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世界樹の下で君に祈る



第1章


 大きな世界樹の下で、愛を誓う。
それは生涯を共に過ごすという永遠の約束。
お姉さまは神話の時代から続く「聖女」としての真っ白な衣装を着て、そこに立っていた。

「とっても素敵よ。エマお姉さま」
「ありがとうルディ。あなたにも幸せが訪れますように」

 お姉さまの成人を祝う誕生日会に、国内外から大勢の参列者が集まっていた。
聖女の証である純白に金の刺繍の施された衣装が、サラサラとゆったりした歩みとともに清らかに揺れ動く。
王城の中庭にある世界樹は、この世界を作った神さまが最初に授けたといわれている伝説の樹だ。
それを代々受け継ぐ私たちは、王族として聖なる樹を守り育てている。
エマお姉さまは、世界樹の前にひざまずいた。

「成人を迎え、これからもより一層、世界樹とその元に生きる人々のために、尽くして参りたいと思います」

 温かい拍手が沸き起こる。
午後の柔らかな光りが降り注ぎ、世界樹の葉を照らしていた。
お姉さまの後ろには、ナイトとして付き添うマートンの姿も見える。
彼はずっと、よき友人としてお姉さまに寄り添っていた。
庭で花を摘む時も、湖に舟を浮かべ水遊びをする時も、お姉さまがどこかへ出かける時には、必ず二人は一緒だった。
互いに手を取り合い、辛い時も苦しい時も、共に乗り越えてきた。
お姉さま以上に晴れやかで誇らしげな顔で、その美しいお姉さまの傍らに立つ凜々しい横顔を見上げる。
お姉さまが成人を迎えたこれからも、きっとその関係は変わらないだろう。
大勢の招待客に囲まれていながらも、ふと微笑む彼の視線の先には、いつだってお姉さまがいた。

「とっても素敵な集まりになりましたわね。あんなに立派で誇らしいお姉さまがいるだなんて、私も嬉しいわ」
「ルディは本当に、エマさまが大好きね」

隣を歩く真っ直ぐな黒髪に聖女見習いの灰色のワンピースを着たリンダが、そう声をかけた。
彼女は聖女を育てる教育機関である聖堂に通う学友であり、私の世話係としての役目も担っている。

「リンダったら、本当に聖堂の制服でパーティーへ来たのね。もっとかわいいドレス選んであげるっていったのに」
「ルディの趣味は、私には着こなせないからいいの」

成人の儀式を終えた私たちは、お茶会の会場となる庭園へ移動を始めていた。
世界樹の庭は特別な庭だ。
人の出入りは極端に制限され、今回招待客のために開放されたのも、実に数年ぶりのことだった。

「もったいない。リンダだってちゃんと着飾ればかわいいのに」

石造りの空中回廊を、夏の終わりの風が吹き抜ける。
日陰は涼しいものの、まだ夏の暑さは残っていた。
私は宝石を散りばめた深紅のドレスの裾をキラキラと翻す。
少し派手かなとは思ったけど、お姉さまの成人を祝うお誕生日パーティーなんだもの。
思いっきり盛り上げないと。
それに……。

「マートン卿も、相変わらず素敵ね」

 親友であるリンダは、多くの意味を含めた笑みを投げかけた。
彼女は私のことを、誰よりもよく知っている。

「当然ですわ。お姉さまだけでなく、私にとっても黒髪の貴公子でしたもの」
「これで、ルディの片思いもお終いね」
「マートン以上に素敵な男性がこの世にいるだなんて、想像も出来ませんわ」
「おやおや。そんなことを言ってていいの? ルディ」
「どうして? だって本当のことですもの」

 この後のお茶会で、お姉さまとマートンの婚約発表も控えている。
昨晩エマお姉さまが私を部屋に呼び、こっそり打ち明けてくれた秘密だ。
お姉さまはそれをサプライズイベントとしたいみたいな感じだったけど、マートンとの仲だなんて、公然の秘密もいいところだ。
それでも何も知らなかった幼い私は、彼を実の兄のように慕い、淡い恋心まで抱いていた。そんな自分とも、もうお別れ。

到着した庭園では、すっかりお茶会の準備が出来上がっていた。
国内外から招待された貴族たちが、優雅に語らい始めている。

「ルディも寂しくなるわね。エマさまの公務に付きそうことになれば、マートンさまとも頻繁に会えなくなるから」
「やめて。私はそんなこと全然考えてな……」

 と、リンダの肘が私の腕をつついた。

「ちょ、ルディ。アレ誰よ。知ってる人?」
「え? どなた?」

エマお姉さまの前に、一人の男性が進み出た。
真っ白な異国の衣装に身を包んだ、燃えるような紅い髪と紅い目の男性だ。

「ん。見覚えはありませんわね」

気品ある優雅な立ち居振る舞いから、身分の高さがうかがえる。
サラサラとした短い髪を流し、お姉さまの前にひざまずくと、ふわりと右手を差し出した。

「レランド王国の第一王子、リシャールと申します。ブリーシュアの第一王女エマさまに、結婚の申し込みに参りました」

そう名乗ったレランドの第一王子は、お姉さまの手を取るとスッと立ち上がった。
突然の出来事にざわつく周囲をものともせず、お姉さまの腰を抱き寄せる。

「どうか突然の御無礼をお許しください。ですが私には、こうするよりあなたへの想いを打ち明ける機会がなかったのです」

 まだ音楽も奏でられていないのに、彼は半ば強引にお姉さまの手を引くと、勝手にダンスのステップを踏み始める。
それを見た楽団員たちは、慌てて演奏を始めた。

「あなたは私のことをご存じないでしょうが、私はずっと以前からあなたに密かな恋心を抱いておりました。美しき聖女さま。ぜひ婚約者候補として、これから私のことを知っていただきたく思います」

 真っ赤な目に似合わないクールな細い目で微笑む。
ちょ、なによこの人! 
意外すぎる展開に、マートンまですっかり固まってしまっていた。
こんな強引なやり方で、生真面目なくらいいつも礼儀正しいエマお姉さまに接する人なんて、見たことない。
大胆にも程がある。

「エマさまの美しいお姿をみて、どうしても我慢出来ず声をかけてしまいました。はるばる遠くレランドからやって来た、世間知らずと笑ってください。あなたの微笑みが私に向けられるのなら、たとえそれがどんな笑みであろうと、これほどうれしいことはございません」

 サラサラとした紅い髪が、力強いステップに合わせて揺り動く。
スラリと引き締まった体と洗練された動きは、いかにも城に籠もって本ばかり読んでいる貴族でないことは明らかだった。
ここに集まっているのは選ばれた一部の上級貴族ばかりとはいえ、レランドの第一王子というのが本当なら、身分的にも立場的にも、お姉さまをこの状況から助けられるのは、私しかいない!

「ちょっおぉ~っと、お待ちくださいませんこと!?」

 人の目も気にせず、ズカズカと二人に近づく。
驚いた紅髪の彼は、ようやくダンスを止めた。
そもそも私は、注目されることにも目立つことにも、なんの恥じらいも感じないタイプだ。
だからこそ、この状況を黙って見てはいられない!

「あなた! 失礼ですが、本日はエマお姉さまの成人を祝うお誕生会なのですよ?」

 突然現れた邪魔者の私を、レランドの第一王子は紅く光る冷ややかな目で見下ろす。

「もちろん存じ上げておりますよ。招待状をいただきましたので」
「でしたら、もう少し礼儀というものがあってもよろしいのでは?」

 紅い目の力がとてつもなく強い。
獲物を狙う鷹のように鋭い目つきだ。
圧倒的なその上からの威圧感にも、負けじとにらみ返す。
ドレスに合わせた派手な扇を広げ、フンと鼻息を鳴らしてみせた。
彼は凍てつくような目で、私を見下ろす。

「エマさま。このお方は?」
「私のかわいい妹、第三王女のルディです」

 それを聞いた瞬間、彼の顔つきが変わった。
ずっと握っていたお姉さまの手を放したかと思うと、丁寧に頭を下げる。
打って変わって春の木漏れ日のような笑顔を浮かべた。

「おや。エマさまの妹姫でございましたか。それは失礼いたしました」

 紅い目の人は、にこにこと愛想よく振る舞う。
さっきまでのブリザードがウソみたいだ。

「私になにか御用ですか? ルディさま」
「リシャールさま。はっきり申し上げて、あなたはお邪魔です。少々お控えなさってください」
「ほう。それはどういう意味です?」

 どう見たって紅い目が怒っているけど、私だってここから引き下がるわけにはいかない。
本来なら今ごろ、マートンとお姉さまの婚約発表で盛り上がっていたはずだ。
そのお披露目の予定を知らなかったとはいえ、台無しにした罪は重い。

「そもそも今日という日はですね……」
「ルディ。君の方が遠くから来て頂いた殿下に対して、失礼だよ」

 マートンの手が肩にのった。
ナイトとして毅然とした黒い軍服に身を包んだ彼の、ぴったりと整えられた黒髪と深い緑の目が私を諭す。

「マートン! 私はこの失礼な王子にですね……」
「ルディ。今日はエマの18歳の成人を祝うお誕生会だ。これから王族としても聖女としても、多くの公務に就くことになる彼女を、心地よく送り出してあげないと」

 その聖女であるお姉さまと、この晴れの日に最初にダンスをするのは、恋人であるマートンの役目だったはずなのに……。
それなのにこのリシャールとかいう失礼な王子は、お姉さまとのダンスを強引に始めてしまった。

「お姉さまは、この方とお知り合いだったのですか?」
「いいえ。彼とは初対面よ」
「じゃあ、どうして……」

 リシャールは体格よく引き締まった細身の体で、私たちの前に颯爽とひざまずいた。

「どうか御無礼をお許しください。ですがどうしても、エマさまに私の想いをお伝えしたく、こうして馳せ参じた次第にございます」

 彼の紅い目と髪が、もう一度お姉さまをダンスに誘う。
同じ人と二回も続けて踊るなんてことはありえないが、ダンスを中断させたのは私だ。
それをまた誘われては、エマお姉さまも断れない。
お姉さまの手が、リシャールの手の上に重なった。

「あの、エマお姉さま。それと、リシャール殿下」
 覚悟を決め、潔く頭を下げる。

「さっきはごめんなさい。確かに私の方が失礼でしたわ」

 お姉さまは純白の衣装に、波打つ金色の髪を毅然となびかせる。

「いいのよルディ。リシャールさまも、妹を許してやってください」
「もちろんですとも。エマさまにお願いされては、断る理由もございません」

 紅い目が礼儀的にでも微笑んだのを見届けると、マートンはひざまずき、私に向かって手を差し出した。

「えっ。よ、よろしい……ですの?」

 マートンがダンスに誘ってくれた? 本当に?

