見出し画像

生活に追われる日々と、道端の花

4月のある日、私はいつものように朝のビル清掃の仕事を終え、重い体を家まで引きずっていた。

昨晩の寝落ちから、今朝のギリギリの起床。労働。昨日のままのメイク。
ボロボロで不快な身体に差し込む春の日差しは温かくて、眩しかった。
冷えた体を包み込まれてほっとするのが半分、その温みにうんざりとするのが半分。
私は投げやりに頭を揺らしながらアスファルトの地面をダラダラと踏んづけ、ただただ体を前に持っていった。

いつまでたっても、何者にもなれない自分。
生活のためにバイトに追われる日々。
何も変われないまま、また春が来てしまった。

春ははじまりの季節だ。
同時に、ここ1年の成果を突きつけられる季節でもあると思う。
何かしらの後悔と自分に対するあきれ、それを穏やかな風でどこかへ吹きやってしまううららかな陽気。
それが春という季節だ。

ー私は本当は何がしたいんだろう?
何度自分に投げかけたか分からない問いが、ぼんやりとした頭の中をあてもなく浮遊していく。
考えて、結論を出して、何かを選び、行動に移す。
日々の糧を稼ぐだけの生活を送る私の、どこを探してもそんなエネルギーは残ってはいない。

「種」ならぽんぽんと飛んできた。
行ってみたい所、書いてみたいテーマ、何かの拍子にふと「やってみたいなぁ」と思う細々としたものがよく心に浮かんでくる。
どれも実を結んだらきっと喜びに繋がるものばかりだ。
けれどそれらを、私は見ないことにしていた。
だって忙しいから。
ぼんやりと心の奥底に沈殿している「やりたいこと」たちをいちいちすくい上げていたら、時間も手足も脳みそも、いくらあっても足りない。食べていけない。
見ないふりをしたってそれを完全に消すことはできないことは分かっていたけれど、忙しい日々のなかで乾燥地帯のようにひび割れていった私の心に、何かが芽吹く場所なんてなかった。

要するにその日は、とにかく、何もかもがどうでも良い気分だった。

ふと、ガードレールの下に目が留まる。
いや。
どうでも良い気分だったから、どうでも良いところに目が行ってしまったのかも知れない。

足元に、小さい花が咲いていた。
人差し指の爪くらいの大きさしかない、うすい黄色の花。
「儚い」という言葉がぴったりだ。
すぐ脇の車道を車が荒々しく行き交う度に、まるで竜巻に飲み込まれたかのように全身を揺すぶられている。

ーかわいいな。

ぼんやりと働かない頭が、すうっとそこに吸い寄せられていった。

ちょっとしゃがんで、しばらく眺めてみることにした。
いつもだったら「時間が勿体ない」と思ってしまう場面だけど、そんなこともどうでも良かった。
こういうことを魔が差した、と言うのかも知れない。
差し込まれたついでにじっと向き合ってみる。

いつの間にか花と私は道路から切り離されて、どこか、静寂の中にいた。
でもそう感じたのは私だけかも知れない。
何にせよ、上から覗き込まれても花は、すんとすましたままそこにいた。

時間にしたら多分ほんの1分くらい。
「かわいい」くらいしか感想なんて思い浮かばなかったけど、少しだけすっきりした気分で私は立ち上がった。

ー家に帰ったらシャワーを浴びよう。

また歩き出す。

普通にかわいい。

ただそう思っただけ。
別に、地面の上で誰に見られるでもないのに咲き誇る花の高貴さに心を打たれた、とか、そんなんじゃない。

偶然そこに種が着地して、根が育って、時期が来たから咲いただけの雑草だ。
そんなただのかわいい雑草に、私は勝手に癒された。

「美しくあろう」なんて、これっぽっちも思っていなくて、ただ淡々と、置かれた場所に自分の命を伸ばしていっただけ。
それで、たまたまちょっとかわいかっただけ。
本当にそれだけ。

『君たちはどう生きるか』で、コペル君の家の庭に咲いた水仙の話を思い出した。
いくつかある水仙の中で、ひとつだけ深いところに球根が植わっていたものがあった。
春が来て、その水仙も花を咲かせる。
「あんな深いところからでも、こいつはのびて来ずにはいられなかったんだ!」
その花の姿に、コペル君は心を打たれる。
ひとりだけ深いところに植わってしまっていたから、他の花よりも茎がうんと長い。不格好なくらいに。
それでも、のびて来ずにはいられない。

その花が特別意志が強いとか、そういう話じゃない。
命ってきっとそういうものなんだ。

命があるんだったら、あんまり難しいことは考えずにただのばせば良いんだ。
けれども人間はなまじ脳みそがあるせいで、その芽を自分で押さえつけることができてしまう。
のびる方向はひとつしかないと、勝手に思い込んでしまう。

咲いている途中で、たまたま通りすがっただけの誰かが「きれいだね」とか「君は醜いね」などと言って立ち去っていくこともあるだろう。
でもそんなのは大した問題じゃない。
のびのびと、思った通りに伸びていくだけ。

生きるって、きっとそんなもんだ。

家に着く。
一人暮らしの部屋なのに、誰かが私の帰りを待っていたように感じた。
それは一日のうちで一番高いところにある太陽が、部屋中にたっぷりと光を注いでいたからかも知れない。

サポートありがとうございます(*^^*)