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東京国立近代美術館「眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで」

「眠り」と重ねて語られるものはいくつかある。例えば「死」。
育児界隈では、「赤ちゃんが寝入りばなに泣くのは、眠りに落ちる感覚が理解できず『死』と感じて恐怖するから」という話がある。もちろん赤ちゃん本人に確かめることはできないので俗説の域を出ないのだろうが、私が知る限り20年は語り継がれているので多くの人がこの話に納得や共感をしているのだろう。
「眠るように亡くなる」という表現もある。このように、「眠り」という日常的な行為は、しばしば非日常と結び付けられている。

この展覧会では、「眠り」を軸に様々な表現、暗示、提示、がなされている。ただ目を閉じて横たわるという行為、それに付随する、夢を見るという行為、それが意味するもの。

まず会場の空間が面白かった。グレーのカーテンで包まれ、文字や壁の一部には彩度の低い紫が使われている。眠りの色とは、また眠りの音とはどのようなものだろうかと考えさせられた。カーテンを引かれる、まぶたが閉じる、という眠りに落ちる時のイメージに誘われ、自然と自分の心の緊張が解けていくことを感じる。

序章「目を閉じて」では、展覧会のメインビジュアルにも使われているルーベンスの幸せそうな2人の眠る子供の絵画や、タイトルもそのままのルドン「目を閉じて」を見ることができた。
基本的に、目を閉じることができるというのは安心感が前提にあるからだ。視覚や意識が遮断されることを恐れず、自分以外の視線にさらされることを厭わないという安心感。ここはうっとりと、ただ眠りの感覚を思い出して過ごすことができる。

第1章「夢かうつつか」から、少し様相が異なってくる。ゴヤやルドンの版画に見られる、現実にはあり得ないイメージの展開。そして、幻覚剤の影響化で描かれたという地獄絵図のような素描。また、液体(海)をとらえた写真。確かに眠りは固体でも気体でもなく、液体であろう。隠されたものが徐々に現れてくるような不穏さが立ち上り始める。
この章の最後には、外国人労働者が自らの見た夢を語るビデオが流れる作品があった。ただそれだけと言ってしまえばそれまでなのだが、その夢が幸せなものであろうが恐ろしいものであろうが、どちらにしても彼女たちの置かれた苦境を際立たせるものになっている。「寝るの好き」と無邪気に話す人は少なくないが、果たして彼女たちにとっての眠りとはどのようなものなのだろうか。

第2章「生のかなしみ」では、「死」の色が濃くなる。塩田千春の「落ちる砂」では、映像のバックに鐘のような仏具のような金属音が流れ続ける。私たちはひとつの眠りごとに死に近づいていく。もしかしたら、眠ったまま目覚めないかもしれない。そう考えると背筋が寒くなるような感覚に襲われる。

第3章「私はただ眠っているだけではない」ここでは「眠り」を幅広くとらえた作品が並ぶ。印象に残ったのは、「逃避」「抵抗」として眠っている姿を描くという作品だ。その画面の中に、起きて乳房をまさぐろうとする幼子の姿がある。頑なに見える大人たちとは対照的に、生きることへの本質的な希求はとても躍動的に映った。

第4章「目覚めを待つ」に、チェルノブイリ原発事故からインスピレーションを受けて製作されたという作品がある。金属の筒や板の中に、清浄な土、植物の種、水、空気が保存されているものだ。それは希望の証なのかもしれない。しかし、それらの植物の種が育っていくためには、その土や水や空気では圧倒的に「足りない」のだ。その水の量だけで、植物が育つわけがない。守られたものを見せることで、逆に「失われたものの多さ」を感じさせる作品だった。

第5章「河原温 存在の証としての眠り」は、一瞬「これで作品なの?」と思ってしまうような絵葉書が並んでいる。だがタイトルの「存在の証」に立ち返ると、その絵葉書に書かれた「私は◯時に起きた」という一文が、無事に、つまり死ぬことなく眠りから目覚めたことの証拠として機能していることに気づく。ここまで様々な「眠り」に触れてきたことが、その気づきをより一層鮮やかなものにする。その瞬間までは確かに、絵葉書を書いた人間は存在していたのだ。

終章「もう一度、目を閉じて」最後にもう一度、目を閉じた人物像と対峙する。眠ること、目を閉じることに込められたものの多様性に思いを馳せ、眠りが安寧とは限らないことを改めて考える。夢うつつの中で過ごしたようなこの展覧会から現実に戻っていくことに一抹の不安を覚える反面、現実というある意味確かなものの存在にほっとする。しかしまた、今夜には眠りの世界に戻ってくるのだ。

全体を通して、幻想的でふわふわとした高揚感と、恐怖や不安が忍び寄る緊張感を行ったり来たりする面白い展覧会だった。現実からトリップできるという点で満足度が高く、充実した時間だった。その日に眠りにつく時、ほんの少し「死者のための枕」のことを思い出し、生きていることに感謝した。しかし、翌朝私が元気に目を覚ますとは限らないのだ。毎日は、その繰り返しである。


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