「もちろんだよルディ。僕と踊ってくれるかい?」

 マートンが一番に私をダンスに誘ってくれるのは、初めてだ。
本当なら今すぐにでも飛びついて大はしゃぎしたいけど、今はその気持ちをぐっと堪える。

「マ、マートンは……、本当に私でよろしくて?」
「もちろん。僕がルディと踊りたいから誘ってるんだ」

彼の深く落ち着いた緑の目が、私を見上げる。
マートンが私をダンスに誘ったことを見届けると、お姉さまはリシャールと踊り始めてしまった。
ずっと憧れていた彼の手に、恐る恐る手を伸ばす。
それが重なった瞬間、マートンは力強く私を引き上げた。

「はは。これくらいのことで取り乱して落ち込むなんで、ルディらしくないじゃないか。いつもの元気なルディさまはどうした?」
「だって今日は、マートンとの……」

 婚約発表をするつもりだったのに。
まだそのことを知らない彼に、私から話すわけにはいかない。

「お姉さまは、マートンと一番に踊りたかったんじゃない?」
「エマがこんなことで、誰かに腹を立てたりすると思う? ダンスの順番なんて、気にするようなことでもないさ」

 それはそうかもしれないけど、慣習として最初にダンスを踊るのは、パーティーの主催者と、その出席者の中で一番身分が高い人と決まっている。
第一王子である彼がお姉さまと踊るのは、だから間違ってはいない。
それでもお姉さまの気持ちを考えると、マートンと踊りたかったはずだ。

 音楽は流れ続ける。
他の参加者たちも、それぞれに踊り始めていた。
私はマートンの腕の中で、すっかり縮こまっている。
ごめんなさい。
二人の邪魔をするつもりはなかったの。

物心ついた頃から、マートンはエマお姉さまのものだった。
私は単なる「妹」でしかないことを、誰よりも自分がよく知っている。
このダンスの誘いだって、お姉さまとレランドの第一王子であるリシャールさまの体面を保つためだ。
二人には幸せな婚約発表を迎えてほしかったのに……。
そのお姉さまは、今はリシャール殿下と踊っている。

「マートンが私を最初にダンスに誘ってくれるのは、初めてね」
「え? そうだっけ?」
「初めてよ。だってマートンは、いつだってお姉さまが一番なんだもの」
「まぁ、そこは否定しないけどね」

 クスッと微笑んだその笑顔が眩しすぎて、思わず顔を伏せる。
耳まで赤くなっていることを、どうかこの人に気づかれませんように。

「ねぇ、マートン。レランドって、どんな国なの?」
「ここブリーシュアから遙か南西にある、とても小さな国だ。いわゆる世界樹の恩恵が届かない、辺縁の土地だよ」

 この世界は、世界樹によって守られている。
生きた世界樹の葉からこぼれ出るアロマが行き届く範囲だけが、魔物を生み出す瘴気を退ける。

「じゃあ人が住むのも、難しいってこと?」
「世界樹の研究が進んでいることは、ルディも知ってるよね」
「えぇ」

 その世界樹と呼ばれる樹は、「聖女」と呼ばれるごく一部の素質をもつ乙女が、祈りを捧げることでしか大きく育たない。
かつては「魔力」とも「呪い」とも呼ばれていたその力が、乙女の命を削り世界樹を育てる。
聖女の位を授けられるのは、その資質を持って生まれてきた者だけだ。

「レランドは、聖女研究や保護がまだまだ進んでいない国だ。世界樹の育ちにくい土地で、聖女たちの命を削ることなく瘴気を払えないか。きっと彼がエマに会いに来た理由は、そんなところにあるんじゃないかな」

 私と踊っている最中でも、彼の目はお姉さまを探し続けている。
曲の終わるタイミングで、マートンはもう一度お姉さまをいる場所を確認した。
レランドの第一王子であるリシャールは、ダンスが終わり互いにお辞儀をしたところで、聖女であるお姉さまの手を取る。
私たちはそれを横目に見ながら挨拶を交わした。

「レランドの王子も、だったら普通にちゃんと支援の申し入れをすればよろしいのに。それをこんなやり方をするなんて……」
「辺境国はレランドだけじゃないからね。そう簡単にはいかないさ。一度も枯れたことのない世界最古の世界樹を持つブリーシュアに、各国から支援の申し込みは後を絶たない」

 ダンスを終えたお姉さまに、リシャールがお茶を勧めている。
その立ち居振る舞いは、どこをどう見ても完璧な王子とお姫さまだった。

「ルディ。僕はそろそろエマを助けに行くよ。きっと彼女も困っている」

 マートンはついさっきまで私に添えられていた腕をあっさりと振りほどくと、突然現れたライバルの元へそわそわと近づいてゆく。
マートンにとって、多分これは初めての経験なのだ。
幼い頃からずっとお姉さまに寄り添ってきた彼にとって、自分以外の男性がお姉さまに近づくなんてことは、ありえなかった。
二人の様子が気になるのも、痛いほど分かる。

「私もお助けに参りますわ!」

 それでも私だって、二人を応援する気持ちは変わらない。
お姉さまの公務が本格的に始まってしまえば、ナイトであり婚約者であるマートンとも、頻繁に会えなくなる。
どれだけ想っていたって、五つも歳の離れた彼の目に「妹」としか映ってないのなんて、十分すぎるほど知り尽くしていた。
それでも、どんな理由であっても、出来るだけ長くマートンとお姉さまの側にいたい。
大好きな二人のために、出来ることならなんだってする。

 今日のために新しく仕立てたド派手な赤いドレスの裾を掴むと、現場に駆け込んだ。
マートンはお姉さまにピタリと寄り添う王子に、果敢に挑んでいる。
伯爵家であるマートンの身分を考えると、とても太刀打ち出来る相手ではない。

「リシャール殿下は、ブリーシュアへはよく来られるのですか?」

 エマお姉さまは、マートンが助けに駆けつけたと見極めると、リシャール殿下と重ねていた手から離れる。
お姉さまは、マートンに自分の腕を絡めた。

「殿下。私でよろしければ、ブリーシュアを案内いたしますよ」
「マートン卿」

 二人の関係にようやく気づいたらしいリシャールは、声色を整えた。

「なるほど。ではそのうち、卿には城内を案内してもらおうかな。しばらくここに、滞在する予定ですからね」
「リシャール殿下は、聖女研究に関心の高い方とお聞きしております」

 マートンは叩き込まれた非の打ち所のない礼儀作法で、にっこりと笑みを返した。
それは殿下に対する宣戦布告とも、警告ともとれる微笑みだった。

「私でよろしければ、いつでも喜んで」

 お姉さまを取り合って火花が飛び散るかと思った瞬間、王子はいきなり、ぱっと私を振り返った。

「こちらの妹姫も、なかなかに可愛らしい方ですね。ルディさま?」

 サラリとした紅い前髪が、信じられないほどふわりと柔らかく微笑みかける。
あろうことかさっきまでお姉さまを誘っていた手が、今度は私に向けて差し出された。

「は? なんですの?」
「あなたをダンスにお誘いしているのですよ。ルディ王女」

 本気なの? 
いや、絶対に本音じゃ嫌がってるでしょ。
だって笑顔が引きつっているもの。
私だって踊りたくはないけど、この流れと状況で、断れないものは断れない。

「ルディさま。よろしかったら今度は私と、一曲お願い出来ますか?」
「もちろんですわ。よろこんで」

 社交界の交流って、ホントに大変。
私だって踊りたくはないけど、リシャール殿下だって仕方なく誘ってるんだよね。
分かってる。

「ではこちらの妹姫を、少しの間お借りしますね」

 グイと引き寄せられた腕に、足元がよろける。
彼からは嗅いだことのない異国の香りがした。
燃えるような紅い髪と紅い目が、じっと私を見つめる。
抱き寄せられた勢いで頬をぶつけた胸板は、マートンとは全く違っていた。
私が転んでいると思っているのか、腰に回された腕がしっかりと支えてくれているおかげで、体がピタリと密着してしまっている。

「リ、リシャールさま。これではダンスをしようにも、近すぎて踊れませんわ」
「あぁ。失礼いたしました。そうですよね。あなたがあまりにも華奢でかわいらしかったもので。うっかりしていました」

 このセリフ、どこまでが本気? 
怪しむ気持ちを出来るだけ抑え、彼を見上げる。
私を支えていた強い腕が、ようやく離れた。
改めて向かい合い、にこっと微笑んだその紅い目が、一瞬ほっと緩んだような気がした。

「では改めて、お誘いしても?」
「殿下に誘っていただけるのなら、何度でも光栄ですわ」
「ははは」

 音楽が始まる。
手と手が触れ合った瞬間、彼の細い目がキュッと引き締まった。
涼やかな目元がずっと私を捕らえたまま、一時も離れてくれない。
相手の動きに合わせ寄り添うように踊るマートンとは違い、彼は自分の手の中でくるくるともてあそぶようにリードし、ステップを踏む。
決して下手だとか自分勝手というわけではないし、もちろん第一王子らしくダンスも得意なのだろうけど、リシャール殿下はもう少し相手のことも考えた方がいいと思う。
力強く素早いステップについて行くだけで必死で、体だけでなく気持ちまでもてあそばれているようだ。

「殿下のダンスは……。なんといいましょうか、野性的というか、とても力強いステップなのですね」
「そうですか? それはお褒めにあずかり、光栄です」

 大きくターン。
その遠心力で、繋いだ手をしっかり握りしめていないと、勢いだけで吹き飛ばされそうだ。
離れてしまった体を、また強く抱き寄せる。

「そ、それで、殿下はいつお姉さまをお知りに?」

 うっかり足を踏み外してしまいそうなほどの早いステップに、息が切れそうになる。
それでもどうしても聞きたいことは、聞いておかないと。

「エマさまを初めてお見かけしたのは、この王城で開かれた世界樹の成長を祝う祝祭の時です。テラスに現れたお姿に一目惚れした私は、その瞬間から密かに想いを寄せておりました」

 そう言った彼の言葉に、嘘の香りは感じられなかった。
お姉さまにいきなり求婚するなんて、なんて無茶で乱暴な人だろうと思ったけれど、お姉さまに対する思いは本物らしい。
くるくると振り回されている私を支える彼が、ゆっくりと微笑んだ。

「その時に、あなたもエマさまの隣にいらしたのですか?」
「え、えぇ。家族とともに、テラスに並んでおりました」
「どうりで。どこかでお見かけしたことがあると思った」

 早すぎるテンポのダンスが、不意にピタリと止まった。
紅い前髪が、今まで他の誰にも近寄らせたことのない距離まで、グッと近づく。

「だって私が、こんな素敵な女性を見逃すはずがない」
「はい?」

 聞かされている方が恥ずかしくなるセリフに、正気を疑う。
マートンにさえ、そんなふうに言われたことはない。
私を王女だと知って近づいてくる、どんな男性にもだ。
対応に困る私に、彼は遠慮なく笑った。

「あはは。本当に可愛らしい人ですね」

 背の高い彼がピンと腕を伸ばすと、その手にぶら下げられているよう。
地面から足が浮いてしまいそうになる。

「おっと失礼」

 そうかと思った次の瞬間には、浮いた腰をしっかりと抱きとめられる。
頬に寄せられた唇が、耳元でささやいた。

「どこかで少し、お話しませんか?」
「は? あ、えぇっと……」

 音楽が終わりを迎える。
彼の目つきが明らかに変わった。
手に入れた獲物を撃ち落とすような紅い目に、つい引きずり込まれてしまう。
断りを入れる間もなく、半ば強引に会場である広場から連れ出されてしまった。
迷路のように入り組んだ、植物園の奥へと誘われる。

「姫はこの城のことをよくご存じでしょう? どうか不慣れな私に、城内を案内してください」

 彼からは嗅いだことのない、甘い香水の香りがする。
爪の先まで丁寧に磨き上げられた手が、私の指に絡められた。

「出来れば二人きりになれるところがよいですね」

 口ではそんなことを言いながらも、彼の足はこの庭園をよく知っているようだ。
迷うことなくパーティー会場から人目のつかない茂みの奥へ、私を運んでゆく。
屋外庭園の片隅でようやく足を止めると、彼はくるりと振り返った。
繋がれた手に絡んだ指先が離される。
野性的な紅い髪とは対照的な、紳士な笑みを浮かべた。

「ここならあなたを、独り占めできますか?」
「お、……お話するようなことは、何もないと思いますけど?」
「ははは。あなたと二人きりになれるなら、どこでもよかったのです」

 リシャール殿下は右手を胸に押し当てると、お姉さまにした時と同じように完璧な仕草で頭を下げた。

「初めましてルディさま。レランドの第一王子、リシャールです」

 優雅な身のこなし。
彼は間違いなく、立派な貴公子で紳士だった。
私もこの国の第三王女として、スカートの裾を持ち上げ膝を折る。

「ブリーシュアの、ルディです」

 紅い目に純白の異国の衣装が、午後の日差しを受けて輝く。
夏の終わりのうっそうとした植物園の中で、彼は涼しげに微笑んだ。

「あなたにも、エマさまのような世界樹を育てる力がおありなのですか? 樹に祈りを捧げる乙女の一族の姫よ」
「それを……。異国の方に、お伝えしなければならない理由はございませんわ」

 そわそわとして落ち着かない。
全く知らない人と、突然二人きりにされたせいだ。
ゆっくりと話したつもりだったのに、声まで裏返っている。
今すぐ逃げ出してしまいたいけど、エマお姉さまの招待客を置き去りにするわけにもいかない。

「あぁ。樹の守り姫は時に土地を巡る争いの種にもなるもの。人々が瘴気から守られ安心して暮らすには、かかせない存在です。ましてブリーシュアの王族の姫ともなると、さぞかし世界樹から愛される強い力をお持ちでしょう。それを目当てに近づいてくる男も、後を絶たないのでは?」
「出会う人全てが、そうと限ったわけではございません」
「本当に?」

