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自信を持ちづらい社会

先日カウンセリングを受けてきました。

最初に少し脱線すると、カウンセリング(「教育分析」と言うこともあります)を受けることは、心理学を志している人間にとっては割と普通のことです。カウンセリングを受けると自分の無意識と関わりやすくなるので、自分がカウンセリングをする側になった時に自分の問題をクライアントさんに無意識に押し付けてしまうことが少なくなります。
日常生活でも、怒ったりすることはほとんどなくなりますし、だいぶ生きやすくなると思うので、日本でもカウンセリングを受けることが普通になったらいいなと思っているのですが、まだまだ道のりは遠そうです。


話を戻して、カウンセリングでよく出てくる自分のテーマが、自信のなさです。いつもどこか不安で、失敗しないかとビクビクして、誰かから指摘されるともうダメだと感じます。少しずつ緩和してきてはいますが、まだまだ付き合っていく必要のある自分のテーマだと感じています。

カウンセリングでその話をしながら考えていたのが、そもそも日本って自信を持ちづらい社会なのかもしれないということです。
目立つことは良いことではなく、出る杭は打たれ、謙虚で控えめであることが良しとされる文化。優れていると妬まれ、批判され、いいことをすると善人ぶっていると蔑まされる。みんな横並びであることを良しとされ、それに乗れないと否定される、みんなと同じ努力を期待される。
よっぽど飛び抜けているか、親がよっぽど子ども第一主義でない限りは、まわりの目を気にしながら生きるより仕方ないのかもしれないとすら思います。


私のお世話になっているカウンセラーさんは、AEDP(加速化体験力動療法)という手法を中心にされています。
AEDPが大切にしているのは、傷ついている自分や不安に感じている自分を、励ましたり考え方を変えさせたりするのではなく、その気持ちに寄り添い大切に感じてあげること。

普通に生活していると、傷つきや不安、妬み、怒り、といったネガティブとされる感情は、いったん喉元を過ぎてしまえば、なかったかのように過ごすことがほとんどだと思います。
でも、見えなくなっているだけで、心の奥底では結構溜まっていたりするんですよね。その蓄積が限界を超えると、メンタル不調という形で”もう無理だよ”と教えてくれるのかもしれません。


カウンセリングでは、そうした普段感じないようにしている気持ちを取り出してきて、大切に抱きしめてあげる。つらかったね、苦しかったよね、と言葉をかけてあげる。

それで何が変わるの?と思われるかもしれませんが、不思議なことに、とても癒されるんですよね。ほっとします。そう感じていた自分の気持ちはダメではなかったんだと、安心して、消えてなくなる(成仏する?)ようなイメージです。
そうすると、少しずつ、自分の中で扱える感情が増えていきます。
たとえば、怒りを感じても、この発言は私のことを大切にしてもらえていないように感じてつらいんだなとかわかってくるので、怒りという形ではなくて、こういう風に感じてつらい、と落ち着いて伝えることができるようになります。そうすると、相手も受け取りやすくなってwin-winです。


心理学を勉強しはじめてからもう20年近く経ちますが、ネガティブな感情もとっても大切な自分の一部なんだということを最近やっと実感をもってわかるようになりました。
怒ったり、悲しんだり、妬んだり、落ち込んだり、全部大切な気持ちです。ない方がいいなんてことは全くありません。自分のどこかが傷ついているサイン。それをないことにしてしまったら、きっと本当の意味で自分を大切にしてあげることはできませんし、心の底から自信を持つことは難しいのではないかと思います。

自信とは、自分を信じること。傷ついたり悩んだり、そうした自分も全部ひっくるめて、自分を大切にしてあげられることなのだと思います。そして、そうなるためには、近くにいる誰かがそれを一緒に認めて大切にしてくれたという経験が必要です。


noteという場所はもしかしたら、ここを補う役割を果たしてくれているのかもしれないと思います。
ここでは、自分らしさを発揮しづらい場所(家族や学校、職場、友人関係など)から離れて、自分が表現したいことを自由に表現することができ、それをスキだと言ってくれる人がたくさんいてくれる。
この場所で自分を表現することを練習し、自分らしくていいんだという自信をつけて、もっと広い世界に旅立っていく、そのプロセスを助けてくれる場所なのかもしれません。

そんな場所が、現実にももっともっと増えていったらいいなと思います。

私も、そんな場所づくりをこれからも模索していきたいと思います。



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