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菫人間

菫程な小さき人に生れたし
という漱石の俳句が好きだ。
菫という花もその名前も好きだし、小さいものも好きだ。
自分が菫みたいだったら素敵だ。
アリエッティよりもっと小さい。
どうしたら菫ほどの人になれるだろう。

春の始めの公園のイベントの、日曜日の早朝のファーマーズマーケットでそれは売っていた。菫の花の砂糖漬けだ。まるで漬物のように小さなパックに入れて白いビニールを敷いた台の上に並べてあった。
売っていたのはショートカットの頭に桜色のバンダナを巻いて黒縁のメガネをマスクで曇らせ、デニム地のエプロンを付け、桜柄の腕あて、黒い長靴をはいたほっそりした女性だった。農家の人らしいようならしくないような人だった。
パックの上に一枚一枚、手書きの小さなシールが貼ってある。
「菫の花の砂糖漬け・100えん」
私はびっくりする。この人はこんな小さな紙に、こんな画数多めの文字を細いペンでちまちま書いたのか。平仮名ですみれとか、片仮名でスミレとか、私だったらそうするのに。それなのになぜ円ではなく「えん」なのだろう。いや、商品は一種類しかおいていないようだから、少し大きな紙に「菫の花の砂糖漬け100円」と書いて台に貼っておけばいいだろう。
私はそんな考えを巡らせていたせいでやけに熱心に台をみつめてしまい、すっかり買わざるを得なくなった。向こうも買うのだろうと判断し、商品の説明をしてくる。
「うちの裏にはとても広い菫の花畑があるんです。それはそれは広い花畑です。菫なんて普通は電柱の下にちょっぴり咲いてたりしますよね?でもうちの菫の花畑は誰もみたことのないほどたくさんの菫が咲いているんです。
それを私が摘んできて砂糖漬けにしました。作るの簡単なんですよ。洗って水気をふいて卵白を付けてグラニュー糖をまぶすだけ。
菫の花の砂糖漬けはあのショパンが好んでホットチョコレートに入れて飲んでいたとか。私も真似してホットチョコレートに入れて飲んでます。正確にはホットチョコレートじゃなくてショコラショーっていうらしいですよ。このマーケットでも本当は菫の砂糖漬け入りショコラショーを出してみたいと思っていたんです。でも支度が間に合いませんでした。次に冬にイベントするときは必ずそれを出したいんです」
春の小鳥のさえずりのように小さくて早口な彼女の説明は頭にさざ波のように流れ込む。私は一つだけ、白い菫の砂糖漬けをみつける。彼女はすぐにそれに気がついた。
「ああそれは」
彼女は小さな声を少し低くしてテンションも下げて言う。
「それは特別な菫の花の砂糖漬けでそれを食べると漱石の俳句みたいな小さな菫人間になってしまいます」
えっ?私が顔を上げると、彼女は真顔のまま続けた。
「かもしれません」
なんだ、かもしれません、か。
「が」
彼女はもっと厳しい真顔になっていう。
「ほぼ確実に菫人間になります。私の姑はそれを食べて小さくなってどこかに行ってしまいました」
彼女は顔を上げて遠くの方の空をみる。しーん…
「じゃ、じゃあ、これとこれください」
私は菫の花の砂糖漬けの入った小さなパックを、普通の紫のとその白いのと二つ持ち上げて彼女に渡した。彼女はハッとした顔のまま、いいんですか?というので、もちろん、と私は答えた。
「そうですか、もちろん、ですか。
では一応お伝えしますが菫人間の寿命は菫の花よりはずいぶん長いですが人間よりは短いと思います。私の姑はもうどこかで死んでしまったでしょう。
たぶん最初は楽しいような気がしても、小さな小さな菫人間になってしまったことをすぐ後悔するでしょう。もとに戻る方法は一つだけあると姑が言っていました。自分のことをものすごく愛している人が見つけだしてくれて同じ菫の花の砂糖漬け入りの紅茶を飲ませてくれることだと。でも姑が菫になるまえに姑の最愛の夫である舅は亡くなっていたので彼女はそのまま菫人間として消える覚悟なのだと言っていました」
聴きながら私はどんな姑と嫁だよ、と心の中で突っ込みを入れた。うちのお義母さんはグラウンドゴルフに出かけている。菫の花の砂糖漬けというものがあることも知らないだろう、菫を雑草と思っているだろう。
「わかりました、覚えておきます」
私は彼女に深く頷いて見せて彼女を安心させた。そしてこう説明した。
「菫人間になったらそのまま消えてしまいたいですから大丈夫です」
おしゃべりな彼女の眼鏡はもう最初より更に曇ってしまっている。
「そうなんですか。でも一応覚えておいてくださいね」
私は反論してみる。
「でも菫人間になる私がそれを覚えておいてもどうにもなりませんよね?もう菫人間になってすごく小さくなってそこらの山のどこかにいるんですから」
私は公園の奥の山を指さす。そしてはっとする。
「でもそんな小さかったら寿命になる前にネズミにかじられたり、猫につかまったり、カラスに食べられてしまったりするでしょうね」
彼女は頷き、もちろんその心配もありますと言った。
「だから菫人間になるまえに、私の言った戻り方を紙に書いて残りの白い菫の花の砂糖漬けとティーバッグをご主人か誰かに渡しておいてください、そうしておけばいいんです」
「もしも夫が私を愛していない場合は?」
彼女は悲しそうに首を横に振った。
「だめですね」
やれやれ、と私は思い、なんだかとても疲れてしまった。
彼女の作った菫の花の砂糖漬けを自分の小さな葡萄の蔓で編んだ籠に入れるともう帰ることにした。ほんとうは2つ先のハーブを売っている店ものぞいてみたかったし、いつも立ち寄る自家焙煎珈琲屋さんで紙コップ一杯コーヒーを飲みたかったし、先の方に見えるミモザの花束を売っている店もみようと思っていたがもう疲れてしまった。
わたしが立ち去った彼女の店に別の女性が立ち寄るのがちらっと見えた。もう白い菫の花の砂糖漬けはないのだろうか。あったらあの女性もそれを買うだろうか。

帰り道の籠の中には財布とスマホと菫の花の砂糖漬けだけ入っている。白いのと紫のと。
歩きながら私は思う。今日の午後にケーキを焼こう。スポンジケーキを焼いたら生クリームをゆるく立てて、切ったケーキにとろり、と掛ける。その上に菫の花の砂糖漬けを飾ろう。紫がよく映えるだろう。でも白いクリームの上に白い菫を乗せるのも素敵だな。それを食べて菫人間になったらさらに素敵だな。
そんなことを思いながら春の日曜日が始まった。

* ↓ 続編のようなもの *


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