見出し画像

居なくなってもうっすらと居る。

ここ数年の音楽ニュースで最も衝撃的だったのは、水曜日のカンパネラの「襲名」である。ニュースサイトのヘッドラインを目にした瞬間湧き上がったのは、「そうか、やめるのか」ではなく、「そうか、襲名していいんだ!」という感情だった。その手があったか、とエアポケットをつかれたような感覚。さすがのコムアイさん、引き際までクリエイティブである。

伝統芸能の世界ではメジャーな「襲名」だが、J-POP業界でこのシステムを採用したのはおそらく水カンが初ではないだろうか(少なくとも公式にそのような表記をしたグループは記憶にない)。もちろん全盛期を意識した人選の第5期WANDSや、歴代ボーカルが同じにおいのするサディスティックミカバンド、メンバーの9割が入れ替わって三代目となったJSBなど、似たような例はいくつかあるけれど、襲名がそれらと決定的に違うのは、先代が今もそこに「居る」ことだ。

音楽グループがメンバーチェンジした場合、たいてい前任者の存在は速やかに消されてゆく。過去の曲をライブで演奏しなくなり、比較して語るのがなんだかタブーな空気になり、ジョン期/デイブ期/ジョシュ期、サミー期/デイブ期みたいな「期」で分けられていき、最悪の場合はなかったことにされる。もちろん抜け方にもよりけりだが、どれだけリスペクトされた愛すべき前任だったとしても その存在はあくまで「歴史」として処理され、グループは違う道へと進んでいくのである。

対して襲名システムを採用した場合、二代目は前任者のことも「背負う」。もちろん自分なりのオリジナリティは加えた上でだが、先代が築いてきた「らしさ」を解釈して引き継ぐのが、ファンの期待であり、周りのメンバーの期待であり、二代目の務めであるからだ。初代はもう居なくなるけれど、 二代目が二代目と名乗り続けるかぎり、そこには初代の存在が「うっすらと居る」のだ。

「水曜日のカンパネラ、襲名」の概念

40歳を過ぎて、様々なことの終わりについて考えるようになった。アーティストにとっての終わり方とは最後の作品のようなものである。解散、卒業、終幕、散開、完成、人間活動、ラストダンス……。記憶に新しいところだと嵐の活動休止を決めてから怒涛の世界展開。終わりを決めることで始まることだってある。そんななか水カンが選んだのは、終わりと続きが同時に訪れるやり方だった。

アーティストやクリエイターというと、自分らしさが大事みたいなイメージがあるけれど、むしろ自分から自由になることが大事なんじゃないかと最近よく思う。無理矢理ひねり出した個性に囚われるよりも、個人の意志を超越した大きな概念の一部になっていく方が、その先にある可能性と予測不能性ははかりしれないし、よっぽど自由でクリエイティブな生き方だ。

居なくなるけれど、カッコつきの初代としてそこに生き続けることを選ぶ。それは今ここに「居る」か「居ない」かの二元論にとどまらない、なんとも粋な選択だと思う。需要があるかは別として、いつか私も引退するときが来たら、誰かに襲名されてみたい。してくれる人、どこかにいますかね。


■ 襲名した水曜日のカンパネラ(2021):再始動のシングルもファンが期待する既存路線と新路線の2曲で構成しているのがニクイ

■ 他業界での襲名例:初代が強烈だったためこの三代目じゃ物足りないとの声もあるが、西谷を襲名してくれた人がいることが素直に嬉しかった

■ 衝撃を受けた音楽ニュース:ちなみに2位と3位は「カジヒデキ、スウェーデンで失神(2009)」と「マリリンマンソンからマリリンマンソンが脱退(2015)」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?