 返事の代わりに、大きくうなずく。
聖女だとか王族だとか、そんなことが誰かに愛される理由になんてならない。
私は私だ。

「あなたはこんなにも可愛らしいのに、ブリーシュアの男たちはどうかしている」

 紅い目が私を見つめる。
彼の手が私の髪に触れようとするのを、それとなく拒んだ。
花など何も咲いていない生け垣に視線を向ける。

「ルディさまは、緊張なさっているのですか? 私が怖い?」
「そ、そういうわけではごさいませんわ」

 リシャール殿下は、ずいぶんと背が高い。
そのせいで体格もよいのに、スラリとして見える。
彼の前にいると、自分がとても小さく感じてしまう。

「どうすればあなたに、気を許していただけるのでしょう。こんなにもお近づきになりたいと思った女性は、他にいないのに」

「リシャール殿下は、エマお姉さまにプロポーズをなさったばかりではなかったのですか?」
「もちろんその通りです。だけどどうして、あなたのような方を目の前にして、じっとしていられましょう。男なら、親しくなりたいと思うのは当然では?」

 彼の手が伸びる。
ビクリとした私の髪に、指が絡みついた。
それをすくい取ると、口づけをする。

「かぐわしいアプリコット色の髪ですね。あなたのこの髪に近いましょう。次はいつお会いできますか? その約束をしてからでないと、このまま手を放せそうにありません」
「そんなことを言って、すぐご自分の国にお帰りになるのでしょう? もうお会いすることもございませんわ」
「どうかあなたのことを話してください。私のことを忘れても、私は覚えています。そうしたらまたお会いした時に、ここでの出来事をきっと思い出してくださるでしょうから」

 どうしよう。
殿下は私の髪を掴んだまま、本当に放してくれそうにない。
私のことを話すって、なにを話したらいいのかも分からない。

「殿下は私の、何をお知りになりたいのですか?」
「何でもいいのです。あなたが話したいと思ったことを、好きなだけお話ください」

 私のこと……。
透き通るような紅い目が包み込む。
この人に、何をどう話せば私のことが伝わるのだろう……。

「ルディ!」

 ガサリと音がして、すぐ真横にあった茂みがかき分けられた。
エマお姉さまだ。
マートンもいる。
目が合った瞬間、お姉さまはほっと胸をなで下ろした。

「私のかわいいルディの姿が見えなくなったと聞いて、慌てて探しておりましたのよ。リシャール殿下」
「これはこれは。エマさまが直々にお出ましとは、驚きました」

 彼は掴んでいた髪をパッと放すと、にっこりと微笑む。
私は彼の腕から逃げるようにお姉さまにしがみついた。

「大丈夫? ルディ」
「えぇ、平気よ」

 マートンがリシャールの前へ進み出る。

「リシャール殿下。他の参列者の方々も、あなたのお話を聞きたがっております。ぜひパーティーへお戻りください」
「はは。それは申し訳ないことをした」

 彼がやれやれと首を傾けると、それに合わせサラサラとした紅い髪も揺れ動く。
殿下は何事もなかったかのように、会場へ戻っていってしまった。
その姿が完全に見えなくなってから、お姉さまはぎゅっと私を抱きしめる。

「ルディ。リシャールさまに何か言われた?」
「いいえ、何も。お姉さまに心配をかけるようなことは、何もされてないし言われてもないわ」

 私もお姉さまの肩を抱きしめた。
せっかくのお誕生会を抜け出してまで、探しに来てくれた二人を心配させたくない。
マートンは珍しく、イライラと腹を立てていた。

「いくらレランドの第一王子とはいえ、やりすぎです。エマだけでなくルディにまで……」
「いいのよマートン。彼にも立場があるのだから」

 お姉さまは私の頭を愛おしそうにそっと撫でた。

「さ、戻りましょう。ルディも私のお誕生日パーティーを楽しんでちょうだい」

 高い城壁に囲まれてもなお、それを乗り越えるほど大きな世界樹の樹は、堂々とそこにたっていた。
太く伸ばした枝に薬草となる葉を茂らせ、穏やかな木漏れ日をつくる。
会場に戻ると、賑やかなお茶会は続いていた。
色とりどりの華やかな出席者たちの間にいても、真っ白な軍服に身を包んだ紅い髪がよく目立つ。
同じレランドの従者らしき男性が彼に近づくと、二人で何かを話し始めた。
お姉さまはすぐに他の招待客に囲まれ、私と離れてしまう。

「ルディさま。お久しぶりですね」
「まぁ。お元気でしたか?」

 話しかけてくるお客の相手を手伝いながらも、ふと気づけば視界には彼の姿があった。
誰と話していても、どんなお菓子を堪能していても、彼に見られている自分を想像している。
その彼が従者と話している元へ、二人連れの女性が近づいた。
彼女たちの目的は、当然リシャール殿下なのだろう。
辺境の小国とはいえ、第一王子という肩書きと涼しげな紅い目は、十分に魅力的だった。

「リシャールさまは、誰に対してもあんな感じなのかしらね」

 接客も一段落し、ようやくリンダと一緒になった。
彼女は女性客に囲まれる彼をチラリと盗み見る。

「リシャール殿下が気になるの?」
「べ、別にそういうわけじゃありませんけど!」
「ルディがマートンさま以外の男性を気にするなんて、珍しいじゃない。他の男の人だなんて、普段は全く相手にしないのに。何かあった?」

 紅髪の彼は近づいてくる女性たちに、得意気に何かを語っていた。
滑らかな話しぶりに、聞いている女の子たちは、ずっとクスクス笑っている。

「あんな方とは、何もありません」

 ついさっきまで私相手に言っていたようなことを、どうせ誰にでもやっているのだろう。
調子のいいこと言って、簡単に信じたりなんかしないんだから。
そこから顔を背けた私を、リンダはニヤリとのぞき込む。

「ルディにしては、新鮮な反応じゃない? 怒ってるのかと思った」
「当然怒ってますわよ! 無理矢理奥庭に連れて行かれたし」

 平気な顔して陽気にしゃべるあの人の腕の中に、さっきまでいたなんて信じられない。
触れられた感触の残る髪に自分の手を這わせる。
早くそれを忘れてしまいたい。
リンダはテーブルに並んだ一口大のラルトベリーのタルトを口へ放り込んだ。

「ま、気にしないことね。どうせすぐいなくなる人なんだもの。今日のエマさまのお茶会が終わったら、明日にでも帰国なさるだろうし」
「でしょうね。レランドはここからとても遠い国だもの」

 そう答えた瞬間、彼にささやかれた言葉が鮮やかに蘇る。
次に会う約束をしたいと言った彼への返事を、そのまま放っておいていいのだろうか。
少なくとも彼は一国の第一王子であり、正式な招待を受けてやって来た大切なお客さまだ。
そして私はホスト役を務めるこの国の、王女でもある。

「ねぇ、リンダ。約束したことをなかったことにするのって、よろしくない気がしませんこと?」
「そりゃあね。リシャールさまと、何か約束でもしたの?」
「してはいないけど、約束をしようという話をしていたの」
「ん? じゃあそれはまだ、約束するまでには至ってないってこと?」
「それでも、約束は約束だわ」

 たとえそれがどんなに小さなものだとしても、王女として、ホストとして、なかったことにしてしまうわけにはいかない。
日はすっかり傾き始めていた。
お茶会は城内の広間に場所を移し、食事が振る舞われる。
彼の席は私とはずっと遠くに離れていて、話すどころか近寄ることさえ難しかった。
ちゃんと「次に会う約束はしない」という返事をしておかないと、お姉さまやマートンにまた迷惑をかけてしまうかもしれない。
食事も終わり自由歓談となった時、私は大広間に彼の姿を探した。
お酒も出され、歌や踊りを披露する劇団員まで登場し、会場は大変な賑わいを見せている。
昼間より一層華やかになった会場をいくら探しても、誰より目立っていた紅い髪は見当たらなかった。
もしかして、もう部屋にお戻りになられた? 
そうだとしたら、本当に二度と会う機会もないだろう。
それならそれで構わない。
願ってもないことだ。
話さなくていい。
助かった。
だけどこのままうやむやにしておくのも、気分が落ち着かない。
やはりもう一度会ってはっきりお断りしておかないと、後々まで引きずりたくもない。

 柱のかげ、カーテンの裏。
どれだけ会場を探しても見つからないのなら、外で休憩しているのかもしれない。
雑踏をかき分け広間を抜け出し、テラスから身を乗り出すようにして夜の闇に満ちた庭園を見下ろす。
目を凝らし、じっと探した植物園の小さな外灯の下に、ようやく紅い髪を見つけた。

「いましたわ!」

 よかった。
これでちゃんとお断りできる。
最後にもう二度とお会いすることはありませんと、伝えられる。
階段をすべるように駆け下り、急いで奥庭へ向かった。
もう二度と会わないのだから、ここではっきりとお断りしておかないと。

 人の気配など全くない庭園の、大木の陰で呼吸を整える。
走ることで乱れた髪とスカートの裾を丁寧に直してから、彼のいた外灯付近に近づいた。
見つかったらどうしようという思いと、彼の方から見つけてほしい、気づいてほしいという気持ちが交錯する。

「てかさ、リシャールって女に本気だしたら、あんな風になるんだ」
「ふざけるな。勘弁してくれ」

 どこからか、高らかな笑い声が聞こえる。
私は足音を忍ばせ、こっそりとそこへ近づいた。

「俺がどれだけ苦労してるか、知ってるくせに」
「あはは。ここでのお前を城の連中が見たら、びっくりするだろうな」
「やめろ。マジでやめろ……」
「俺は悪くないと思うけどね? そういうリシャールも」

 昼間はキッチリとしめていた上着の前を開け、だらりと地面に寝転がっていた。
彼はその態勢のまま紅い前髪を勢いよくかき上げる。

「てか、あのエマさまは相当手強いぞ。こんなやり方で、本当に上手くいくのか?」
「だけど、他に方法はないって……」
「まぁ、そういう結論には確かになるんだけどさ。俺ばっか損してないか」
「それを役得と思えよ。いい話じゃないか」

 リシャールは深いため息をつくと、ごろりと寝返りをうった。

「だけどあの姫さん、本当に俺なんかになびくのか?」
「俺たちのバックアップ態勢を信じろ! お前のその顔と演技力があればいける! なんのために無駄に顔良く血統良く生まれ、完璧な礼儀作法まで身につけてきたんだ。王子さまだろ!」
「エマさま、彼氏いたし」
「そんなことは百も承知で来てんだよ! 彼氏がいることは、想定内だ! それでもこれはお前じゃなきゃ、出来ない仕事なんだろ?」

 リシャールが心底うんざりしたようなため息をつくのを、従者が励ます。

「大丈夫だ。相手は伯爵クラスで、こっちは王子なんだから」
「そういう問題か?」
「弱気になるなよ、リシャール。俺たちに課せられた最大の使命は、世界樹を守る聖女を国に連れ帰ることだ。エマさまがダメなら、他の誰だっていい。とにかく能力の高い聖女をお前に惚れさせ、自分からレランドに来たいと言わせないことには……」

「きゃあ!」

 突然首筋に張り付いた何かに、思わず声を上げる。

「誰だ!」

 飛び起きた紅い目と目が合った。
私は首筋に張り付いた落ち葉を取り払う。

「先ほどの話、全て聞かせていただきましたわ。あなた方の目的は、この国の聖女を自国に連れ出すことだったのですね」
「ほう。伝統あるブリーシュアの王女ともあろう方が、立ち聞きとは恐れ多い」

 リシャールはゆっくりと立ち上がると、私の出方を計算し始めている。
紅い目が慎重に私を推し量っている。

「あなたは純粋な気持ちで、姉に結婚を申し込んだのではなかったのですね」
「それは違いますよ。どうして私の本当の気持ちを、あなたに知ることが出来るのです?聖女としての肩書きだけでなく、私があの方自身を想う心に、嘘偽りはありません」
「だけど今、確かに聖女を国に連れ帰ると聞こえましたわ」
「『聖女なら誰でもいい』などと言っていません。私は自分の愛する人と共に、国に戻りたいと言っている」
彼は表情を和らげると、優雅に王子の笑みを浮かべた。気品あふれる洗練された上品な仕草で、手を差し伸べる。
「あなたはどうしてこちらへ? こんなところにまで、私を探しに来てくださったのですか?」
「あなたに姉は渡しません」
「それを決めるのは、彼女自身だ」

