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「迷惑をかけてはいけない」の「迷惑」って…?必要とされる幸せもあるはず

みなさんこんにちは。
まだnoteをはじめて1週間程度のぴよぴよの私の記事にたくさんの方が目をとめてくださって(他の方からみたら微々たる数かもしれませんが、私にとってはビックリするような状況です!)、本当に有難く思っています。
そして、他の方の記事を拝見したり、交流したりすることがとても刺激になっていて、書きたいことが次々出てきて、自分の頭と体が追い付いていません!(汗)

その中から今日は、ななさんの記事に刺激を受けて、感じていることを言葉にしてみたいと思います。

日本の教育の在り方にはいろいろと課題意識をもっているのですが、その中でも、「迷惑をかけていけない」ということを当たり前のように刷り込まれていることがとても問題だと感じています。

私自身、その刷り込みに長い間とらわれて苦しんできて、誰かに迷惑をかけた時はもちろん、助けてもらったり、気にかけてもらったり、優しさを分けてもらった時ですら、「ごめんなさい」「すみません」ととにかく謝っていたことを覚えています。助けてもらうことも相手に迷惑をかけること、気にかけさせることは相手に負担をかけることだと思い込んでいました。
どこかのタイミングで「ありがとう」に変えようと努力して、今は「ありがとう」を当たり前に言えるようになりましたが、時々昔の自分のような人に出会うととても心配で、「大丈夫だよ、あなたは全然迷惑なんてかけてないよ、安心して、そのままいていいんだよ」と伝えてぎゅっと抱きしめたくなります(実際にやったら変な人になっちゃうので心の中で思うだけです!)。

そもそも「迷惑」ってなんなんだろう、、、、と今は疑問に思っています。昨日神社にいったら、「ひとに迷惑をかけてはいけない」というような言葉が貼られていたので、神様にたてつくようで心苦しいのですが、私たちが思いこまされている「迷惑」は本来の「迷惑」の範囲を大きく超えているのではないか、ということは少なくとも言ってもいいのではないかと思います。

ところで、日本理化学工業という、障害者雇用を先駆け的に進めてこられたチョーク製造の会社の元会長の大山泰弘さんが、このような言葉を長年伝えてこられました。

「導師は人間の究極の幸せは
人に愛されること、
人にほめられること、
人の役に立つこと、
人から必要とされること の4つと言われました。
働くことによって愛以外の3つの幸せは得られるのだ。
私はその愛までも得られると思う。(元会長 大山 泰弘)」

(※日本理化学工業株式会社HPより)

私はこの言葉が大好きで、人の神髄をとらえているのではないかと思っています。
その中でも、「人から必要とされること」って、人が生きていく上でとてもとても大切な要素だと思っていて、たとえば高齢者の方に「〇〇教えてほしい」とか「〇〇助けてほしい」とかお願いすると、急に活き活きしてきて目が輝くように元気になられて、必要とされるって生きがいにつながるくらい大切なことなのかもしれないと感じます。
(もちろん必要とされすぎるのはつらくなることもあるのでいったん横に置きます。あと、自分の都合のために利用する(パシリみたいな)形はここで意図する「必要とされる」とは違うので除きます。)

なんならどんどん助けてもらう方がお互いにとっていいじゃん!自分が困っていたら人に助けてもらう、それに対して誠心誠意感謝する(形だけのものはwin-winにはならない)ことを教えることの方が、よっぽど大切じゃない?

全然迷惑なんかじゃないです。私のキャパシティを超えてしまって、受け取ることが難しいときは、そう伝えさせてもらいます。でもそれは迷惑とは違う。だから、安心して「助けてほしい」と言ってほしい。私のできる範囲で全力で助けます。そして、私も、たくさんの人に助けてもらいながら生きていきたいと思います。

そんな風にお互い助け合って、支え合って、それでいいじゃん、それが楽しいじゃんっていう社会になっていってほしいなと、心の底から思っています。

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