時間泥棒

どうしても嫌いな時間がある。

それは、エレベーターがボタンを押してもなかなか来ない時。外出先でトイレに向かうと、長蛇の列が出来ている時。
こういった「待つ」という時間がやたらと嫌いなのだ。

だから、頭ではもう少し待てば来るうえ体力的にも明らかに楽だ、と分かっていても、ざっと踵を返し、エスカレーターに飛び乗ってしまう。空いているトイレを目指して、デパートの上階へとどんどん上がっていってしまう。
結果、余計に時間がかかることだって往々にしてあるけれど、止められない。我慢ならない。

人を待つ時間や、用事の間に出来た時間などは、割合平気、むしろ好きなくらい。

何が違うのだろう、と考えてみると、その時間を自分の意思で自由に使えるか、その時間に自分の裁量が与えられているかどうかが大事なポイントだということに気がついた。
「待ち合わせの時間までまだ余裕がある、じゃああのお店を見に行ってみよう」「ちょっと時間が余ったから、本を読みながらコーヒーでも飲もう」そんな自分の時間を作れるならば、それは良い時間だ。

それほどの自由のない、些細で無為な時間が与える虚無感が、どうしても気に食わないのだ。木端のような時間が奪う私の自由な時間を思うと、腹が立って仕方ない。

『モモ』に出てくる「時間泥棒」という言葉が、頭の中で響いてくる。無為で怠惰な時間。自分の人間らしさが奪われていくような、悔しさ。

そんなささくれ立った時間感をもって生きているものだから、向田邦子さんのエッセイで読んだ言葉に撃たれた。

「二十代の私は、時計の奴隷でした」

どきっとしてしまった。気づけばいつも何かに追われている。若いうちは何でもやってみなきゃ、やりたいこととやるべきことが多すぎて、いっぱいいっぱいで逆に身動きがとれない。そんな自分は、まさに「時計の奴隷」。

出来ない自分に苛立ち、自分を拘束するありとあらゆるものに苛立ち、全部投げ捨てたいという怒りと、上手くこなしてしまうそつのなさが身に付いてくる年頃。

向田さんは、こうも言ってくれていました。

「「焦り」「後悔」も、人間の貴重な栄養です。いつの日かそれが、「無駄」にならず「こやし」になる日が、「あか」にならず「こく」になる日が、必ずあると思います。」

「あか」ではなく「こく」。焦らず、時間を熟成させることのできる大人になりたいものだ。
旨味のある人間に。深みのある人間に。

一方でら向田さんは最後にこう釘を刺すことも忘れていない。

「真剣に暮らしてさえいればーです」

顔を赤くしつつ変な汗がつたうのを感じたのは、私だけではない、はず。

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