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写真展「border」徹底ガイドvol.4 /borderはいかに引かれるのか 「イスラム国」の境界線

■Wall B 
ここからの壁はWall B と呼んでいるセクションで、今回の展示の根幹をなすパート。ヨーロッパからアジアまで、ユーラシア大陸をイメージした壁となっている。

■#02 Peja, Kosovo 2008

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破壊されたゴミだらけの建物の中に、白馬が佇んでいる。新しい国ができるというのは、どんなことなのだろう。そんな思いで撮った写真である。

2008年2月、コソボ共和国はセルビアからの独立を宣言した。特に90年代以降2つの民族(セルビア人とアルバニア人)の間で陰惨な争いが展開され、日本でも「コソボ紛争」として報道されたのをご記憶の方は多いと思う。
私は独立宣言から1ヶ月後の2008年3月にコソボ各地を回り、独立を得たアルバニア人、迫害される側となったセルビア人、市井の人々から首相まで、多様な人々をフィルムに収めた。ペヤという地方都市で撮影したこの一枚。破壊された建物の中にたたずむ白馬は、傷つきながらも独立を求めたコソボ共和国そのものの姿に重なった。
borderを明確にし、国を作るということ。そうすることによってマジョリティとマイノリティが生まれる。写真展開催中の2020年9月、アメリカのホワイトハウスにセルビアとコソボの首脳が集い、経済関係を正常化することが発表された。あの日々に流した血の意味は、今も問われ続けている。

■#03 Joub Jannine. Syrian Refugee Camp, Lebanon 2013

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レバノンの首都ベイルートから車で2時間ほど東に向かうと、すぐにシリアとの国境地帯となる。ジェブジェニンという町にはいくつかの難民キャンプがあって、内戦を逃れてきた人々が暮らしていた。この少女については、会期中に東京新聞に書いている。

200828東京新聞_あしたのひかり

一人の少女の肖像がある。白い肌に茶色い瞳、静かにたたずむ彼女はニューヨークにいても違和感はないだろう、しかし彼女の足元ははだしである。撮影場所はレバノン、ベカー高原の難民キャンプ。その眼差しは「難民」などと定義されることを、全身で拒否しているようにも感じた。

ヨーロッパ各地に作られた難民キャンプや、ヨルダンのオーガナイズされた難民キャンプに比べると、レバノンのキャンプの環境はかなり劣悪だった。人口600万人の国に100万人のシリア難民が押し寄せたことは社会を不安定化させる要因となり、レバノンに逃げたとしても、極めて苦しい生活を強いられている。

この撮影から7年が経った2020年、NHKでコロナ禍で孤立するレバノンのシリア難民キャンプのドキュメンタリーが放送された。彼女の姿は確認できなかったが、この難民キャンプは、今も変わらずに存在している。

■#04 Golan Heights 2013

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ゴラン高原は、イスラエル、レバノン、ヨルダン、シリアのborderが接する高原である。イスラエルとシリアの境界線を地図で確認してみると実線ではなく点線で描かれているのがわかる。この土地はシリアに属していたが、第三次中東戦争(1967)と第四次中東戦争(1973)によってイスラエルに実効支配されることとなり、現在もその状態が続いている。

境界線には戦車の砲塔がいくつも設置され、シリア側を威圧している。この場所は高台になっていて、麓にはシリアの街が広がっているのだ。この写真を撮影したのは2013年の秋。シリア内戦は泥沼化し「パパパパパパ…」「ドン…ドン…」と銃声や砲声が聞こえた。
しかし、イスラエル領であるこの場所は平和そのもので、少し移動すればサイクリングや乗馬を楽しむ人がいたり、マクドナルドでハッピーセットを売っていたりする。

「地図上に引かれた一本の線は、人間の運命をどう変えるのか」

その言葉をより深く感じる場所だった。

■#05 Mosul, Iraq 2018

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空爆と地上戦で破壊しつくされた町に、古い車が放置されている。イラク第二の都市、モスル。私はこの街を15年ぶりに訪れていた。

2003年、この街には白とオレンジに塗られたこのようなタクシーが沢山走っていた。どんな車もこのカラーリングにしないとタクシーにならないようで、様々な形の車が同じカラーリングで走っている姿が印象的だった。(当時撮影した一枚は写真集「ある日、」に収録されている)フセイン政権下のイラク・モスル。マクロの視点で見れば「大量兵器を隠したフセイン政権の独裁国家」だが、ミクロの視点で見れば、昔ながらの生活が息づいた庶民の街そのものだった。

それから15年、この街は2つの大きな出来事を経験した。イラク戦争、そして「イスラム国」による占拠と解放である。特に後者はこの街の姿を大きく変えた。

「イスラム国」が目指したものは既存borderの否定であり、新しいborderの創造(もしくはより古いborderの復活)であった。現在のシリアやイラクの国境線は1916年にイギリスとフランス間で結ばれた「サイクスーピコ協定」が元となっている。欧州諸国の利害優先で引かれたborderにどれほどの意味があるのか、という主張には、それなりの意味があるようにも思える。
2014年の6月に「イスラム国」の支配下に堕ちたモスルは、圧政と処刑、誘拐とテロが繰り返される街となった。そして“第二次世界大戦以降最悪”とも言われる解放作戦により2017年7月に解放。この作戦では空爆が行われ、街は廃墟となっている。(この街については別のリポートがあるので宜しければ御覧頂きたい)
「イスラム国」が目指したのはborderの引き直しだった。結局、元に戻ったイラクとシリアのborderだが、その線の正統性についた疑問符が消えることはなく、「第二のイスラム国」がやがて出現するのかもしれない。




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