この私で、この世界に何ができるか
長年、自分のことを「なぜこんなに貧乏性なんだろう」と思って来た。
自分を貧乏性だと思うなんて、悲しい。
でも、その感覚が付きまとっていた。
現実には困っているようには見えないと思う。
ちゃんと仕事をしてちゃんと家があり、好きな服を着ている。
でも、「足りないオバケ👻」が私の肩に乗っているかんじだった。
もっと知りたい、もっと学びたい、もっと教えてほしい、
良い本はないか、良い講座はないか、良い先生はいないか、、、
学ぶことにも貪欲だった。
お陰でたくさんの良いものに出会って、生涯の知恵となって物もあるけど、
私の「足りないオバケ👻」の正体は、見えそうで見えない感じだった。
今朝の瞑想で、そんな過去の自分の姿を見た。
そして、そのオバケがほぼ姿を消していることに気づいた。
ない。
できない。
しらない。
分からない。
のオバケから、
ある。
できる。
知ってる。
わかった。
に変わったよな、わたし、、、としみじみ。
それは自分への信用。
物心ついてからずっと、どこかから見つけて来て「埋めないといけない穴」がたくさんあって、探し続けていたのだと思う。
*
ふと開いたメッセージボックスに、長く会っていない友人からのメッセージが入っていた。ひと月もたってから気づいた。
彼女は、年下だけど私のお姉さんのような存在だった。いろんな学びを自分のものにして仕事にして成功していた。私はと言えば、無知だと自分を思い込んでいる状態で、どうしたらいいか分からずにいたときに、彼女の仕事のモニター的な感じでセッションを受けていた、、、とはお互いに思わずに、単に相談に乗ってもらっていたら、そうなっていたのだけど。
それから私は彼女の後を追いかけるように学び始めたが、いつも「惜しい」感じなのだ、、、私自身が。彼女の様になるには、もう一歩足りない感じ。
彼女からもそう思われているのは感じていて、そのあと一歩が埋められなかった。
多分そのあと一歩を邪魔しているのは、
「罪悪感」とか、「承認欲求」だったと思う。
それらと戦っている日々だった。
彼女の講座の案内を受けて、久々に行ってみたのが3年ほど前。
仕事でもある程度良い成績が出せるようになって、自信を付けていた頃。
でも、ふとした時に出た私の一言に、「まだそんなこと言ってる」と彼女が苦笑したことが、ずっと忘れられなかった。
何気なく出た一言だったのだが、そんな言葉ほど、本音だということは、私もわかっていたから。
そしてそれから3年ほど経ったおととい、彼女のメッセージに気づいて、お茶かランチでもしようということになった。
その時、気づいたのは、「ずっと、お姉さんであり、先生だった彼女と、今後は友達として向き合える」という感じだった。
それはなぜか?
ようやく、私の人生も熟成期間に入って来たからだろうと思う。
人と比べてどうとか言うことより、私自身のもともと持っている魂の輝きがようやく自分に見えて来たから、かな。
承認欲求や罪悪感と言うのは、他人軸だと思う。
誰かに対して感じる感覚を手放せないでいるから、感じるもの。
でも、今の私は、私自身であることだけが自分の価値であるとわかって、
彼女は彼女自身であることが彼女の価値であり、みんな一人一人がそうなんだと腑に落ちたというか、もうそうでしかない、と思うところまでたどり着けたのかもしれない。
満ち足りた、と言えるかな。
もともと、そうなのにさ。
なに、この遠回り、、、って思うけど、その道中を私は、「宝探し」の様に楽しんできたわけだ。
ないないない、、、どこ?どこ?あれだ!行ってみよう!学んでみよう!面白い!を繰り返して、宝物をたくさん見つけて、もう十分な私になれた。
なので、ステージが変わって、彼女との関係性も変わるんだろう。
いつも先生みたいな口調だった彼女から、「会いたいな。たまにはお茶でも」という誘いが、すごく嬉しい。
彼女からの誘いのメッセージで自分のステージが変わったことをまた再認識し、これからは、彼女とも「この私で、この世界に何ができるのか」を話すことになりそうな予感がしている。
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