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引退したので自分をインタビューしてみる。vol.1

noteでは久しぶりの登場です。

みなさんこんにちは、ミノッティです。

この度、2020年12月31日をもちまして海外サッカーチャレンジを引退しましたので、ここの海外サッカーチャレンジ記をnoteしていきます。


僕が普段読んでいる本

「読みたいことを書け、書けばいい」 

著書は田中泰延氏。にあやかって私も自分が読みたいって思うものを書いてみることにしました!自分自身にインタビューということで、世間的にはとんでもない自画自賛内容になってしまっても気にしない。笑

ぜひお付き合いくださいませ。

※インタビュアーはお知り合いの方をモデルとして使わせていただくことを許可してもらったので、Kさんと表記します。



Kさん:久々だね。海外サッカーチャレンジは引退したとのことで、インタビューさせてもらいますよ。色々細かいこと聞いていくと思うけど、答えられる範囲で。よろしくね。

ミノ:もちろん全部お答えします。僕の感覚になってしまいますけど、それで誰かが今後の人生を送る上で何かのキッカケや変化に繋がってくれたらいいです。もちろん良い意味でですけど。


Kさん:そうだね。早速なんだけど、この写真はどこで撮ったのもの?

ミノ:これはマルタです。イタリアの南にある孤島です。


Kさん:なるほど。古代西洋って感じだね。じゃあこのマルタ島を最後に海外チャレンジは引退したってことだね。もう後悔はない?やり残したことも?

ミノ:悔いはないです。やり切りました。26歳で初めて海外のチームに所属したんですけど思えば大学を出てから関東にあるtonan前橋というチームに所属して、そこから僕の武者修行が始まったので約10年ですね。駆け抜けたなって。七歳から始めたので歴はもう26年です。ただオーストラリアに4年もいたのでせっかくだったらもう少し英語を極めてれば、、という後悔は多少あります。中途半端な英語力で留まってますから。笑


Kさん:そっか。本当にやりきったんだね。おつかれさまでした!それじゃあ海外サッカーに従事していたときのことを聞いていこうかな。まずは経歴を少しばかり。それからミノくんが過ごした海外でのサッカー事情と。そのあとは生活感とか、他の気になる部分も含めて聞いていくね。

ミノ:わかりました。まず、2014年の1月から6月までがオーストリア。都市で有名なのはウィーンだけど僕は第二の都市と言われてるグラーツから電車で30分くらいで行けるヴィースという山奥の街に。スロバキアとの国境近くでしたね。USV WIES(ヴィース)と呼ばれる8部リーグのチームでプレーしました。これが2014年の話で、この年の12月には既にオーストラリアに入っていました。シドニーやメルボルンが有名ですけど僕がトライアルしてチームを決めた場所はアデレードという南にある都市です。ここに2015から2017の3シーズン同じチームでプレーして、翌年の2018はメルボルンのチームへ移籍。なので合計4年オーストラリアにいました。


Kさん:それで最後にマルタへのチャレンジ、というわけだね。年の11月に渡航したってことだけど、2019と2020のシーズンはどう過ごしていたの?

ミノ:海外チャレンジする前にお世話になってた都リーグの社会人チームで活動していました。昨年は監督兼任選手、今年はコーチ兼任選手として、ですね。HBO東京というチームです。


Kさん:なるほど。ということは、指導している傍らひっそり自分も準備していたわけだ。

ミノ:そういうことになります。ただ指導を始めた当初、実は海外チャレンジは視野に入れていませんでした。本格的に指導者を目指せるチャンスがあったこととお世話になったHBO 東京への還元も含めて奮闘していて。だけど挑戦していく若者たちを間近で見ていたらやはり衝動は抑えられなくなりました。笑


Kさん:それはサッカー選手あるあるかもしれないね。笑 俺はミノくんと初めてフットサルやらせてもらった時、熱い選手だなって感じていたからわかるよ。

ミノ:恐縮です。笑 HBOは平日の朝練をメインでやっていて、僕は毎日参加して指導だけでなく一緒にトレーニングもしていましたからコンディション維持は出来てました。海外チャレンジすることをスタッフや代表に伝えたあとは、トレーニングメイン兼指導という形で2019年の半分は活動させてもらいました。維持だけでなく足りない部分を強化していかないといけないし、得た知識をプレーで表現できなければ意味がないので。それと2シーズンも指導の経験を積ませてもらったことは僕にとって大きかったです。良い結果には繋がらかったけども。。


