差別と性差と憧れと。

デリケートな話題をあえて取り上げるので
ひょっとすると否定的な意見もあるかもしれませんが
ここ最近モヤモヤし続けているので
言葉にしたくなり、スマホを取りました。
(筆を取りました、的なイメージ)

差別だなんだの話
すごく大切な事であり
議論を重ねなければならない問題なのは
分かってはいるのですが

色々と厄介に思ってます。

男女差別問題を差別性差に分けて考えず

「男女平等というのは女性が妊娠出産の時も休めない社会を言うんだ!」とか、「重たい荷物や肉体労働も女性が当たり前にやるのが平等だ!」
という意見を見ると

いや、身体の構造が違うやん?
命の営みの立ち位置が違いますやん?

と思います。

同じ女同士だって華奢で重いもの持つのが苦手な子がいたら、私代わりに持ちますけど。
私の背じゃ届かないところにあるものは、私より高い子にとってもらいますけど。

それが男女になると差別になるの?
よう分からん。

男の全力の力に女は敵わないですよ。
オリンピックで男女に分かれてるの、あれ差別なんですか? 違いますよね。
肉体的に性差があるから区分けてるわけですよね。

「権利」の平等から生じる「不利」こそが問題

 仮にあらゆる差を排除してものを考えるのが平等だというなら、たしかに性差も除外して考えるのが本来なのかもしれない。


ただ保証されるべき平等は「権利」であり
この権利を行使する上で生じる「不平等」について考えなくてはならないのが社会だと思います。

例えばジャマイカの選手がボブスレーに挑戦した映画が昔ありました。
雪の降らない国の人がボブスレーに挑戦する。

これは権利的には平等だと思うんですよね。その人の不利に対する配慮はない。けれど、背景がどうであれ望めば挑戦する事が約束されている状況。
そういう意味では「妊娠出産しても変わらず働く状況」はたしかに平等ではありますね。
昔はそれすら当たり前にNGを出す会社があり、それが問題視されていなかったわけだから。

じゃ、そういう「権利としての平等」があるんだからいいじゃないかと言われたら

それだけだとしんどいってのが今の問題なんだと思う。

不利な立場をどうすればフォローできるのかという視点

 本来は「平等な権利を得る事で生まれる不利」を調整する「ハンディキャップ」が必要なんだと思います。

女性は生理があったり、子どもを産んだり、力が弱かったりする中で男性と同じ社会で平等に仕事するけれど、男性中心で作られた社会構造の中では不利な立場にある事は変わらない。

その性差から生じる不利をフォローして軽減させていく事(ハンディキャップ)、それが社会に求められる姿勢なのではないだろうか。

「平等にする事」そのものだけでなく、平等にすることで生じる不利に目を向けなくては、いつまで経ってもこの不満は解消されないと思う。

もちろん逆のパターンで、育児などもまた平等に行えるようにして男性側の不利を減らしていく必要があるわけですよね。
男子トイレにオムツ交換シートを設置するなどがそれですし、それによって「育児は女の仕事」という概念も変わっていけば、それこそ本来求める形に変わっていきますよね。

「平等によって起こる不利を減らしていく」これは、それぞれの性の特徴に沿って色んな側面で求められる事だと思う。

憧れることくらい自由にさせてほしい

 私が最近「これまた厄介」と思うのが肌の色に憧れることもまた白人優位みたいな視点で判断されること。

私はパーソナルカラーでいうイエローベースで、典型的な黄み肌だけど

昔は色白さんに憧れて美白になろうと模索した。でも、何をやっても透き通るような白肌にはなれなくて挫折しました。

今は自分の肌がイエローベースだからブルーベースさんのような白肌は元の肌の色から難しいということを理解してますが、知らない頃はたしかに悩んだ。

そのことをチラッとSNSで書いたら

「黒人も白肌に憧れて少しでも白に近づくファンデーションを利用する人がいる。より白い色が美しいとされる観念にガッカリする」

と知人男性からコメントがありました。

それ見た時、「そう言う風に見えるんだなぁ」という驚きと

「いや、別に白人の肌に憧れてるわけじゃないぞ」という気持ちが浮かびました。

私が昔、なりたいと憧れたのは「透き通るような白肌の持つ美しさ」で

美しいものを美しいと思い、憧れるのは至極普通の感性でしょう

と思ったのです。

今はもうパーソナルカラーもわかるし
(仕事の一つでもあるし)
なれない白肌になろうとは思わない。

この黄み肌の健康的な美しさを私はとても気に入っている。

でもね、透き通るような白肌を「素敵だよね」と思うことを、残念に思われることが残念だ。

美しいものを素直に美しいと思うことに否定的な目を向けられたくない。

美は多様。

黒人さんの肌もエキゾチックだったり、モード感があったり、とてもカッコよくて美しいと思う。
そういう美しさに憧れる人だっているし、そんなの別に差別でもなんでもない。

その考えや行動を差別に定義するのは赤の他人だと思う。
そういう目でモノを見たらすべてが差別になってしまう。
でも性別も国籍もその人の一部で、変えようのないものだから、当の本人が悩むならまだしも、赤の他人がどうこう判断するものじゃないと思う。

差別はそれをなくそうとすると、かえって際立ってしまう側面もあるんじゃないかな。

白肌も黄み肌も黒肌も、みんな綺麗!
それぞれに憧れて良いんじゃないかな。

差別って言葉に捉われて本質がぼやけていないか

いずれにしても思うのがこれが差別かどうかという事に注目しすぎて、本質的な部分がぼやけていること。

1人として同じ人間はいないんだから肌でも体格でもなんでも「差」しかない。
その「差」に対して良い悪いを決めることがそ「差別」であって、「差」を「差」と認識したり、憧れることまで問題視するとややこしくなる。

「差」があることで不利益を被る人がいないか、「差」によって侮辱を受けたり見下される人はいないか

大事なのって「そこ」なんじゃないかなー。

と思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?