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創作『虹を見た日』


「ねえニゼル、もうどこにも行かない?」

子供のような話し方に、少しだけ掠れたようなカナリの声。ニゼルは自身の肉球で彼女のふわふわのほっぺたを包んで、整った目元にシワを寄せて微笑んだ。

「うん。どこにも行かない」

それは誓いだった。


雨上がりの朝のシテ島。湿気が毛並みとヒゲをいじくるけれど、今はあんまり感覚もない。
こんな時間だからか他の誰もいないサント・シャペル。その隅っこの壁に身を寄せ合って見上げた青空には、儚く大きな虹がかかっていた。

昨日からずっとここにいる。遠くからふたりで歩いてきた。もう行くところなんてなかったけれど、歩いて歩いて歩いて、最後にたどり着いた美しい場所。
天国の入口があるとすればこういうところなのかなと思った。

寒さとか、どうでも良かった。
……もう何でも良かった。

水の音、青の匂い、となりのふわふわ。

大事な大事なカナリ。

それ以外何も要らなかった。


「カナリ、いいこと教えてあげる」

ニゼルは、見上げていた空のある部分を、首を少し伸ばして示す。あの大きな虹だ。もうあまり力はないのがわかる。

「虹はいつもふたつあるんだよ」

あの大きいのは主虹。その上に、うっすらと見えるのが副虹。
ニゼルを大人になるまで育てた後に先に天国に行った老婦が、何度も聴かせてくれた話だった。
副虹は色が反転していて、分かりづらいけれど必ず主虹のそばにあるものなのだという。

カナリは半分落ちそうな瞼で空を仰いで、しばらくしてから「ほんとだ、もうひとつある」と嬉しそうにこぼした。

猫は虹の正しい色なんてわからない。人間がいう色が正しいなら猫には見えていないのだし、色というものに正解がないのなら、今ぼくたちが見えている虹が本当の色になる。

「主虹がきみなら、ぼくは副虹かな」

ニゼルが言う。

「それって、わたしのとなりにずっといてくれるってこと?」

「そうだよ」

「ほんとうに?」

「ほんとう」

カナリがふふふと力なく笑うそばでニゼルも笑えていた。
これまでの日々のように。いつものふたりのように。

いなくなるのも、もちろんいっしょだよ。
主虹が消えるとき、必ず副虹も共に姿を消していく。

「ふふ、気分がいいね。……ニゼル」

ニゼルの背中に頭を預けて、カナリはまぶたを閉じる。

閉じてしまう。

暗いはずの視界の中に、ふたつの虹がぼんやりとみえた。

「さいごだから、よく聞いてね」

ニゼルのことがだいすきよ。


そうして、背中が重くなる。カナリの力が解けた証だった。

「……うん。うん、ぼくも」

ニゼルは一筋涙を垂らした。嬉し涙とか、悲しい涙とかそういうものではなかった。カナリを愛しく思う涙だ。

「ぼくたちはずっといっしょだよ、カナリ」

ここまで共に旅をしてくれて、どうもありがとう。
ぼくたちはきっと、もっと幸せになろう。

ニゼルは涙の筋を拭うことなく、そのまま眠る。
カナリのまだ残る温度を背中に感じながら。


虹の橋を、ふたりで渡ろうね。


朝の匂い。雨あがりの匂い。

サント・シャペルが音もなく佇むその一角で、ふたりは眠った。
いつもの昼寝のように寄り添って、気持ちよさそうに眠った。

いつの間にか、ふたつの虹は空から消えていた。

寄り添ったままのふたりが大きく笑い合いながら、時折飛び跳ねたりしながら、その虹の橋の向こうへと歩いていく姿があったことを、きっと誰も知らない。

誰も知らない。

『虹を見た日』

ねえカナリ。
これからも、となりで笑っていてくれる?
これからも、となりでぼくが護るから。


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