Kさん:じゃあコンディションもサッカー脳も万全で今回もチャレンジ出来たわけだ。だったら悔いも残らずやり切れただろうね。わかりました。オーストリアは8部リーグだったけど、サッカーはどんな感じだったの?ここからは海外チャレンジの実態とか実情を踏まえてお願いします。これからチャレンジする若手に向けてね。

ミノ:はい。トライアル中は4部のチームに参加しながらコンディションを整えていたんですけど、そこに見に来ていた8部のチームの関係者からトライアルの終盤に声をかけられて入団、という流れでした。この4部のチームも上手い選手が結構いて当時はレベルが高いと感じました。歯が立たないなとは思わなかったけど、こいつらを蹴散らしてポジションを奪うにはプレーの面でもそれ以外の面でもやらなきゃいけないこと、足りない部分は多いなと。この4部のチームへ入団するチャンスもありましたが、同じタイミングでトライアルに来てた6人くらいだったかな。そのうちの一人が入団することとなり、結局その選手はオーストリア2部へステップアップして正真正銘のプロ選手になりました。


Kさん:オーストリアにもステップアップ出来た例があるんだね。今ならザルツブルグに奥川雅也選手がいるか。南野選手もリバプールの前はザルツだもんね。もっと前には三都主アレサンドロさん、宮本恒靖さんも所属していたか。他の1部のチームの情報なんかはある?それとレベルが高いと感じたことについてもう少し詳しく。なにをもってレベルが高いなと思ったのか。

ミノ:とにかくとデカい、速い。足元は日本人に分がある。という軽薄なイメージの持って初めて渡航しました。だけどそうじゃなかった。4部のチームはほとんどが総合的にしっかりとした選手が集まっていたのでこれはかなり厳しい世界だと。身体をぶつけるだけじゃなくヒラリと交わすこともしてくる、勝負すらしない。いやさせてもらえないというのが正しいかもしれません。こっちは欧米人にデュエルの部分で負けない準備をしてきたのにそれすらやれない。ただもちろんこれは僕のサッカーレベルが圧倒的に低かったことが一番の原因です。一回だけ、シュトルムグラーツという1部のチームとハンガリー1部のトレーニングマッチを見に行ったんですよ。それはもう歴然。やはり欧州1部は違う、何千万も年俸もらってる選手は全然違う。強さも速さも賢さも。何より状況判断が的確で凡ミスが少ない。そこはもう本当に圧倒的でした。


Kさん:そうなんだね。でもトライアル中はそういうところで自信を失ってる場合じゃないよね。そいつらに勝つにはやらなきゃいけないこと、足りないことも多かった言ってたけど、どういう部分?

ミノ:技術的な部分より大きかったのはメンタル的なところです。当時コーディネートしてくれた人には「とにかくメンタルを強く持ってけ」と言われていて、国士館高校サッカー部で育った僕はそれにただ感化されて「よし、メンタルだ!」って言い聞かせてとにかく一生懸命頑張っていたんですよ。笑 だけど、そもそも「メンタルを強く」ってなんだ?ってとこに重きを置いてなかったおかげで次第に

「自分はこんなに頑張ってるのになかなか評価してもらえない」

っていう風になっていくんですよ。クラブからも声がかからないし、コーディネーターには催促の連絡もよくしていました。これって勘違いも甚だしいんですよね。そもそも日本でなんの実績も残せてないなくて、プレービデオさえ用意できてないアマチュアサッカー日本人が簡単にプロチームなんて決まらない。自分が今まで一生懸命やってきたことは嘘じゃないしとことんトレーニングを積んできたけど、それが海外で通用するかどうかは別。極端にJユース上がりの選手だって、いきなり1部や2部のチームを決めることはそう多くない。僕らのような選手よりかは断然可能性は高いでしょうけど。この現実を受け入れることが凄く大事です。チームが決まらないなら自分自身を変えなきゃいけない、そいうことに気づかないとずっと歯車がかみ合わないままあっという間にトライアルが終わってしまうんです。8部のチームに最後は決まりましたけど、当時は「いやいや8部かよ」と思ってましたけど、違う。こんな僕でも8部でプレーさせてもらえることが大チャンスだったんです。


Kさん:ありがとう。熱いねやっぱり。笑 でも俺も南米にいたから思い当たる部分が多々あるよ。日本人は変化を嫌う人種だし、変というか偏った価値観があったり。もちろん世界中がそうだろうけどね。技術的な部分では何かある?