 夜風がザワリと奥庭を横切った。
夏の終わりの生暖かい風が、二人の間を通り過ぎる。
鋭い眼光をたたえた紅い目を、正面からにらみ返した。

「最低。お姉さまだけでなく、この国の聖女たちには、指一本触れさせませんから」
「それは頼もしい。あなたのような強気な女性も、嫌いではないですよ」

 彼は余裕たっぷりに微笑んで見せた。
こんな人たちに、世界樹を守る大切な聖女を渡すわけにはいかない。

「絶対にあなたから、この国の聖女を守ってみせますわ!」

 夜の奥庭を後にする。
信じられない。
少しでも彼との約束を真面目に果たそうとした自分がバカみたいだ。
何が「また会いたい」よ。
やっぱり誰にでも同じこと言ってたんじゃない。
しかも相手にするのは聖女限定? 
ふざけすぎ。
酷い。
あり得ない。
人をなんだと思ってるの? 
そんな人だったなんて、最低の最低。
最悪の最悪。
危なかった。
騙されるところだった。
だけどもう大丈夫。
絶対にそんなことしない。
させない。
やらせない。

 夜の風に吹かれ、さっきまでの熱が全身を駆け抜ける。
魂の全てがその風と共に夜空へ吸い込まれてしまったみたいだ。
崩れ落ちそうな膝を奮い立たせ、前へと引きずり出す。
あんな人だったなんて、信じられない。
怒りと悔しさと惨めさに情けなく震える体を抱え、夜の奥庭を後にした。




第2章


 翌朝、城内の自室を出て聖女養成施設である聖堂へ向かう私の目に、紅い髪をした人物が入り込んできた。
回廊から見下ろせる小さな芝生の中庭を、彼はのんびりと一人でブラついている。
それは明かり取りと通気のためだけの、他に何もないただただ芝生の広がる広場で、彼は突然何かを見つけようにパッと顔を上げると、その顔ににっこりと満面の笑みを浮かべた。
急に足を速めたと思ったその先に、回廊を歩く真っ白な衣装を身につけた聖女たちの集団がいる。
彼女たちは城内の世界樹に祈りを捧げにいく大切な仕事の最中なのに、邪魔をするつもりだ。

「ここは私の出番ですわね」

 瘴気から世界を守るための大切な儀式を、中断させるわけにはいかない。
聖女見習いの制服である灰色のワンピースを翻し、石造りの回廊を駆け下りる。
案の定、彼はお姉さまに向かって遠慮なく話しかけていた。

「おはようございます。エマさま。今朝も麗しいお姿を拝見でき、私の心は躍るばかりです。どうか今朝の礼拝を……」
「殿下!」

 リシャールとお姉さまの間に飛び込むと、両手を広げ立ちはだかる。

「乙女の朝の礼拝を邪魔することは、どんな身分の方でさえ許されておりませんわ」
「おや、ルディさま。私がいつ邪魔をしたというのでしょう。私はエマさまに、お願いに参ったのですよ?」
「お願い?」

 リシャールは涼しげな顔で、さも当然と言わんばかりに私を見下ろす。

「乙女たちが世界樹に祈りを捧げる時、たとえそれを育む力がなくとも、彼女たちと共に祈りたいと思うのは、誰もが思うことなのでは?」

 彼は私を押しのけるようにしてお姉さまの前に片膝をつくと、丁寧に頭を下げた。

「どうか私にも、聖なる乙女たちと共に祈りを捧げることをお許しください」

 特別な力を宿した者以外が世界樹に祈っても、瘴気を退ける効力を発揮することもなく、育成にも影響しない。
だけど、そうだと分かっていても、乙女たちと共に祈りを捧げたいと申し出る者は、珍しくない。
それは私だって分かってるけど、お姉さまにこんな人を近寄らせたくない。

「殿下、祈りなら他でも捧げられますわ。よろしければ私が別の所に植えられた世界樹へ案内いたしますけど?」
「私はエマさまに、朝の祈りをご一緒したいとお願いしているのです」
「なぜお姉さまでなくてはいけませんの? 他にも聖女はたくさんおりますわ」
「ほう。さすが世界最古の世界樹を有するブリーシュアなだけありますね。聖女が大勢いらっしゃるとは、うらやましい限りにございます」

 にらみ合う私たちに、お姉さまは諦めたようにため息をついた。

「どうぞ、リシャールさま。共に参りましょう。あなたの祈りも、きっと天へ届くでしょう」
「お姉さま!」
「ルディ。誰も祈りの時間を邪魔することは、許されていないのよ」

 エマお姉さまにそう言われては、私もこれ以上抵抗出来ない。
紅髪の彼が何食わぬ顔で当然のように乙女たちの最後尾につくと、隊列はゆっくりと動き始めた。
朝の回廊は降り注ぐ太陽を受けキラキラと輝いている。
聖女たちの白い衣装と合わせたかのような、純白の衣装を着こなす見た目は貴公子の彼が、なぜか私に話しかけてきた。

「ルディさまは、聖堂へ向かわれる途中だったのですか? 聖女見習いの生徒である制服を、今朝はお召しになっていらっしゃる」
「『聖女』でなくて、残念でしたわね」

 淡いグレイのワンピースの裾を、ゆったりと持ち上げてみせる。

「私は、聖女ではありませんの」
「その聖女となるための、訓練校なのでしょう? まだ見習いの生徒だからと、私は人を肩書きだけで判断する人間ではありませんよ」

 紅い目は余裕たっぷりに笑みを浮かべた。

「あなたはどうなのですか、ルディさま」
「……。私も、肩書きなどで人を判断したりいたしませんわ。これでも見る目は持っているつもりですの。だからこそ、殿下と姉の交際には、反対しておりますわ」
「ははは。すっかり嫌われてしまいましたね。とても残念です。私はルディさまと、ぜひ仲良くなりたいと思っているのに」

 リシャールは優雅な笑みを浮かべたかと思うと、パチンとウインクを飛ばす。
その爽やかさと愛嬌たっぷりの仕草だけは、本物の王子さまだ。

「騙されませんから!」
「ははは」

 城内の中心にある世界樹の庭には、眩しいくらい朝の光が降り注いでいた。
エマお姉さまを先頭に聖女たちは大地にひざまずくと、祈りの言葉を唱え始める。
その最後尾で、紅髪の彼もそっと目を閉じた。

「ルディさまには……。今さら何を言っても信じてもらえないかもしれませんが、彼女たちの祈りが私たちを支えているように、私も彼女たちの支えになりたいと思っているのです。その心に、嘘偽りはないですよ」

 私も彼の隣で、同じように目を閉じると祈りを捧げた。
聖女たちの支えになりたい。
それはこの世界に住む誰もが、必ず一度は思うこと。

 静かな庭園では、聖女の捧げる祈りの言葉が穏やかに響き渡っていた。
世界樹は大きく枝を広げ、うっそうと多い茂る常緑の葉を揺らし、その祈りに応えている。
この樹は乙女の祈りを自らの命に換え、成長を続ける悪魔の樹でもあった。

 森や岩盤に生えていた木が、ある日突然瘴気を放ち始め、「魔樹」となる。
斬り倒そうにも、瘴気のため近寄ることも出来ない。
樹は「魔樹」として成長し瘴気を放ち続け、その瘴気の渦から魔物を発生させる。
しかしその樹の側に「聖女」といわれる能力を持つ女性を置くことで、樹は「魔樹」から「聖樹」へと変貌する。
樹液や葉は、猛毒から万能薬へと変わり、放つアロマは魔物を遠ざけた。
私たちは彼女たちの命を代償に、魔物を遠ざけ瘴気を浄化し、平穏な日々を送っている。

「どうか今日という日が、穏やかな一日でありますように」

 世界樹と聖女の関係を調べる研究は、世界各地で進んでいた。
それでもまだ、分からないことばかりだ。
祈りを終えたお姉さまに、リシャールが歩み寄る。

「エマさま。少しお時間よろしいですか」

 彼は優雅に微笑むと、立ち上がったお姉さまを愛おしそうに見つめる。

「実はお願いがございまして。ぜひエマさまに案内いただきたいのですが……」

 案内? 
お姉さまと二人っきりになろうっての? 
そうはさせませんわ!

「殿下! 祈りを終えたばかりの聖女たちに、休息を与えてくださいませ。彼女たちは疲れております」
「あぁ、これは失礼。配慮が足りませんでしたね。では少しお休みなされた後、午後にでもお約束できますか。エマさまがお忙しいようでしたら、他の方にでもお願いしたいのですが……」

 彼は紅い目で、そこに居並ぶ聖女たちをぐるりと見渡す。
獲物を狙うかのような鋭い目が、一人の聖女の前で止まった。
エマお姉さま付きの聖女たちだ。
その能力も人柄も保証されている。

「あなたのお名前は?」

 彼女に向かって差し伸べられた手を、代わりにパッと掴む。
私はアプリコット色の髪を、バサリと後ろになぎ払った。

「殿下。ですから第一王子のお相手を、祈りを終えたばかりの聖女に務めさせるには、荷が重すぎるとさっきから言っているのです。私でよければ、いくらでもお相手いたしますけど?」

 腰に手を当て、大きな顔で盛大にふんぞり返ってやる。
周囲からクスクスという微かな笑いが起きた。
たとえ笑われたって、そんなことはどうだっていい。
彼女たちをこの人から守るためなら、お安いごようだ。

「それは失礼いたしました。なるほど。勤めを終えたばかりの聖女さまには、休息が必要です。ですが、あなたに私の相手をお願いしてもよろしいのですか? ルディさま」

 若干迷惑そうな顔をして、にっこりと笑顔で拒絶しようたって、そうはいかないんだから。

「もちろんでしてよ。私でよろしければ、よろこんでお相手いたしますわ」
「では、お願いいたします」

 ツンと突き返した私に、エマお姉さまが耳元でささやく。

「どうしたのルディ。殿下にどこか、あなたの気を引くようなところでもあるの?」
「いいえ! そんなの、どこにもありませんわ」
「でしたら、他の方にお願いすれば……」
「お姉さま。だってリシャールさまは、とっても可哀想なのですもの。お姉さまにプロポーズしてお断りされたばかりなのを、少しでもお慰めさしあげたくて」

 辺りに聞こえるよう、ワザと大きな声をあげて話しているのに、彼は顔色一つ変えること無く、にこにことすましている。
リシャールの相手を全く譲る気のない私に、お姉さまも諦めたようだ。

「ルディ。ほどほどにね」
「当然です。ちゃんと分かっていますわ。お姉さま」

 聖女たちの一団が引き上げるのを見届けると、対決を前に気合い十分に鼻を鳴らす。

「さぁ、リシャールさま。この私が今からいくらでもお相手いたしますわ。どこを案内してさしあげましょうね」
「それでは、聖女たちの慰霊碑へ」

 彼の言葉に、ハッと我に返る。
そんなところへ、自ら訪ねたいと申し出る客人なんて、今まで誰もいなかった。

「なぜそのようなところに?」
「なぜって、いけませんか」

 燃えるような紅い目が、今は灯火のように伏し目がちに微笑む。

「ブリーシュア城内なら、まず初めにそこを尋ねるのがいいとずっと思っていたのです」

 彼がどんな人であろうとも心からそれを望むなら、私も真摯に応えようと思う。

「分かりました。案内いたします」

 朝の光が降り注ぐ世界樹の庭を、静かに後にする。
祈りの時間しか立ち入ることの出来ないその庭には、番兵によってすぐに門が卸された。
その特別な庭を囲む広い植物園の片隅に、聖女たちの慰霊碑はひっそりと建てられている。
そうと知らなければ誰もが見過ごすような、小さな石版のモニュメントだ。

「ここに咲く花を添えても?」

 私がうなずくと、リシャールは慰霊碑を囲む生け垣に咲いた白い花を手折る。
それをそっと石版の上に重ねた。
ここには特定の誰かが眠っているわけではない。
世界樹に祈り続けることで、自らの命を捧げた全ての聖女たちを弔う碑だ。
彼はその前で静かに膝を折ると、両手を組み祈りを捧げている。
私もその隣で、静かに目を閉じた。

「私は聖女という役割を担う彼女たちに、敬意を示さずにはいらないのです」
「それは私も同感ですわ」

 あたたかな光りが降り注ぐ。
今でこそ「聖女」などと呼ばれ大切にされているが、過去には奴隷のようにも扱われてきた者たちだ。
黙祷を済ませたリシャールは立ち上がる。

「ルディ。それはあなたに対しても、同じ気持ちですよ。聖堂に通い樹の守り姫となる決意をなさることは、王族の勤めとはいえ、勇気のいることです」

 彼は私の手を取ると、しっかりと握りしめた。
紅い目に穏やかな光りが灯る。

「あなたが聖堂へ入る決意をされた時の話を、お聞かせくださいませんか。どんな屈強な男にも為しえぬことをなさるあなた方の話を聞くことは、私の楽しみの一つなのです」

 強く握られたその感触の分だけ、私の心は重くなる。

「あの。申し訳ないのですけど……」
「はい。なんでしょう」
「あなたがお姉さまにプロポーズした本意を知らなかった私なら、よろこんでお話したでしょうけど、本心を知ってしまった今では、そのお言葉を素直に聞くことも出来ませんの」

 聖女たちを守るためなら、誤解されたままの方がいいのかもしれない。
そうすれば、被害も小さくていい。
悪者になるのなら、自分一人で十分だ。
彼の手から、ゆっくりと自分の手を引き抜く。

「他に、城内で案内してほしいところはございますか?」
「では、聖女見習いの集う聖堂へ」

 彼は今度こそ、はっきりと好奇心丸出しの笑みを浮かべた。
にこにこと無邪気を装った愛想笑いを浮かべたって、そんなものには騙されません!

