳の部屋は歪な角部屋で
五角形だった

そこに無理やり本と服とベッドとを詰め込んで
その隙間に暮らしており
疲れたらこれまた台形のベランダから川を眺める

よく行ったあの海を
サーフィンのできる海を
サーフィンボードは一枚しかなく
私は砂浜で待っているだけだったことを

思い出しながら

逃げ出せると思った家には毎日狼がやってきて
私を困らせた

狼は山の生き物なのでとても怖かった
優しい羊の皮をかぶっていてなお、牙が見えた

どうしても逃げ出せずまた戻ることを
うすうす承知しながら
いつか皮の下から見えている牙で
噛み殺されるに違いないと想像して、泣いた

あれからずいぶん経って
今は海の近くに住んでいる
広々とした部屋に
ちゃんと長方形のベランダ

疲れて眺めるのは、川ではなく海だ

あの海はいつも私を迎え入れていてくれた
けれど錯覚してるだけだった
サーフィンが終わるのを待つあいだ
遠くを眺め、それでも錯覚を味わっていた

けれどあの風のにおいはまだ覚えているし
嘘でも錯覚でもなかった

もう一度逃げられたのは、この海のにおいのおかげ

湿気を帯びて気だるい海のにおいのおかげ

この季節が、また巡ってくる

ご笑覧ありがとうございました

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