「嫌い」を「嫌い」で返すことの無駄さ

自分のことを嫌いな人に、脳みそや心のキャパシティを割く必要はない。

自分のことを好いてくれる人の為に自らが持っている能力をフルで使う方が、お互い幸せになれると思う。

以前は「嫌い」を「嫌い」で返すことが多かった。
自分のことを嫌っている人は、自分の良さを理解していないんだと腹を立て、その人のことを悪く言ったり、忌み嫌う為にその人のことを考える時間があったりした。

嫌われているから、嫌う。
こうすることで無意識下で相手との戦いをイーブンに持ち込もうとする自分がいた。

しかし、年を重ねるごとに見えてきたものが二つあった。

一つめは、本当に大切にしなくてはいけない人とは誰か、ということだ。
家族や友人、職場の同僚、愛情の形は様々だが希薄なものは思ったより呆気なく消え、残るべきものだけがそこに残った。

目には見えない大事なものとは、学生時代に感じていた不安とは裏腹に、有難いことにクッキリと感じられるようになってきた。

そして二つめが、時間の限界だ。
人生100年時代と言われるようになって早幾年、まだまだ生きたいとは思ってはいるが、もちろんいつかはゴールが来る。

日日感じるのは「それにしてはまだやりたい事があるな」ということだ。
コロナ禍で二年間ロスしたことも、自分の中では大きな変化があった。

いつしかこう思うようになった。
「勿体無いことはしたくない」

勿体無いこととは、必要の無いないこと、とも置き換えられる。
休日に昼まで寝てしまうことや、スマホゲームに熱中することも、その人らしい生き方を保つのに必要であるならば、勿体無いとは思わない。

自分の生活を振り返り、「本当に勿体無い時間」とは何かを見直した時に浮かび出てきたのが「自分を嫌いな人のことを嫌っている自分の時間」であった。

こんなに何も生み出さない、心は荒み、口からは汚い言葉が出て、周囲にも聞かれ、明日に繋がらない時間は無かった。

嫌いな人を嫌う時間を減らしたいと思った。
そしてその時同時に思い浮かんだのが、自分が大切にしたい人たちの顔だった。
この人たちのためにこそ時間を費やしたいと同時に思った。

もちろん人の生き方はそれぞれである。
先ほど言ったように自分の生き方に必要だと思うならば、「嫌い」を「嫌い」で返す応酬も継続すべきなのかもしれない。

ただ自分にとっては、「愛」を「愛」で返すのに今は忙しい。
悪いが、勝手に嫌っててくれ。

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