「ですから! あなたをそこへ案内するつもりはございませんわ」
「それはどうして?」

 彼の目つきが変わった。
紅く細い目が、艶やかな色を帯び怪しげに光る。

「それは寂しいですね。ようやくこうして、二人きりになれたのに」
「どうして二人きりになる必要があるのでしょう」
「昨夜の出来事をもうお忘れですか? もう一度会いたいとお約束をして、こうしてあなたの方から来てくださったのに」
「あら。それをおっしゃるのなら、聖女目当てという大罪の方はどうなるのです? 今すぐ周囲に触れ渡して、城にいられなくすることも可能ですのよ?」

 リシャールは壁際に私を追い詰めると、そこに腕をついた。

「私は王子としてここへ招待されている。それをあなたに、追い出すことが出来ますか?」

 外交問題にまで発展する可能性のあることなんて、こっちだってちゃんと知ってる。
だから黙ってるのに!

「早々に私にバレてしまったのが、運の尽きでしたわね」
「いいや。逆に仕事がやりやすくなった。互いに賢くしていましょう」

 冷たい視線を向けたまま、彼の手が私の髪に触れようとしている。
その手を素早く払いのけると、くるりと背を向けた。
彼をその場に残して歩き出した私を、リシャールは何食わぬ顔で追いかけてくる。

「おや。本音を言うなら、エマさまの寝室をお願いしてもよかったのですよ」
「まぁ、一国の王子ともあろう方の発言とは思えませんわ」
「それとも、あなたのお部屋を聞いた方がよかったかな」

 言い慣れたような口ぶりで、誘うように私を見下ろす。

「私の部屋は……。もちろんご存じでしょうね。あなたならいつでも歓迎しますよ」

 これだから男ってのは! 
思わずカッと赤くなった私を、クスクスと笑っている。
これくらいのことで私ならどうにかなると思うなんて、バカにしすぎ。

「しかし、立派なお城ですね。城壁に囲まれた、一つの町のようだ。この高い壁の向こうにも多くの人々が暮らしているだなんて。レランドとは大違いですよ」

 あの誘い文句は冗談だと分かっているのに、心臓は勝手に早鐘を打っている。
今の自分を、絶対に誰にも見られたくない。
彼を無視したまま、足早に階段を駆け下りる。
スカートの裾を持ち上げ走りだしたいのを我慢しているのに、なかなか王子は諦めてくれない。
回廊をどこまでもついてくる。

「あぁ、ここからだと城内がよく見渡せますね。この城は迷路のような造りをしている。迷い込んだら抜け出すのに苦労しそうだ」

 空中回廊の角を曲がろうとして、不意に腕を引かれた。
柱に背を押しつけられ、腕の中に閉じ込められる。
紅い目が視線の先にまで近づいて、耳元にささやいた。

「ここから、私の部屋がよく見えます。西門近くの、芝生が広がる庭園前にご用意していただいた部屋です」

 そんなこと、わざわざ説明されなくても分かる。
腕の中から逃げ出したいのに、体が動かない。
彼の話す吐息が耳にかかるのが、とんでもなく居心地悪い。
視線を反らせたまま、何とか返事を返す。

「あら、そうだったのですね。知りませんでしたわ。あそこは日当たりもよく、遠くからいらした使節の方がよく使われるお部屋です。設備も整っておりますし、お気に召したのであれば幸いです」
「つれないお言葉ですね。このままでは寂しくて死んでしまいそうだ」

 彼の指が私の髪をすくい取ると、そこにキスをした。

「眠れない夜を過ごしているのを、あなたに慰めてほしいとお願いしているのです」
「私にいくらそんなことを言っても無駄ですわ」

 触れられた髪を、さっと掴んで引き戻す。

「殿下は絶対に、私を好きになったりしないので」
「おや、どうしてそう思うのです?」
「私もあなたに、好意を抱く可能性は全くありませんの。当然ですわ。早く諦めて、ご自分の国にお帰りになった方がよろしくてよ」

 王子から逃げるために、無駄に城内を歩き回っていた。
この角を曲がれば、パンを焼くための部屋がある。
彼の指が頬を滑った。

「そんな酷いことばかりおっしゃるのなら、私も我慢出来そうにな……」

 ドンと彼の胸を突き飛ばす。
腕から逃げ出すと、すかさず角を曲がり作業部屋へ入り込んだ。
即座に内側から鍵をかける。
パンをこねていた職人たちは突然入って来た私に驚いていたけど、一言謝って急いで通り抜けた。

「ごめんあそばせ。ちょっとだけ通らせてくださいまし。あ、なにがあってもあと5分は、その扉を開けてはいけませんよ」

 裏口から外に出る。
彼といた回廊とは別の通路へ出た。
ようやく引き離すことに成功した私は、聖堂へ向かい足を速める。
びっくりした。
何よあれ。
あんなの絶対王子なんかじゃない。

 真っ直ぐに顔をあげ、回廊を進む。
私はあの人に好かれることはないのだから、大丈夫。
そんなことより早く聖堂へ行って、みんなに注意しておかないと。
あの人の甘い口車にのって、簡単にレランド行きを決めてはダメよって。
いずれ彼は聖堂へやって来るにしても、先回りしておけば何とかなる。

 リシャールを巻くために、随分と寄り道をさせられていた。
そうでなくても世界樹への祈りに同席した上に、慰霊碑も訪れていたおかげで、大幅に遅刻している。
遅れるという連絡は入っているかもしれないけど、急がなければ。

 キョロキョロと辺りを見渡し、後を付けられていないか慎重に確かめながら進む。
幾重にも折り重なる空中回廊の最後の橋を渡り終え、ようやく地上へ降り立った。
南門近くにある広場へ急ぐ。
石造りの建物がひしめき合う城とは少し離れた、城壁沿いの緩やかな丘の上にそれはあった。

 三階建ての石造りの聖堂は、入城を許された聖女候補者たちが聖女としての振る舞いを身につけるための学校のようなところだ。
入り口横には世界樹の若木が植えられ、専用の植物園も併設されている。
私は芝の小道を駆け上がると、勢いよくその扉を開いた。

「ごめんなさい! 今朝は大変遅くな……」

 調剤室に、リシャールがいる!

「おや。ルディさまも、聖堂にご用があったのですか?」
「どうしてこちらに!?」
「近くにいた衛兵に場所を尋ねたら、親切に教えてくれました」

 まるで今日ここで会ったのが、本日初めての顔会わせであるかのように、にっこりと微笑む。
私はしっとりと汗ばんでいるのに、彼は涼しげな顔で壁の戸棚に並ぶ大小様々な瓶を見上げた。

「さすがブリーシュアの聖堂だけある。立派な設備ですね」
「ここへ着くの、早すぎじゃありません?」
「近道を通って参りましたので」

 ワザとらしい笑みをふわりと浮かべた殿下に、それ以上追求することをやめた。
あそこからこの早さで来るには、回廊の壁を飛び降り、屋根伝いに一直線に来れば不可能ではない。

「王子さま? あなたは一体どういうつもりで……」
「どうぞ、殿下。こちらへおかけください」

 施設長が現れ、薬草を煎じたお茶をリシャールに勧めた。
甘酸っぱい爽やかな香りが室内に広がる。
心身共に疲労回復効果のある薬湯だ。
彼は白磁の茶碗を受け取ると、その香りを嗅いだだけで使われた薬草を言い当てる。

「これはチヌリの実とオーバブの葉を煎じたお茶ですね。香り付けに……レモネかな」
「さすがですわ、殿下」

 周囲にいた聖女見習いの少女たちからも、感嘆の息が漏れる。
出鼻を挫かれた。
だがこれくらいのことで、負けるわけにはいかない!

「施設長。失礼ながら、いくら開かれた聖堂とはいえ、世界樹を守る乙女の聖堂に、他国の王子を招き入れるのは、どうかと思いますわ」
「どうかとは?」
「この方はエマお姉さまへ求婚しただけでなく、聖女候補なら誰でも自国へ連れ帰りたいというお考えをお持ちのようなので」
「ふふ。聖女に恋をした男はみな、そう言われる覚悟くらい出来ていますよ。そうでなければ、大勢の前で愛を告白したりなどしません」

 リシャールは全く動じることなく、手にしたカップをコトリと置いた。

「もしそうであるなら、第三王女のあなたこそ、最も私を警戒しなくてはならないのでは? もちろん私は、あなたともっと親しくなりたいと思っておりますけど」

 施設長はたっぷりと薬湯の入ったお茶を、私にも差し出す。

「ルディさま。リシャール殿下の今回の滞在目的として、エマさまのお祝いだけでなく、世界樹にまつわる研究施設の視察が事前に申請され、許可が出ております。ご理解ください」

 手回しも完璧だったのか。
キッとにらみつけた私に、彼は残っていた薬湯を一気に飲み干した。

「おや、これは?」

 何かを見つけたのか、不意にリシャールが手を伸ばす。
彼が棚の上に見つけたものに、口をつぐんだ。
わずかに緑がかった乳白色の欠片を、しげしげと見つめる。

「世界樹の樹液の結晶ですね。男の私がこれに触れても何ともありませんが……」

 それは、聖女としての魔力を測る道具だった。
力を持つ者がこれに触れると、淡い緑の乳白色の欠片はたちまち無色透明となり、まばゆい光りを放つ。

「さすがは世界最古の世界樹を擁するブリーシュアの聖堂だ。珍しい欠片がこんなにも無造作に転がっているとは。施設長。あなたのお名前をお聞きしても?」
「え? 私ですか?」

 紅い髪と紅い目元のキュッと引き締まった涼しげな顔に、貴公子の笑みが浮かぶ。
彼は施設長の手を取ると、指先にキスをした。

「マ、マレトと申します……」

 毎朝聖堂の花壇に水をやることを生きがいとし、城内で話す相手といえばここの生徒か警備兵くらいしかいない施設長が、今まで見たこともないほど真っ赤になっている。
緊張ですっかり動けなくなってしまった彼女の手に、リシャールは樹液の結晶を乗せた。
それはサッと色を無くしたかと思うと、強い光を放つ。

「ではマレト。しばらく聖堂の案内をお願いできますか?」
「も、もちろんです!」

 彼は私やエマお姉さまをエスコートした時と同じように、施設長を優雅な手つきで誘導していく。
周囲を取り囲んでいた少女たちから、一斉に黄色い悲鳴とため息が漏れた。
彼は彼の望み通り、すっかり注目の的となっている。
慣れない施設長を優しく気遣いながら歩く物腰は、どこをどうみても完璧な王子さまだった。
二人が外の植物園へ移動するのにつられて、野次馬たちも出て行ってしまう。

