見出し画像

「教える」ではなく、その人の近くに置く感覚

「教える」ということに違和感を覚えることが、わりとよくあります。
なんとなく上からのように感じるのが気になるのだと思います。
もちろん、正解のあることは「教える」ことが必要な時もあると思っています。
でも、そもそも正解のあることなんてそんなにあるのかな…。

私は、置く感覚を大事にしています。
「教える」のではなくて、選択肢を、相手の目の前の空間に浮かべる感じ。ん?置く?浮かべる?まぁなんでもいいです(笑)

「こうするのがいいよ」と伝えることは、もしそれが相手にとって本当に有益なものであったとしても、“今の自分”が否定されたように感じて苦しくなってしまうこともあると思うんです。余裕がないときは特に。

そう感じさせたくない。あなたが悪いといいたいんじゃない、あなたは十分頑張っているよ、ただ、あなたの気持ちを少しでも軽くするためにできることがあるならそれをしたいだけだよ、という気持ちを伝えたいから、「こんなやり方もあるかもしれない」「私だったらこういう風にしてみるかも」といった言い方で、選択肢を目の前に並べるようなイメージを大切にしています。

そんな風に伝えてみると、相手はだいぶ手にとりやすいように感じますし、たとえその時は拒否的になったとしても、少し時間がたったら手にとることができていることが多い、というのが私の印象です。

イメージ、伝わるでしょうか…。
たとえば、仕事がつらそうな人に「やめた方がいいんじゃない」も「もっと頑張れ(頑張ることが正しい)」も言いたくない。だってどっちもつらい。そういう時、たぶん私は、「そんなにつらい状態にいるあなたが心配」「あなたの身を守るために一度休むという選択肢を持ってあげてもいいかもしれない(と私は思う)」「それでももう少し頑張りたいとあなたが思っているなら、私はそれを応援する」という感じで伝えていると思います。

なんてあいまいなことしか言っていないんだろうと感じる人もいるかもしれません。でも、相手に響く選択肢ならば、これくらいの言い方でも届くし、むしろ受け取ってもらいやすいと私は感じています。


正解っぽいことを伝える方が、こちらは楽です。安心だし、ちゃんとやっているって言える。でも、本当に相手のサポートになることを私はしたい。相手が受け取れる言葉を渡したい。
これからも「置く」を意識して人と関わっていきます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?