創作『夜のテラスのテーブルで』
「レセダ、わたし腕時計がほしい」
わたしが彼にした、最初で最後のおねだりだった。
脚がアイアンの四角い小さな木製テーブルと、ちょっと違うデティールで風合いを合わせたようなチェア。わたしたちはいつものビストロのこの席でいつものように食事を軽く済ませて、今は後で注文したモカを待っている。
周りも程よく賑わう夜。店内からの灯りと外のランタンが、石畳をほのかに照らしていた。風は涼しくて、だけど爽やかな甘い香りで。
向かいに座るレセダが好きでよく腕につけているパルファムの香りに似ていた。
「うん、いいよ。どんなのがいい?」
僕、女性物はよくわかんないんだ。
テーブルの上で腕組みしながら、彼はそんなことを言う。いつもより優しくて落ち着いた声音がやけに耳の奥に届いた。
「ちがう」
わたしの声はたぶんちょっと震えている。
「あなたがつけてるのがほしいの、」
右手を頬に当てながら言うと、きょとんとした視線を自身の左手首に落とすレセダ。これ?というようにわたしに向けられた文字盤が、光を小さく反射していた。
「うん、ああでも、高いやつだったならいいんだけど」
半分勢い余って出てきたおねだりだから、我に返って少し戸惑う。別にあなたの気持ちを揺さぶりたいわけじゃないのよ。
けれど彼は意図がわかったのか、すぐに「待ってね」と言ってふせ目になって腕時計を外した。
「えっ、」
今度はわたしがきょとんとなる。
「なあに?きみが欲しいって言ったんでしょう?」
目を丸くしているわたしを静かに笑って、わたしの左手を取る。
「イリス。本当にこれでいいの?」
彼が私の手首に時計をつけようとしている。テーブルのグラスの水が少し揺れた。
「。。。。うん、これがいいの」
シルバーに枠どられた丸い文字盤は、夜の色みたいな、彼が好きな煙草の箱みたいな。きれいな青だった。
嘘だよ、本当に欲しいのは、これからもあなたと一緒にいられる時間よ。
イリス、と甘い声がする。これからモデルを職業にすると覚悟した彼の、容姿よりも好きな声。
「これは僕の分身みたいなものだから、きっと大事にしてね」
そうね。仕方がないから分身で我慢してあげるんだよ。
「でも、すごくお気に入りのものだから、僕また同じ物を買うと思う!」
そうしたらお揃いだね?とかおどけながら、彼の骨ばった手が優しく離れた。
左手に煌めく腕時計はぶかぶかで、温かくて重かった。瞬きもしないのに涙がぽたりぽたりとテーブルに雫をつくる。
「ああイリス、泣かないで」
困った声を出している彼に悲しい気持ちを隠したくて、嬉しい気持ちだけを伝えたくて、鼻をすすってから無理やりでも笑った。
「レセダ、おめでとう」
もうきっと逢えないあなた。遠くで活躍して、どうか有名になって。わたしの親友であり、わたしの愛しいひと。
食後のモカがようやくテーブルに置かれて、わたしは顔を隠すように白いカップを持った。ほろ苦いショコラの香りは、鼻が詰まっていて少ししかわからないけれど、なぜだかレセダの甘い香りは時計から脳裏に広がっていく。
うまく笑えていたかはわからない。声は相変わらず震えていた。
「。。。うん、うん、ありがとう」
涙の膜で視界がぼんやりしていたから顔はわからないけれど、レセダの声も震えているような気がした。ランタンのオレンジが滲んできれいだなと思った。
「その腕時計は、きみのほうがよく似合ってるよ。」
きみの名前の花みたいなきれいな青だからね。
それから、祈るような囁きが降ってきた。
「絶対に幸せになるんだよ。僕の大切なイリス」
声も香りも甘くて、けれど甘すぎなくて。
わたしは本当に本当に大好きだった。
すっかり人気モデルになった彼が落とすSNSの画像をつらつらと眺めている。
長い指の骨ばった手が素敵なひとだったから、オフのときにいつも左手につけている腕時計の話はよく囁かれていた。「ハイブランドじゃないところが気取らなくて素敵」とか、「いつもつけているけど、大切な家族から貰ったものなのかしら」とか。
わたしにくれたものと同じシリーズ。わたしに似合うと言ってくれた青の文字盤。
──そうしたらお揃いだね?
ふふ、と小さく笑みがこぼれた。あのときとは違って、彼とはきっとまた逢える気がしている。
あなたがくれた、あなたの分身。ぶかぶかなサイズは直すことはなく、大胆なブレスレッドのようにルーズにつけて、彼がくれたときのままで大切にしてきた。左手首の丸い文字盤が、わたしに今でも輝きを向けてくれている。
レセダのパルファムがまだ残るわけもないのに、爽やかで甘くて愛しい香りがした。
『夜のテラスのテーブルで』
レセダ。どうかいつでも強く笑っていてほしい。あなたが最後に望んだわたしの幸せとは、そういうことなのだから。
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