「リシャール殿下って、本当に素敵な方ね」

 どうやら彼は、本気で自国へ連れ帰る乙女を選びに、ここへ乗り込んで来たようだ。
聖女見習いのリンダが、ようやく静かになった調剤室の椅子へ腰を下ろす。

「ねぇリンダ。決して騙されちゃダメよ。あの人は色仕掛けで聖女を自国に連れ帰るつもりなんだから!」
「あはは。はいはい。ルディはみんなの心配をしてくれているのね」
「その通りよ。当たり前だわ」
「ふふ。それほど殿下のことが気になるのね」
「本当ですのよ! 彼がそう言ってるのを、私は直接聞いていたんだから」

 リンダはサラリとした黒髪を肩に流し、私を見つめたままニヤニヤと微笑んだ。

「そんな目で見て私をからかおうったって、そうはいきませんわよ」
「いいことだと思うけどね。ルディがマートンさま以上の人を見つけられるなら」
「残念ながら、そういうことには絶対になりませんので」

 彼女はクスクス笑っている。
私の話を本気で聞いていない。

「リンダだって、狙われるかもしれないんだから! ちゃんと気をつけといてね!」
「はいはい」

 彼女は薬湯の入ったカップを手に取ると、調剤室から出てゆく。
私はテーブルに残された小さな樹液の欠片を、何となくポケットに入れた。
こんなもの、確かにどこにでも転がしておくものではない。

「ねぇリンダ、待って。私も行く」

 彼女を追いかけ、廊下へ出た。
長い廊下の奥にある部屋は、天井までびっしりと本で埋め尽くされた聖堂の図書室だ。
ここにはブリーシュアの国中から集められた、世界樹研究の本が所蔵されている。
この聖堂で学べるのは、難しい試験と樹液の結晶による聖女判定に合格した者だけだ。
リンダは近頃夢中になってずっと読みふけっている分厚い本を読書台の上に置くと、挟んでいた栞のページを広げた。
私も読みかけていた本を持ってくると、隣の読書台に並んで腰を下ろす。

「ねぇリンダ。あなたも見ていたでしょう? あの方はエマお姉さまにあんなにも派手にプロポーズをしておいて、平気で他の人にも同じようなこと言ってるんだから」
「別に本物の王子さまなんだから、いいじゃない」
「エマお姉さまのことだって、本気ではありませんわ」
「それは……。エマさまも、ご存じなんじゃない?」
「どうしてそんなことがリンダに分かるのよ」
「ご身分と状況を考えれば、当然だわ」

 私たちのおしゃべりに、他の生徒たちから「うるさい」と咳払いが入る。
私は一層声をひそめ、リンダの耳元にささやいた。

「だって、従者の方と殿下が二人で話してるのを聞いたんですもの。自分たちの目的は、聖女をレランドに連れ帰ることだって!」

 彼女は真っ直ぐな黒髪によく似合う黒い目で、呆れたようにため息をついた。

「で、ルディも口説かれたのね。それでようやく分かった」
「私はあんな方に口説かれるような隙も見せてないし、たとえそうであったとしても、簡単になびいたりしません」
「それで怒ってるんだ」
「だから、そうじゃないってば」
「昨日からルディは、リシャールさまのことばかりなんだもん」
「……。それは仕方ないじゃない」

 ここは国中の聖女見習いの中でも、特に優秀な乙女たちが集められている王族直属の聖堂だ。
私はここで彼女たちのために出来ることをしたいと思っているだけ。

「私がここにいる、みんなを守るの」

 リンダは読んでいた本のページから顔を上げると、落ち着いた穏やかな目で柔らかく微笑んだ。

「大好きよ、ルディ。ルディがいてくれるから、ここのみんなは安心していられるの」

 そう言ってくれるリンダのことを、私も誰よりも信頼している。
息を合わせたように、私たちは肩を抱き合った。
友情を確かめ合った後で、ふと彼女の広げているページの挿絵が目に入る。
リンダは新しい薬品成分の抽出方法を調べているようだった。
丸底のガラス容器にいくつもの管がつながり、それを回転させながら火で温めると書いてある。

「この実験を試すの?」
「抽出温度を一定に保つのが難しいの。だからオイル浴を試してみようかと思って。低温だと狙った薬効成分がなかなか出てこないのよ」

 屋外から、黄色い歓声が聞こえてきた。
窓の外を振り返ると、紅い髪とマレト施設長の白い衣装が見える。

「全く。のんきなものですわ」
「意外とそうでもないかもよ」

 リンダは分厚い本のページを閉じると、それを持って立ち上がった。

「もしリシャールさまがマレト施設長に狙いを定めたなら、本当にこの聖堂の危機かもね。マレト施設長がレランドに連れて行かれちゃったら、次の施設長はきっと、あのとっても厳しくて怖いペザロさまになるでしょうから」
「確かにそれは大問題だわ」

 多少の遅刻や失敗なら、無言のひとにらみと咳払いで済むマレト施設長と違い、ペザロ副施設長はいちいち失態をその場でメモとして書き記したうえに、生徒ごとにそれらを記録した帳簿を永久保管している。

「阻止しないと」
「そうよルディ。がんばれ」

 リンダは実験室に向かうようだ。
外の植物園では、マレト施設長とリシャールが、ついさっきまでと比べものにならないくらい、より親密に何かを語らいながら歩いている。
彼は香り高いクチーナの花を手折ると、それを年齢が10も離れた彼女の耳元にさした。
聖堂の乙女たち全体の危機が訪れようとしているのを、黙って見過ごすわけにはいかない。

「マレト施設長!」

 急いで外へ飛び出す。
淡いグレイのワンピースの裾を持ち上げ、二人の元へ駆け寄った。

「来週からの講義の予定を、まだお聞きしていなかったのですけど!」

 白い聖女の衣装に身を包んだ彼女を、優しい目でリシャールが見守る。
ピタリと寄り添うその姿は、まさに恋人同士そのものだ。

「ルディさま。リシャールさまがしばらくこの聖堂に通いたいとおっしゃってくださるので、殿下と共に植物学の基礎から学び直そうかと」
「今さらですの?」
「いつ何時でも思いかえったときに、基礎に立ち返り復習することは、よいことですよ」

 はにかむようにそう語るマレト施設長は、早速彼に言いくるめられてしまったとしか思えない。

「そうですよね、マレト。常に復習を心がけることは、私もよいことだと思います」

 目と目で見つめ合い、にっこりと微笑み合う。
こんなにも簡単に騙されるなんて、想像以上に想定外だ。

「殿下! 殿下の本日のご予定は?」
「別に? 特に何もありませんよ。マレトの話に、もっと耳を傾けること以外には」

 リシャールはマレト施設長の耳にさしたのと同じクチーナの花をもう一度手折ると、私の耳にさす。

「ほら。君も可愛くなった」

 天然でやっているように見せて、これが下心からの意図的な行為かと思うと、その天才すぎる振る舞いに脅威すら覚える。
花に罪はないと分かっていても、今すぐ取り払ってしまいたい。
どうして彼女と同じことを私にもするの? 
しかもこんな大勢の前で。

 リシャールは細い目に涼しげな表情を保ったまま、植物園の向こうにたたずむ聖堂を振り返った。

「この聖堂の素晴らしさを、我が国の人々にも伝えたいのです。マレト。もっと案内をお願いできませんか」
「えぇ、もちろんです。喜んで」

 リシャールはにっこりと微笑み、施設長へ向かって右手を差し出す。
そこに彼女の手が重なる前に、私は彼の手を奪いとった。

「リシャールさま。マレト施設長には、乙女たちへの講義という大切なお仕事がございます。代わりにこの私が、特別にご案内さしあげますわ!」

 紅い目が一瞬不敵な笑みを浮かべたかと思うと、さっと繋いだ手を引いた。
わざとよろけさせた体を支えるため、彼の腕が腰に回る。

「それなら、ちょうどよかった。出来ればこの機会に、あなたから受けた誤解も解いてしまいたいのでね」
「私は誤解など、何もしておりませんけど?」

 引き寄せられた距離が近すぎるせいで、紅い目がじっと見つめるのに逃れられない。

「あなたから仲良く接していただけないのは、寂しいものです」
「誤解があるのは、リシャールさまの方ですわ」
「それはどうして? 私はこんなにもあなたをお慕いしていると……」

 ドン! 大きな爆発音。
聖堂の内部から吹き出した爆風が、一階実験室の全ての窓ガラスを吹き飛ばす。
白煙が立ち上ったかと思った瞬間、オリブの実の焼け焦げたような臭いが、辺りに充満した。
乙女たちの悲鳴が上がる。

「マレト、すぐに避難指示を」

 リシャールは私の肩をマレト施設長に押しつけると、聖堂に向かって走り出した。

「待って、リシャール!」

 彼の向かう先に、火の手が見える。
白く沸き立つ煙は、あっという間に黒く色を変えた。
中にいた者たちが、一斉に外へ飛び出してくる。
リシャールは迷うことなく、火元である実験室へ向かっている。
私もそこへ走った。

「出入り口はここだけか?」

 追いついた私に、彼が尋ねる。

「もう一つ、奥にもあるわ」
「ならいいだろ!」

 彼は入り口を塞ぐ扉を、一撃で蹴破る。
実験室の中は、爆風の吹き荒れたせいで物が散乱していた。
燃えさかる炎の前で、まだ残っていた数人の生徒たちが、火を消そうと躍起になっている。

「すぐにここを出なさい! 身の安全が先だ」

 彼はすぐ横にあったすり鉢を持ち上げると、火の上にかぶせた。

「さぁ、早く!」

 残っていた少女たちが走り去る。
様々な器具や薬品を並べた実験棚の向こうに、飛び散った炎が散在している。
それなのにまだ残って何かをやっている生徒がいる。

「リンダ!」

 彼女は脚立の上に立ち、複雑にくみ上げた実験装置の、最上部にある瓶に手を伸ばしていた。

「君もすぐ逃げなさい!」
「ダメよ! この薬品は、世界でここにしかないものなの。長い時間かけて、ようやく抽出したものなの。だから置いていくわけには……」

 パリンとガラスの割れる音が聞こえる。
炎に煽られ、熱に耐えきれず割れた薬瓶から液体が流れ出す。
そこにも火がついた。

「リンダ! もういいから、そこから降りて!」

 伸ばしきった震える指先が、茶色のガラス瓶に触れた。
彼女は実験装置からその器具を外すと、素早く栓を閉める。
ドン! 再び強い爆風が駆け抜けた。
前が見えないほどの白煙が立ちこめる。

「リンダ!」

 さっきまですぐ目の前にあった、彼女の姿が見当たらない。
煙の中に飛び込もうとした私の腕を、リシャールは掴み引き戻した。

「これ以上は無理だ。ルディ、とりあえずここを出よう」
「ダメ! リンダを置いて行けない!」
「君の安全の方が先だ」

 リシャールは私を抱きかかえると、入って来た扉へ向かって動き出す。

「いやぁっ! リンダと一緒じゃなきゃ、ここから出ない!」
「落ち着け!」

 燃えさかる紅い目が、私を入り口の廊下へ押しつけた。

「君は王女だ。しかもこの聖堂に通う、将来は聖女となる希少な存在だ。こんな火事なんかで、聖女となる人を失うわけにはいかない」
「私は聖女なんかじゃない。私は聖女なんかじゃないの!」

 ポケットに忍ばせていた、樹液の結晶を取り出す。
聖女となる者が触れれば光るはずのそれは、無惨なまで白く濁ったままだった。

「聖堂に通う乙女としての資格はなくとも、王女という肩書きだけで私はここにいるの。他のみんなはちゃんと本物よ。リンダも! だからこそ、私が彼女たちを助けに行かなくちゃならないの!」

 再び煙の中に飛び込もうとした私を、リシャールは強く引き戻す。

「だとしても、この国の王女であることに変わりはない」
「あなたも王子ですわ!」
「俺はいい」
「どうして!」
「いいから、ここで動くな!」

 紅い髪が再び煙の中へ飛び込んでゆく。
すぐに追いかけようとした私を阻んだのは、城を守る兵士たちだった。

「ルディさま。早く避難を!」
「放しなさい!」
「それは出来ません」

 どれだけ振り払おうとしても、私の力ではどうにもならない。

「中に、中にリシャールさまとリンダが!」
「我々にお任せください」

 駆けつけた兵士たちが、次々と白煙立ちこめる実験室へ飛び込んでゆく。
有無を言わさず屋外へ連れ出された私には、もう見ていることしか出来ない。
誰よりも彼女たちの側にいて、必ず守ると誓ったのに!