ミノ:僕もそのうちの一人のまま、欧州チャレンジしてたことは後になって理解しました。けどこれがオーストラリアに行く前に活かされたなって今では思います。技術的なところでは、4部に参加しているときは止めて蹴るなどは同じくらいだったと思います。ただ状況判断や対応力はかなり欠落していました。なんでかっていうと

「日本人ならここにいてくれるのに・・・」

って思いながらプレーしてるんですよね。お前何してきてるんだって思えなかったのが痛いし、そういう準備を今までしてきたんじゃないのかって。現地でそういう部分で上回るプレーを披露することは出来なかった。8部のチームに入団した時、日本人は僕を含めて4人入ったんです。

「君たちでチームを優勝させてくれ」

8部であろうと、助っ人外国人として頼ってくれたオーナー。とてもよく世話してくれたこのオーナーが最初に僕らにこう言ったんです。もちろんそれが僕らの仕事だし当然で、これが自身のステップアップにも繋がる可能性があるわけで。Wi-Fi付きの住まいも用意してくれたし食事にかかる費用まで全て負担して、しかも月の給料まで貰える。8部でここまでの好待遇って中々ないと思うんです。だけど優勝に導けなかった。天王山に負けてほとんど優勝がなくなった途端に練習の日数も減りチームも意気消沈していました。リーグは半年間で10試合、一つでもこぼせばほぼ優勝→昇格は無くなる試合でチームを勝利に導けなかったんです。

「完全に俺のせいだ。」

もうずっとそう思いながらシーズンが終わる6月まで過ごしていました。これで俺のヨーロッパ挑戦は終わったって。帰りの電車も飛行機の中もずっと考えていたし引退も考えてました。けどこれもまた間違ってる考え方です。「俺の責任」って思うのは、イチローさんや本田圭佑さんもよく言われているんですけど、「準備」が圧倒的に足りなかったんだと思います。その準備ってなんだったのか。それが理解できていなければ準備のしようもない。これはかなり細かい部分だと思うし、人それぞれでも違うけど、根本的には一緒です。「自分にとっての明確な準備」を確立することが絶対重要だし、それがさっき言ったメンタル的な部分にも繋がると思うんです。要はメンタルを上手くコントロール出来なくなっちゃう。この準備が常にされていないと。


Kさん:その「完全に俺の責任だ」っていう考え方も日本人ならではかも。サッカーはチームスポーツなんだからそもそも一個人の責任っていう部分なんでほとんど無いと思う。まあ挫折という挫折を味わったわけだね。8部の試合ってどんな雰囲気だったの?レベルとか、チーム内の環境とかもそうだし、気になる要素はあるね。


ミノ:WIESでいうと、日本の社会人チームと似ています。みんな夕方に仕事が終わって夜に2時間弱練習する、週末の試合に向けて。っていう感じですね。レベルは僕が言うのもおこがましいですが高くは無かったです。そう感じているのに自分自身も結果を残せていないことで最悪な葛藤の仕方をしていました。「なんでなんだ、なんでなんだよ」ってずーっと。笑  一番驚いたのは公式戦。優勝に一番関わる一戦で副審が片方しかいないんですよ。これはもう言葉にならないというか。。八百長が簡単に成立してしまうというか。笑 審判のいない公式戦もあるんだなって思うようにしましたけど、これはどうなんでしょう。笑


Kさん:やっぱり世界は広いね。でもそういう環境もサッカーの一つだし、それをすぐ飲み込んでサッカー出来る選手が上手いだろうしね。審判がいなくたってそれを上手く使えば試合に勝てるチャンスはいくらでも作れるだろうし、そういう選手は相手も審判も上手いこと出し抜いちゃうんだろうな。

