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田中小実昌「ポロポロ」

覚えていないほど昔に読んだこの短編、読書会の課題だったので再読した。

語り手の父は小さな独立系のキリスト教教会の指導者である。少ない信者を集めて細々と活動しているが、戦争中は「一木さん」という男性しか通ってくる者はいない。この教会では既成のお祈りの言葉は使わず、それぞれが「異言」のようなものを発し、それを語り手は「ポロポロ」と表現している。

ある晩、語り手の少年が自宅に帰るとその手前でひとりの男がいて、それを追い越すかたちになり、語り手はそれが一木さんだと思ったので玄関の戸を開けたままにしておく。しかし家の中に入ると一木さんはすでにいるのである。あとで玄関の戸を見ると閉まっている。あれは誰だったのか。というのがこの話の中心の疑問になるのだが、そこまでたどりつく前に家族のことや信仰のこと、戦時中の近所の様子、関東大震災での出来事など、ゆるゆると脱線しながら思い出して語っていく。

なかでも「ポロポロ」という独特の言葉が繰り返されて、読む者はその中身についてはよくわからないが、その語をとりまく事情だけはだんだん理解していく。たぶん語り手は言語が持つ機能の限界を意識していて、言語で表せないものは無理に表そうとしていないのだろう。一見、頼りない文体で書かれているが、そこには哲学的ともいえる厳格さがあるのではないか。その厳格さは特に信仰について考えるときに現れるようだ。

結局、その日は祖父の記念日でもあったので、自宅前で追い抜いた男は祖父の幽霊だったのではという結論めいたことになるが、ほんとうにそれで終わっていいのか。

このことを考えるときに、気になってくる細かな点がいくつかある。まず、「一木さん」と書かれている人物の名前にふりがながないので、なんと読むのかわからない。ほかの言葉には適宜ふりがなをうっているので、この名前にないのは意図的なものだろう。一本の木で視覚的に思い出されるのは十字架ではないか。つまり一木さんは語り手がこだわる真のキリスト教信仰を表すのかもしれない。また、この家の土地には1本の夏みかんの木があり、冬にみかん箱に何箱ぶんもの夏みかんが採れる。この豊かさも真の信仰を象徴しているように思える。

自宅前の謎の人物は「二重まわし」(これはインバネスのようなコートらしい)を着ていることになっていて、この「まわし」に傍点が振ってある。「二重まわし」は短い話のなかで何度も出てきて、毎回傍点が振ってある。これはなぜなのか。この語自体は変わったものではないし、二重まわしも当時よく着られたコートである。なぜ毎回二重まわしを着ていたと説明するのか。「一木さん」と「二重まわし」は何か意味があるのではないか。

そう考えると、謎の人物は一木さんの分身であるような気がする。祖父の幽霊だったかもしれないと曖昧な結末にしているが、この短編自体が真の信仰について考えるものであるし、それを体現するような一木さんの分身が家に入り、玄関を閉めたという解釈もあり得るのではないか。もっと言えば、それはキリストなのではないか...。「ポロポロ」の中身が言葉で表されないように、この謎もはっきりと解かれることはないけれど、それも語り手が考える信仰のとらえがたさを表現しているように思った。

(今回の「ポロポロ」は『日本文学100年の名作、第7巻に収録されていたもの。この短編集ではほかに安部公房の「公然の秘密」が抜きんでて印象的だった。)





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