「ルディさま!」

 マレト施設長が、震える手で私を抱きしめた。
いつも穏やかな彼女が大粒の涙をこぼしながら、ただただ声を殺し泣いている。

「大丈夫。大丈夫よ。なにがあっても、私がこの聖堂を終わらせたりしない。絶対に」

 兵士が中に残されていた少女たちを屋外へ誘導している。
火の手は落ち着いたのか、新たな煙は噴き上がってこない。
割れた窓越しに見えるのは、甲冑を着た兵たちが実験室の中を歩き回っている姿だけだった。
不意にその一角で歓声が上がる。

 大勢の兵たちが入り乱れる波間に、紅い髪が見えた。
真っ白な上着が、すっかり黒く汚れてしまっている。
彼はその腕の中に、一人の乙女を抱えていた。

「リンダ!」

 群衆を押しのけ、実験室から屋外へ出てきた彼に駆けよる。
リンダはリシャールの腕の中でぐったりとしていたものの、顔色は悪くない。
すぐに運ばれてきた担架に乗せられる。

「息はある。心配はいらない」

 意識のない彼女の手を握りしめる私の前で、リシャールは胸ポケットから茶色の小瓶を取りだした。
リンダが危険を冒してまで守ろうとした、薬品の入った瓶だ。

「気がついたら、君から渡してやってくれ」

 彼の手から直接、小さな瓶を受け取る。

「私から……で、よいのですか」
「あぁ。それでいいだろう」

 騒ぎを聞いて駆けつけた彼の側近であるダンは、めちゃくちゃに腹を立てていた。

「リシャールさま! これは一体どういうことですか。あなたはいつも……」
「ダン。一旦ここから離れよう」

 彼からぐちゃぐちゃと小言を言われながら、立ち去る紅い髪を見送る。
聖堂の火災はすっかり鎮火し、大きな怪我人は他にいないようだった。
手の平にすっぽりと収まるサイズの、小さな瓶を握りしめる。
彼よりも私の方が、この薬品の価値を知っていたのに!

「リシャール殿下!」

 後を追いかけ呼び止めた私を、彼は振り返った。
汚れた灰色のスカートの裾を持ち上げ、しっかりと膝を折る。

「聖堂の乙女を助けていただき、感謝いたします」
「礼は改めて、あの娘が目覚めた時に受けよう」
「殿下はあの小瓶の中身が、なにかご存じでした?」
「いや」

 言いたいことは沢山ある。
だけど、どう言っていいのか分からない。
それだけはちゃんと伝えておきたいのに、どう伝えればいいのかが分からない。
キッパリと顔を上げ、そこから動こうしない私に、彼は疲れたような息を吐いた。

「たとえそれがどんなものであったとしても、あの娘にとって大切なものだったことに変わりはないのだろう? もしそれが私にとって価値のないものだったとしても、彼女にとって大切なものなら、置いてはこない」
「これは私たちにとって、とてもかけがえのないものでした」
「だったらなおさら、よかったじゃないか」
「私は聖女ではありませんが、王女という身分であの聖堂にいます」

 その言葉に、彼と従者がようやく私と向かい合った。

「本来はその資格もないのに、私は特別に許されました。それは私が、生涯をかけて聖堂を守るという役目を誓ったからです」
「王族としての、義務と責任でしょう」
「ですから、今回のことは大変ありがたく思っております。が、そのことであなたに感謝することと、あなたが聖女に近づくこととは、別の話だと思っているのです!」
「は?」
 いつも上品にすましている高貴な顔に、彼はムッと眉を寄せた。

「私は自分が聖女でないことを、いつも、心底、心から悔しく、残念に思っておりました。が、まさかそのことに、感謝する日が来るとは思いませんでした。どれだけあなたに感謝はしても、聖女たちは譲れません!」

 彼はさもうるさいとでもいうように、前髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。

「あぁもう、分かった! お前が王女だろうが聖女じゃなかろうが、これからは一切気にしない! 俺がここに来た目的は、聖女をレランドにスカウトすることだ。それを知った以上、邪魔する奴は誰であろうと許さないからな!」
「いい返事ね。受けてたちますわよ。私だって自分の大切なものを横からかすめ取られるのを、黙って見ているわけにはまいりません!」

 これは宣戦布告だ。
紅い目がとんでもなく憎らしげに厳しい目でにらみつけてくるのを、同じ目でにらみ返す。
彼にとって、これは国から任された重要な任務なのかもしれないが、私にだって何がどうなっても、譲れないものはある。
聖女を連れ出そうというのなら、絶対にそれを阻止しなければならない。
聖堂を守るということは、そういうことだ。

 リシャールは無言のまま背を向けると、ダンとともに引き上げてゆく。
私は壁の一部が焼け焦げてしまった聖堂へ戻った。
城壁に囲まれた空にはまばゆい太陽が光り輝き、空気にはまだ焦げ臭い臭いが立ちこめている。

「ルディさま……」
「大丈夫。私がちゃんと、立て直してみせますわ」

 難を逃れた乙女たちが、変わり果てた聖堂を見て泣いている。
ここを守るということは、そういうことだ。




第3章


 実験室の火災は、幸いにも軽いボヤ騒ぎ程度ですんだ。
王城の関係者と協議し、すぐに修復工事に入る。
怪我をした人に重傷者はおらず、リンダも翌日には意識を取り戻していた。
私がリシャールから預かった小瓶を診療室で渡すと、それまで魂の抜け殻のようにベッドで呆然としていた彼女が、ようやく息を吹き返した。

「あぁ、よかった! 無事だったのね。これさえ残っていたら……」

 リンダはベッドの上で、その小瓶をぎゅっと握りしめる。
目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
小瓶の中は、彼女がこの王城に呼ばれるきっかけともなった研究内容であり、聖堂に来てからの3年の成果が凝縮されたものだ。

「自分の命より大切なもの……といったら、殿下には笑われるかな」
「もし笑ったりなんかしたら、私がひっぱたいてやりますわ」
「はは。じゃあその時はお願いね、ルディ」

 とても悔しくはあるけど、それでも異国の第一王子から受けた礼は返さなければならない。
リンダと聖堂の危機を救ってくれたのは確かだし、私だってそこにだけは本気で感謝している。

「私の名前で、工事と消火救出作業に当たってくれた方々への慰労会をしようと思うのだけど、リンダも来る?」
「そうね。私もちゃんとリシャール殿下にお礼がいいたいし」
「分かったわ」

 聖堂の関係者だけを招くところに、彼を招待しなければならないのは腹立たしいけれど、今回の主役は間違いなく彼だ。
少しでも聖堂とその乙女たちのために動いてくれたのであれば、それは全て感謝の対象となる。

 慰労会の当日、貴族たちばかりを集めた夜会並みとまではいかないけれど、それなりの形式は整えた。
楽団も呼んだし、料理も部屋の飾り付けも王城の料理長に頼んである。
会場はテラスから聖堂が見える広間を選んだ。

 定刻の時間が近づくと、ポツリポツリと人が集まり始める。
今夜は聖女見習いの制服ではなく、お洒落した女の子たちの華やかなスカートがあちこちに翻る。

「ルディさま。今日はお招きありがとうございます!」
「感謝の気持ちよ。楽しんでくださいね」

 あちこちで会話が弾み、ダンスも始まっていた。
いつも控えめであまり目立ちたがらないマレト施設長も、今日ばかりは由緒ただしい貴婦人となっている。
私自身も聖堂の警備に当たる兵士たちから声をかけられたりなんかして、気さくに応じている。
普段は甲冑や制服姿した見たことのない彼らの、プライベートな姿を見るのも新鮮な気分だった。

「ルディさまを、ダンスに誘ったら踊っていただけるのですか?」
「あら。いつでもよろしくてよ」
「え、えぇっ! だけど、自分踊ったことないんですけど……」
「それなら、練習してからまた誘ってくださいね」
「はい!」

 広間の和やかな雰囲気が、突然の歓声に一変する。
騒ぎの元となっているのは、会場に姿を見せたリシャールだ。

「やぁ。たまたま通りかかったら、なんだか楽しそうなことをやっていてね。私も少しお邪魔していいかな?」

 彼は今日も、白で統一された正装に近い衣装を身につけている。
私は聖女見習いの制服を模した、淡いブルーグレイのスカートの裾を持ち上げた。
ニコニコと愛想を振りまく王子の元へ進み出る。

「リシャール殿下。殿下さえよろしければ、ぜひ楽しんでいってください。気兼ねの入らぬ集まりですわ」
「第三王女ルディさまのお声がけともあれば、お断りするわけにもいきませんね」

 本当はそんなこと、思ってもいないくせに。
ニコッと微笑んだ彼は、完璧な貴公子として私をダンスに誘った。

「では私と、一曲お願いできますか?」
「よろこんで」

 周囲から感嘆の息が漏れる。
音楽が鳴り踊り始めたとたん、切れ長の細く紅い目が勝ち誇ったように微笑んだ。

「本当に俺がここへ来てよかったのか? ルディ」

 その得意気な表情と完全に上から目線の話しっぷりに、カチンとくる。
今までの「王子さま」とは違う、これが本来の彼の姿だ。
だけど今日は、我慢すると決めている。

「仕方ありませんでしょう? あなたはこれでも、恩人なので」
「いやー! あの時は本当に大変だったなぁ。死ぬかと思った」

 そんなこと、本当は全く思ってもいないくせに。
彼はくだらない冗談を飛ばしながら、優雅なステップを踏み「あはは」と笑う。
お姉さまのお誕生会で一緒に踊った時の、荒々しいほどの熱情が、今は微塵も感じられない。
握る手はあくまで添えられているだけの、教科書のような無難なステップ。

「だけどまぁ、これで堂々と口説けるようになったから助かる。なにせルディさまからの許可も出たことだし?」
「そんなことは許しませんと、はっきり申し上げたはずですわ」
「俺も言った。邪魔はさせないと」

 冷たく光る紅い目が耳元でささやく。
彼は自分の仕事をしにここへ来ているのだ。
だったら私も、自分の仕事をするまでだ。

「しかし、王女さま自ら火災現場に飛び込もうとは、恐れ入った。とんでもないな」
「あなただってそうでしょう」
「あれから部屋に戻って、たっぷりダンに怒られた」
「当然ですわ」

 紅い目が私をみて、微かに微笑む。
サラサラと揺れ動く前髪に、視線を奪われている。

「君は怒られはしなかったのか。火災訓練の経験は?」
「周りの者も慣れておりますので。訓練は定期的に行っております」
「ははは。そうなんだろうな」

 なんの特徴もないステップに、ただただ身を任せている。
こんなつまらないダンスも、出来る人だったんだ。

「おかげで仕事がしやすくなった。感謝する」

 彼は急に腕を伸ばすと、その下で私をくるりと一回転させた。
曲の終わるタイミングと完璧に一致させた状態で向かい合うと、息をそろえたように頭を下げる。

「じゃあな。邪魔するなよ」

 この人に邪魔をするなと言われたら、邪魔しない方がいいの? 
それともやっぱり、した方がいい? 
突然の大胆な動きに、まだ胸がドキドキしている。
それなのに彼の周囲には、もう人垣が出来ていた。

「リシャール殿下! 先日はありがとうございました」
「いえいえ。君に怪我はなかったかい。聖堂の乙女よ」
「はい。おかげさまで無事でした」
「あなたは聖堂で、何を学ばれているのですか?」

 さりげなく差し出された手に、乙女の手が伸びる。
彼女が見つめる熱っぽい視線に、私は自分を取り戻した。
すかさず二人の間に入り込む。
ぼんやりしてる場合じゃない!