ミノ:おっしゃる通りです。そういった環境の中でも結果を残す術はあったはずなのに気づけなかった。んーでも気づいていてもそれを生かす術がどちらにしろ無かったかもしれません。与えられた環境を味方に出来る準備も知識も僕には無かったはずです当時は。


Kさん:うんうん。それから、引退かと思いきや今度はオーストラリアにチャレンジしてるね。これのキッカケは何かある?そもそもなんでオーストラリアなのかも含めて。

ミノ:WIESに所属してた日本人はみんな次のチャレンジに向かっていたんです。それぞれバラバラで。Aくんは東欧へ、確かルーマニアだったかな。Bくんはその後ドイツに行って6部や5部で数年プレーして、今では選手兼任で現地でコーディネーターもやっています。Cくんはモンテネグロへ行き最後は1部のチームにまで呼ばれるようになりました。最後はケガで1部入団を断念せざるを得なかったですけど。そして僕はオーストラリアで、結局2部相当のリーグで契約出来ました。本当はドイツに行こうかなと思ってたんですけど。 


Kさん:お、じゃあなんだかんだでそれぞれステップアップしてる感じだ。8部でのプレー経験から直接的なステップアップにはなっていないかもしれないけど自分たちで道を切り拓いていってるね。ミノくんがドイツからオーストラリアへ進路変更したのもキッカケがある?

ミノ:そこはそれぞれある程度の自信を持ってチャレンジしましたね。オーストリアでの経験が糧になったのは間違いないです。さっきのKさんの質問からもう明確になるんですけど、6月に帰国した段階で僕自身あまりにも自分に足りない部分が多いことを痛感したので0から見直しました。もしヨーロッパへ行くなら次がラスト。残り半年で出来る準備はする。行先はドイツ。キッカケはtonan前橋時代の同い年でチームメイトだったTくんが奮闘してることを知ってからです。6部のチームでプレーする傍らラーメン屋で働いて生活していると。聞こえはプロではないけど、そこで安定した生活を送りながらプレーして上位クラブに呼ばれる例もあるしチャレンジするんだったらドイツしかない。今でいうレスターのバーディなんかがそうですよね。可能性は低いけど0パーセントじゃない。

Kさん:だけど、ドイツには行かなかったと。

ミノ:はい。オーストリアでの経験から欧州への遠征の厳しさを肌で感じたので、心のどこかで渋っていました。笑 もう正直に言いますけど「またこんなにお金かかるんだよな。。」という感じで。それはレベルだけでなく生活もそうです。トライアル期間の費用は航空券も含めて相当な金額になるのでリスクが大きいなと。で、迷っていた矢先に、HBOで同じタイミングでトレーニングしていた選手がオーストラリアでプレー経験があっておススメされたんですよ、とある日に電話で「オーストラリア挑戦してみますか?」って。その時は不思議と迷わなかった。ドイツよりもオーストラリアだなって。HBOで練習していると色んな人に会うのでこういうのもHBOならではかもしれませんね。

Kさん:思い切ったね。迷わなかったのってやっぱり行ったことない国だからかな?費用とかはドイツと比べて安かったとか?

ミノ:たしかに費用はドイツに比べて半額くらいだったかな。それもあるし、英語圏の国へ行くことに少し憧れもあって、Aリーグの存在も知ってたし、色んな要素が重なったと思うんです。プロになるチャンスは十分ある。この電話もらったのが10月くらいだったので一か月くらいで渡豪の用意をしました。年齢的な事も多少は影響してるかな。26歳でしたけど、出来るだけ長く海外でプレーしたかったし、あらゆる情報があって、欧州よりもオーストラリアの方が現実問題と可能性を考慮して、オーストラリアを選んだ形です。


Kさん:オーケーです。少し休憩しよう。オーストラリアで4シーズン過ごしたってことで、ここからオーストラリアでの経験を中心に聞いていこう。それから日本で過ごした2シーズンからマルタでのチャレンジまで、掘り下げていくね。よろしく。



読んでいただいた方ありがとうございました。

Vol.2に続きますので、更新までいましばらくお待ちくださいませ。


それでは

ミノッティ。


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