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カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』ハヤカワepi文庫

読んでいるときは面白くどんどん読み進めたが、読み終わってみると、「はて、あれは何だったんだろう」と考えてしまう。あちこちに変なところがあって、いや、いくら「信頼できない語り手」で有名なイシグロとはいえ、この語り手はあやしすぎないか、「信頼できない」ところばかりで、いったい「信頼できる」部分はどこなのだろうと考えこんでしまった。いったん読み終わって、またすぐに最初から読み直した小説は初めてだ。一見まっとうなリアリズム小説だが、実はとんでもなく変な小説なのではないか。

主人公の男性は子どものころに上海の租界で育った。イギリス、フランス、日本など様々な国が駐在員を置いている自由な地区だ。(租界は前に読んだ『エリザベスの友達』にも描かれていた。)ところが彼の父親が、ついで母親が行方不明となり、男の子はイギリスの親戚に送られる。成長していい大学を出た彼は、有名な探偵を目指す。そして実際、探偵として難事件を片付けて有名になる。親を亡くしたジェニファーという女の子を養女に迎える。ここまでは細かい部分に目をつぶれば普通に読める。しかしどうも納得できないことが増えるのは彼が大事件の最終的な解決のために上海に行ってからだ。

まもなく戦争がはじまりそうなきな臭い雰囲気の上海で、彼は有名な探偵として歓迎される。大使館の人間はあるセレモニーの準備をしているのだが、それは彼の両親が見つかったときのお祝いなのだ。それを聞いて彼もそんなに驚かない。(あれ、両親はずっと行方不明じゃなかったの?)それからも筋が通らないことが次々起きる。彼は両親を探すことでいまの世界の問題が解決できると思っている。(なんで?誇大妄想?)しかし上海のこの重大な事件がまだ解決していないのに、知り合いの人妻サラに出奔を持ちかけられて同意してしまう。(おいおい。何のために来たの?)そしていよいよ駆け落ちの日、サラにちょっと待ってと言われ、そのちょっとの間に外に出て、両親が監禁されている家まで行って助け出そうとする。(はぁ?そんな片手間にできることか?)だいたい子どものころに行方不明になった両親がなぜ何年もずっとその家にいると思うのか。おまけに戦火の中をやっとその家にたどり着いたら、いたのは子どものころに仲良しだった日本人のアキラなのだ。もう、ほんとにすっごく変!

ほかにも細かいことを言えば、昔のことはよく覚えていない、記憶が曖昧だと言いながら、彼は子ども時代の非常に細かいことまでありえないほど覚えている。大人になってたまに会う学校時代のクラスメートからは「きみは友達もおらず、いじめられていた」と言われるのだが、それは自分ではない、誰かと間違っているのではと思っている。いったい、彼はどういう人間なんだろう。この小説に書かれていることすべてが、とんでもない妄想なのではと思えるぐらいだ。

いったいこの小説のなかで何が<真実>なのだろうと考えてしまう...。それは上海での子ども時代が彼にとって特別なものだったこと。そしてそれが失われてしまったこと。それだけではないのか。それとも、イシグロはこの小説で、国際社会の矛盾や困難を訴えようとしたのだろうか。あーあ。とんでもない小説を読まされた気分だ。それでいて面白く読んだ自分がなんだか悔しい。

わたしはふだん小説を読んでも、「よくわからなかったから批評を読んでみよう」とは全く思わない。でもこの小説だけは別で、さっそく図書館でイシグロ批評の本を何冊か予約して取り寄せ中である。この変な小説を研究者はどのように解釈してみせるのだろうか。早く読みたい。


追記:批評を読んでもまだすっきりしないが、ある論文で、この小説で上海が混雑した場所として描かれているのは当時のイギリスやヨーロッパが映し出されているということと、また当時ダイアナ妃が交通事故で亡くなったということがあったので、主人公の母がダイアナで正義感の強い美しい女性になっているのではという指摘があったのでメモしておく。(菅野素子「二十世紀を駆け抜けて:『わたしたちが孤児だったころ』における語り手の世界と「混雑」した時代の表象」『カズオ・イシグロの視線:記憶・想像・郷愁』作品社、2018年。)


追記2:上の本よりもさらによかったのがヴォイチェフ・ドゥロンク『カズオ・イシグロ 失われたものへの再訪:記憶・トラウマ・ノスタルジア』だった。現代人にとってのノスタルジアの意味を考えながら、この小説を分析していく。この本はお勧めだ。(ところでこの小説が発表された直後は、批評家たちもかなり戸惑ったらしい。そう聞いて安心した。)


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