自己肯定感と羞恥心は矛盾するもの?
『自己肯定感と羞恥心がどっちもあるってどういうことなんだろう?』
今日は河川敷を散歩しながらそんなことを考えたのでnoteに綴りながら考えをまとめてみようと思います。
最初に考えていたのは「決断する」ということについて。
「決断する」とはイコール「自分を信じること」なんじゃないのかな?
自分のことを信じていないと、とてもじゃないけれど大きな決断なんて怖くてできません。
つまり自分が正しい決断ができる自信がないということ。
それが大きなものになればなるほど、自分だけじゃなく相手やそれに関係するすべての人を信頼できて初めて大きな決断をすることができる。
予測できないことがあるからこそ、どんな結果になっても自分の決断の責任をとる強い覚悟が必要になってくる。
決断には自己肯定感、もっというと人生そのものを肯定する力が必要だと思います。
私の場合は、子供の頃からやってみたい習い事や進路などすべてにおいて両親が私の考えを尊重してくれていました。
それは両親が心から私を信頼してくれていた証。
おかげで人生における大事な決断はすべて自分で行うことができました。
自己肯定感はいつのまにか身についていたように思います。
親に信頼されているという実感は何ものにも代えがたい自信につながっています。
そこでふと浮かんできたのが、
「それじゃこの小さい頃からなくならない過剰な羞恥心は一体何なんだろう?」
という疑問。
自己肯定感はあるはずなのに、昔から私のなかに深く根を張り続けている羞恥心。
とても恥ずかしくて人に話しかけることがなかなかできない。
私なんかに気を留めてもらうのが申し訳なくて挨拶もまともにできなかった。
(いまは大人なので最低限のマナーは身に付けていますが。)
目立つのが怖くてSNSも一切できず39歳になってようやくnoteとXを怯えながらコソコソと始めたくらいです。
考えられる理由として浮かんできたのは、
「もしかすると過剰な羞恥心によって物理的に自分を守っていたのかもしれない」
ということ。
思い返せば、保育園児だった頃から、
「女の子だから」「女性だから」
という理由で数え切れないくらいの怖い目に遭ってきました。
人に守ってもらうこともできますが、できることなら最初からそんな可能性が起こるような状況を限りなく減らしておいたほうが安心です。
本能的な防衛反応なのか、潜在意識なのか分かりませんが、だから極力目立つことを控え、できるだけ人の目に触れないようにし、危険を回避してきたのかもしれないなと。
たとえば私は人より嗅覚が鋭いのですが、この特性がお腹が弱いという自分の弱点をカバーしてくれていたということもつい最近気付きました。
悪くなりかけの食材や体に合わないような食べ物は匂いですぐに分かるのでお腹を壊す危険をずっと回避できていたという事実。
こんなふうに自分が意識していないところでも体は自分を守るために働いてくれているんだと分かったので、私の過剰な羞恥心にもきっと何らかの意味が含まれているんだろうと思えるのです。
でもいまは自分の文章を人に届けるためこの根深い羞恥心を手放そうと少しずつ努力を始めているところ。
まだ始めたばかりですが、自分の羞恥心とうまく折り合いをつけながら楽しんで続けていけたらと思っています。
結論をいうと、自己肯定感と羞恥心は矛盾するものではないということ。
私にとって自己肯定感は自分らしく生きていくうえで必要なもの、羞恥心は自分の身を守るため、安全に生きていくために必要なものです。
あくまで私の場合ですが、もし同じような方がいらっしゃったら羞恥心もきっと自分にとって必要なものだからあるんだろうなと気をラクにしてもらえるといいなと思っています。
2024.4.2
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