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まるがすんすんするとき

「ねえねえ、これ、なんのにおい?」
時折、まるの声が聴こえる。
目を細めて、鼻をすんすんして、かわいい顔が小刻みに動く。
「ねえねえ母ちゃん、ぼくこのにおいあんま好きちゃう」
「あらごめんねぇ、ちょっと寒いけど換気しとこっか」
そんな感じで、わたしは夕餉のしたくをしていく。

キッチン横の縦長に切り取られた小窓には薄明が貼り付いていて、もうすぐ夜が来ることを教えてくれた。
その小窓を少しだけ開けて、遠慮なく入り込んでくるヒリ、と冷たい空気が好きだったりする。
「ごはんならしかたないな、ぼくもっかい寝るわ」
ふん、とそっぽを向いて、サークル内のハンモックで丸まる動きをする息子。
それを横目にわたしは、また手をシンクに向けた。


猫を譲渡してもらうことになったとき、真っ先に決めたのは、大好きな香りものを諦めることだった。

昔、ルームフレグランスや入浴剤などの香りものの雑貨を接客販売していたこともあるくらい、わたしは香水、お香、ディフューザー、そういうものが好きだった。
猫好きのなおさんと籍を入れ、いつかは猫を飼いたいねなどといつも話していて。
そうだね、そうしたらいつかはフレグランスも控えるようにしなきゃね、などと思っていた。

引っ越しの際、収集していたフレグランスのほとんどを処理した。
売れそうなものは売って、お下がりで良ければと友人に貰ってもらって、日が経って劣化しているものは廃棄する。
はっきり断言すると、引っ越しの作業でいちばん面倒だったのがこれ。アルコールがあるので液体をティッシュやペーパーに染み込ませて、揮発させてから可燃ごみへ。ボトルはガラス瓶とキャップを分けて。本当に面倒だしどう考えても環境に悪いし、火気なのでとても危険だしで。

その時から本当は、「この先香水はあまり買わないだろうな」と思っていた。げんなりしながら。
本当に本当に大好きで想い入れの特にある、指折り数えられるほどの小瓶を、丁寧に梱包して新居に連れていった。

引っ越してから間もなくの事だった。
「ブリティッシュショートヘアの赤ちゃんを保護した」と、知り合いの動物病院の先生から連絡を受けたのは。


寝室にしている部屋の角に、腰くらいの背丈の木製の戸棚がある。その上に楕円形の鏡と、ガラス製のジュエリーボックスがあって、金の葉っぱを模したお皿には、パールをあしらったヘアゴムとかが乗っていて。
わたしのちいさなドレッサーみたいな空間のそのまた隅に、想い入れのある数個のボトルがそっと佇んでいる。
ほんの時たま、特別な外出をするときに少しつけていくか、重い香りのものはキャップを外してひと息嗅ぐだけで楽しんだりしている。

猫はちゃんと表情で伝えてくる、面白いことに。
そういえばあんまり意識はしていなかったけれど、彼を家に迎えてから一度も納豆を食べていない。
納豆は猫にとってアウトなんだろうか?後で調べてみようかな。

陽当りのいいリビングからディフューザーは消えて、消臭剤ひとつとっても気を遣ったりする。
当たり前だ、かわいい家族のことだもの。
生まれて8ヶ月を越えて、日に日にブリティッシュショートヘアらしくずんぐりになっていく、まる。
数ヶ月経ってもあの頃決断した気持ちは、今も同じだよ。

ごはんは毎日作るものだし、珈琲も飲めなくなってはどうしようもなくなってしまうから、いつもごめんねって思ったり、まるのトイレの臭いの解決法をなおさんと考えたり、色々試してみたりしながらまるのすんすんを観察したり、
なんだか不器用な父と母だけど。

香りはこれからも大好きだけど。たくさん手放したけど、何ともないよ。
大切にしたい宝物が変わっただけなんだ。

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#夫婦 #暮らし

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