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水村美苗『母の遺産ー新聞小説』中央公論新社

題名から内容を想像すると、母を介護して死を看取り遺産を受け取る話で、ひょっとしたら自伝的要素もあるのか?などと思ったのだが、そんな単純な話ではまったくなかった。また、『本格小説』『私小説』につづいてなぜ『新聞小説』などとわざわざ発表形態を題名にするのだろうと不思議に思ったが、それも小説の内容と大いに関係がある。さすが水村美苗、と感心した。

まず前半ではわがままな母が老いて病気になり、そろそろ死にそうだが死なないのである。二人姉妹がそれぞれ母親とはうまくいっていなかった過去がありながらも、我慢して介護する。このあたりは実際にこういう体験をしている人も多いだろうし、読売新聞に毎日連載されるこの小説を熱心に読む読者も多かっただろう。

でもそれだけではない。母親がやっと死んで、けっこうな額の遺産を残してくれる。妹は介護の途中で夫の不倫に気づくというしんどい出来事があったが、母の死後はその問題にどう対処するかをじっくりと考えることになる。姉は姉でやはり母親には複雑な感情を抱いていたが、それは自分の現在の結婚生活とも関係している。親が死に、そのあとに親についていろいろ思い出したり、あらためて親と自分の人生の関係を考えることになるのだ。そして同時に起きる夫婦の問題があり、また身体の不調にも苦しむ。「わかるわー」とつぶやきながら読む読者の姿が想像できる。

そして作者は、過去の日本の女性が新聞上で初めて小説というものを読んだことの意味について、明治の新聞連載小説だった『金色夜叉』をたくみにストーリーに取り入れながら指摘する。また中年の女性という、過去には小説の主人公にはなり得なかった者を主人公にして、その生活をリアルに描いてみせる。「次はどうなるの?」という興味で読者をぐいぐいと引っ張りつつ、『金色夜叉』や『ボヴァリー夫人』や、さらにはたぶん『細雪』の雰囲気も盛り込んだりしていて、実は文学史的なスケールもあるのだ。

最後に妹は湖畔のホテルに長期逗留する。そこで広げられる人間模様は、クリスティの推理小説の謎解きのような雰囲気もただよう。そのせいで最後の展開は特にスピード感があった。(実はわたくし、2泊3日の旅行をしてきのう帰ってきたところだが旅行中に新幹線やホテルでほぼ読んでしまった。)

ひとつだけ不満な点は、結局主人公は母からの遺産によって物質的に余裕のある暮らしができるようになるのだけれど、そのような結末は大半の新聞読者には起こり得ない話だということ。はたして現代の女性読者にこの新聞小説はどのように働きかけるのだろうか。わたしはといえば、窓から緑豊かな井の頭公園の景色が見えるという最後の場面で、「やっぱりお金が大事。お金が充分ない人生はみじめだ」と思い知らされたような気がして、フィクションと現実の苦い落差を感じたのだった。
(追記:ただ、それもオースティンやブロンテ姉妹などにも通じる、ある種の女の真理なのだろう。)


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