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国立西洋美術館『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』

少なくない人が、評価の定まっている芸術家の作品にしか触れていないのではないか。中には美大生の卒展や若手の作品展に足を運んでいる愛好家の方もいらっしゃるが、そこまでではない私のような人間は「展覧会が成立する=人を呼べる」程度には「評価が定まっている」という、いわばお膳立てのもとに芸術に触れているのではないだろうか。
ではその評価とは何なのか?誰が決めたのか?偏見を承知の上であえて言うが「説明がないとよくわからない」現代美術は、その説明抜きにしても人々を惹きつけるくらい時代を超えていけるのだろうか?同時代の作家たちは、国立西洋美術館に収蔵されるような巨匠として名を残すことを目指しているのだろうか?

展覧会のタイトルだけで、そんなことが想起された。

展示は正直なところ、意欲的すぎて私にとっては詰め込み感があった。その中で印象に残ったものを、いくつか記録しておきたい。

まずはこちら。最初の展示室の角を曲がると、セザンヌの風景画と真っ白なキャンバスがぽん、と掛けられた壁の前に立つことになる。真っ白…?なんだなんだ何を言いたいんだ?と近づいてみると、真っ白に見えたキャンバスにほんのりと色がのっていることに気づく。目を凝らしたり逆に細めたりすると、画像処理でスライダーを一気に端まで上げてしまった時のように、真っ白い平面の中に色の残りがうっすら浮かぶ。左のセザンヌの絵画から色みを抽出したのだろうか?と思った。

ただ、足を進めた先にある解説を読むとそういうことでもないらしい。タイトルは「color beginning」ということは、絵画があってそこから変化した結果この形になったのではなく、ここから絵画になっていく、これは絵画のスタート地点の一瞬なのだということなのだろうか。ちなみに一緒に行った友人は「真っ白なキャンバスがあった作品」と言っており、だとしたらますますこの展示は意味がわからないものになってしまうのではないだろうか。解説がないと成立しないとしたら、それは作品の力と言えるのだろうか?などということも頭に浮かんでしまう。


次に、真っ赤な床に転がされた漆黒のロダンの彫刻。あ、アヴァンギャルド…?!と思ったが、別に奇をてらったものではなかった。

「ゆれる」と「ころぶ」地震と思想転向をこんなふうに結びつけるのはとても面白いな、と感じた。これもまた、長文による作家本人の言葉までも込みでひとつの作品だった。
パッと見た時の心の動きと、解説を読むことによってより深く理解できる頭の動き。どちらもあってこそだと思うが、その割合は具象的な絵画とこういったインスタレーションとでは異なってくるのかもしれない。

「あなたの心や体を支配するものやひとはなんですか?それをかいてください。言葉でも絵でもかまいません。」「あなたを支配するものやひとについて、なにか言いたいこと伝えたいこと、怒りたいことがあったらそれをかいてください。言葉でも絵でもかまいません」という作家の呼びかけに応えるように、びっしりと付箋が貼られた展示もあった。

「ラーメン」といった「わっかる〜私も支配されてるわあ〜」とクスリとするものから、「まったく通じない身内と家族」というように真顔になってしまうものまで。
私の場合は、支配するものやひと…何だろう?こうして自分の内面に潜ったり、他人と言葉を交わすきっかけを作ってくれる双方向性のある作品は現代美術ならではだと思う。しかしこれ、作品として保存することは可能なのだろうか?保存できなかったら、どうやって未来にまで収蔵して繋いでいくのだろう?

写真はないが、山谷を扱った展示も印象に残った。美術作品というよりドキュメンタリーの展示を見た、という方が近い。山谷というのはいわゆるドヤ街、私も行ったことはないが東京東部にそういう場所があるのだということは知っている。大阪でいうと西成という場所も同じようなところらしい。
日雇いで暮らしていた人たちも、当たり前だが年を取り病を得る。そういった人たちとボランティアのあれこれを、国立西洋美術館の学芸員と作家が記録したものだ。人は意外と死なないものなんだなと思った。そのことに勇気づけられもしたし、そう簡単に死ねないのだということに恐ろしくもなった。死にたくない、と願う状況と、もう死んでもいいのにまだ死なないのか、という状況。どちらの絶望が濃いのだろうか。


最後に、私が一番好きだなと思った展示。上部が剥落したモネの「睡蓮」の前に、その部分を補うような図案で刺繍をされたオーガンジーのような薄い布が吊るされている。

刺繍というのがまず素敵だ。ひと針ひと針の手仕事、という点もそうだし、立体的な素材感がこんもりと絵の具を盛られた油絵とよく似ていると思う。一本一本は異なる色である刺繍糸が、混じり合って織りなすグラデーションがとても美しかった。

足りないものには足りないが故の美しさ、例えばミロのヴィーナスのような魅力があるのかもしれない。しかし、現実世界においては足りないことは良しとされないし、生きていくこと自体に困ることもある。例えば私は視力が悪い。それは人体という観点で見れば間違いなく正常な機能の欠損であり、本来あるべきものが足りない状態だ。メガネがないと日常生活を営めない私は、メガネという後付けの物体によって足りない部分を補われて生きている。それはこの作品のように美しいものではないかもしれないが、足りていない部分を補うことでまた違うものが見えてくるという点では共通している。人と人とも同じように、それぞれの足りない部分を非難するのではなく上手に補い合えないものだろうか。異なる色が折り重なってひとつの作品となるように。

意欲的だけどそれが故にちょっと疲れたこの展覧会、もっと美術に明るい方、または思索を深めることができる方はさらに楽しめたのではないかと思う。私は未来を知り得ないし未来に生きることもできないため、この芸術家のうちどのくらいが「世間的にも評価の定まった」存在になるのか、答え合わせをすることはできない。結局、誰がそれを決めるのかという問いのヒントは見つからないままだ。しかし、そうならなかったとしても、今日私の心が動かされたことは事実だ。作者の意図とは別に、受け取った感想は私のものだ。それは大切にしていきたいと思う。

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