「リシャールさま。ミネヤは世界樹の葉から抽出される薬効成分の分析をしておりますの。収穫した葉の保存方法にも精通しておりますわ。発酵の技術やその管理は、彼女の右に出るものはおりませんの」
「そうですか。出来れば私は、彼女から直接その話をお伺いしたいのですが」
「まぁ! そういえばミネヤ。あなたの欲しがっていた新しい機械のお話、あちらの男性なら叶えてくれるかもしれませんよ」
「え? 本当ですか、ルディさま」
「あなたの望む条件はとっても厳しくて。開発出来る方を探すのに苦労しましたが、今夜こちらに招待しておきましたの。ぜひこの機会に、じっくりわがままを言っておくといいわ」
「ありがとうございます! ルディさま」

 ペコリと頭を下げ、彼女はいそいそとその男性のところへ近づいてゆく。
私はうれしそうに話す彼女の表情をみて、うんうんとうなずいた。
これで一人の乙女の危機は救われた。
「どうだ」と思って振り向いたところへ、また次の危機が迫る。

「リシャールさま。おけがはありませんでしたか?」
「私は聖堂の乙女のためなら、どんな危険も恐れはしませんよ」

 リシャールの腕が少女の腰に回る。
彼女はうっとりとその横顔を見上げた。
リシャールはそんな乙女をエスコートしながら、テーブルへ向かう。

「飲み物をいただきましょう。そうすればゆっくりお話もできます。なにがよいですか?」

 私はすかさずラルトベリーサイダーのグラスをわしずかみにすると、別の飲み物に手を伸ばそうとした殿下の前に差し込んだ。

「ライラはいつも、好んでこれを飲んでおりますの!」

 ムッと顔を歪めたリシャールがそれを奪いとろうとするのを、さっと避け彼女に手渡す。

「ライラ。あなたがずっと会いたがっていたご夫婦を、この会場お呼びしておりますの」
「えぇ! 本当ですかルディさま。生まれてくる子供が、全員聖女としての能力を持って生まれてきたという……」
「あちらの方々ですわ」

 私が扇で指し示す方向には、所在なげに寄り添う老夫婦の姿があった。

「不慣れな場所でご不安なご様子です。安心してさしあげて」
「かしこまりました。今すぐ行って参ります!」

 ライラ自身も、親族に聖女が多く生まれる家系の出身だ。
遺伝と環境的要素を広く調べることを、研究対象としている。

「なぁ、ルディさまよ」
 リシャールはフォークに突き刺したチーズの塊を、私の口元にグリグリと押しつけた。

「これでは俺の仕事が進まないじゃないか。邪魔をするなと言ったはずだが?」
「私もあなたの好きにはさせないと、しっかり宣言しておいたはずですけど?」
「こんなの、圧倒的に俺が不利じゃねぇか。何やってんだよお前」
「そんなこと言われても知りません。戦いに有利な条件で挑む。戦術としての基本です」

 チーズを押しつける手を掴むと、直接そこからパクリと一口で飲み込む。

「おまっ! ホントにここでそれを食うな!」
「まぁ。ご自分で勧めておいて、何をおっしゃいますやら」

 こんなことぐらいで私が怯むと思ったら、大間違いよ!

「殿下はどこ産のチーズがお好きかしら。お礼に私も、食べさせてさしあげますわ」

 奪いとったフォークで、チーズが綺麗に整列された皿に狙いを定める。

「殿下のお好みのチーズを教えていただけないと、『あーん』できません」
「そんなの、しなくていい!」
「まぁ、そう遠慮なさらず」

 私はオランジの皮が練り込まれたチーズに狙いを定めると、ブスリとそれを突き刺した。

「こちらなぞいかがでしょう。こちらも私の好きなチーズでございます。殿下にもぜひ味わっていただきたく……」

 口元に押しつけようと、彼に近寄る。
振り上げた腕を、ガッツリ掴まれてしまった。

「やめろ! これ以上恥ずかしいマネをするな」
「私は殿下からいただいたのに、恥ずかしいとは何事ですの? まさか私に出来たことがあなたには出来ないとでも?」
「そういう問題じゃない!」
「ならどうぞ。私が食べさせて差し上げますわ。どうかお口を開けてくださいまし」

 私も本気なら、彼も本気だ。
口元にフォークを運ぼうとする私の手を掴む彼の腕が、プルプル震えている。

「おい。いい加減にしろ……」
「あなたが一口これを食べればすむことですけど?」
「ホントにそれですむと思ってるのか」
「なにを今さら……」

「リシャール殿下」

「お姉さま!」

 両腕をつかみあいもみ合う私たちに、エマお姉さまが声をかけてきた。
その瞬間、あれほど抵抗していた手をパッと放す。

「これはエマさま」

 リシャールは極上の笑みを浮かべ、完璧な仕草で丁寧に頭を下げた。

「リシャール殿下。この度は聖堂とその乙女のために力を尽くしていただき、大変感謝しております。私からも一言お礼を差し上げたく参りました」
「世界樹とその乙女たちのお役に立てたのなら、うれしい限りです」

 さっきまでもみ合っていた私に目もくれることなく、彼はお姉さまの手を取った。

「まさか今夜お会い出来るとは思いませんでした。それだけでも私が危険を冒し、火の中へ飛び込んだかいがあったというものです」

 紅い目は静かにお姉さまの手を取ると、そこにキスをする。

「どうか今回の働きに、褒美をくださいませんか?」
「何をお望みでしょう」
「私と一曲、踊ってください」
「それなら喜んで。私も殿下とご一緒したいと思っておりましたの」
「お姉さま!」
「まぁルディ。そんな怖い顔をしてどうしたの」

 リシャールの握るお姉さまの手を見ているのが、心臓に痛い。

「今後の聖堂の活動方針について、緊急にお話しなければならないことが……」
「まぁ、それは今じゃなきゃダメな話?」
「え……っと。出来れば今すぐお耳に入れてさしあげたく……」

 お姉さまは輝くばかりに波打つ金色の髪を、ふわりと傾かせた。

「ごめんなさい、ルディ。先にリシャール殿下からのお誘いを受けているの。ダンスが終わったら、あなたとお話するのでいい?」
「……。はい。分かりました」

 お姉さまにそう言われたら、これ以上どうしようもない。
リシャールの紅い眉が勝ち誇ったようにピクリと動いて見えたのは、私の気のせい?

「では殿下。参りましょう」

 お姉さまとリシャールのダンスが始まる。
二人のダンスは、物語にしか出てこない相思相愛のカップルのように美しかった。
愛し合う王子と姫が踊ったら、きっとこんな風に輝いて見えるのだろう。
会場にいる誰もが、二人のダンスに目を奪われていた。
お姉さまが彼に何かを話しかけ、それにリシャールが答える。
お姉さまの深いブラウンの瞳は、リシャールの紅い目をずっと捕らえて放さない。
彼はゆっくりとお姉さまをリードしながら、優雅に踊り続ける。

 私はそんな二人を見ながら、ずっと握っていた苦いオランジの皮の入ったチーズを飲み込んだ。
こんな風景は、マートンとので見慣れている。
見慣れているはずなのに、私は呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。
柔らかなチーズが、口の中でとろけてゆく。
それをゆっくり味わいながら、朝まで続くかと思えたダンスがようやく終わりを迎えた。
お姉さまとリシャールがお辞儀をし、こちらに向かって来ようとしている。
とっさに「逃げなきゃ」という思いがわき上がり、すぐにかき消した。

「ルディ。さっきのお話だけど……」

 エマお姉さまのすぐ後ろには、紅髪の彼が立っている。

「リシャール殿下」

 そんなリシャールに、一人の女性が声をかけた。
リンダだ。
彼女は艶やかな黒髪の一部を編み上げ、残りをゆったりと後ろに流していた。
ドレスアップした夜の闇のような美しい黒髪から、さっきまで研究室にいたらしい世界樹の葉を蒸した匂いがする。

「殿下。火事の時に助け出していただいた者です。おかげでたいした怪我もなく、今も実験を続けております」
「あぁ、それはよかった。あの小瓶は受け取ったかな」
「はい」

 リシャールは彼女をダンスに誘う。
リンダの手は迷うことなくそこに重なった。
優しく引き寄せた彼女の目に、紅い目はゆっくりと微笑む。
王子の洗練されたリードが、リンダの不慣れなダンスをさりげなくフォローしていた。

「ルディ。私に話があるのではなかったの?」
「あっ。はい。そうでした」

 お姉さまの言葉に、ハッと我に返る。
しまった。
リシャールにうっかりリンダを渡してしまった。
だけど彼女にはちゃんと、事前に注意しろと警告はしてあるから、きっと大丈夫。

「あのですね、お姉さま……」

 私は今回の復旧工事と、それに伴う改修工事の費用と経過について、お姉さまに報告した。

「それは、事務官にあった報告書と変わらないってことでいいのね」
「まぁ……。そうですね。……。そうですわ」

 リシャールの紅い前髪が、リンダの耳元に近寄る。
何かをささやかれた彼女の頬が、彼の紅い髪に負けないほど真っ赤に染まった。

「ルディ。あなたがリシャール殿下を目の敵にするのは分かるけど」

 二人に気を取られていた私に、お姉さまが釘をさす。

「彼は大切な国賓でもあるのだから、あまり失礼のないようにね」
「はい。心得ておきます」

 彼のことを気にしすぎている。
それは自分でも気づいていた。
うなだれた私の頬に、お姉さまは優しいキスをする。

「じゃあね。おやすみルディ。リシャール殿下によろしく」
「はい。おやすみなさい」

 お姉さまが会場を立ち去る。
リシャールはまだリンダと踊っていた。
彼とお姉さまの接触を避けるという意味では、ある意味成功だ。

 華やかな会場を振り返る。
複数のカップルがくるくると華麗に踊る輪の中に、リンダとリシャールはいた。
お姉さまとの会話は短くてすんだけど、彼女に彼を近づけてしまったのは、大丈夫だったのだろうか。
リンダは聖堂に通う乙女たちのなかでも、特に秀でた優秀な生徒だ。
もちろん聖女となる資質もある。

 リシャールがささやいたらしい冗談に、リンダが笑う。
彼女のそんな楽しそうに笑う姿に、彼は満ち足りたように微笑んだ。
どうせまた、くだらない冗談や思ってもいないお世辞を並べてるのだろう。
それに付き合わされるリンダも気の毒だ。
ステップはどこまでも軽やかに鮮やかに続く。
これ以上リンダや他の乙女たちに迷惑をかけないためにも、彼には早々に引き上げてもらわないと。
リシャールのさりげないリードで難なく踊り終えた二人は向かい合い、挨拶を交わした。
眩しいほど真っ白な衣装に身を包んだ彼に、こんなにも丁寧にエスコートされたら、リンダの方こそ本物のお姫さまのよう。

「ルディ。殿下とはもう踊ったの?」
「えぇ。もう結構だわ」
「あら。二人が踊ってるところを見たかったのに」
「そんなの見たって、つまらないわよ」

 だって。
私とのダンスは、義理とか義務とか、慣例みたいなものだから。

「エマさまとは、どのようなお話をしたのですか?」

 リシャールはすました顔で、貴公子の笑みを向ける。
私と踊っていた時は、あんなに乱暴な口ぶりをしていたのに。

「殿下。私ともう一曲いかがです?」

 彼に向かって手を差し出す。
女性からのダンスの誘いだ。

「ルディさま? 本気ですか。私ともう一度ダンスをお望みとは」

 気づけば自分から、手を差し出していた。

「あら。私の誘いを断るおつもり?」

 やっぱりリンダから離れたくないんだ。
彼女は大切な友人。
渡せない。

「私はこれからリンダ嬢の研究内容について、より深いご考察をうかがうつもりなので、出来ればご遠慮いただきたいのだが」
「それをさせないために、ダンスにお誘いしているのですわ」

 紅い目がリンダをまぶしそうに見下ろす。

「私はここで、歓迎されていないのかな」
「歓迎していればこそですわ。私と二度も踊れることを、名誉としてくださってかまいませんのよ」
「ルディさまは、ぜひもう一度私と踊りたいと」
「リシャール殿下と踊れるのなら、私にとってもこれほど誇らしいことはございませんわ」

 リシャールはまだ離れたくないのか、握ったリンダの手を離そうとしない。

「ほら。早くしてくださいませ。次の曲が始まってしまいますわ」

 彼の目の前で、ヒラヒラと手を振る。
はしたないし無礼な振る舞いだと分かっている。
だけど、こうせずにはいられない。
ムッとしたリシャールの横で、リンダは声をあげて笑った。

「あはは。殿下。私とはまた話す機会もあります。今夜はルディさまとのダンスを楽しんでください」
「あなたはそれでよろしいのですか?」
「もちろんです。お二人には、ぜひ仲良くなっていただきたいので」
「全く。困った方ですね」

 リシャールは渋々彼女の手を放すと、仕方なく私の手を取った。
そこに礼儀的にキスをする。

「リンダ嬢にそう言われては、仕方がありません」

 彼の手が腰に回り、重ねた手がグイと引かれた。
王子さまらしい機敏で無駄のないステップで、あっという間に広間の中央へ躍り出る。
にこやかに笑みをたたえた気品あふれる上品な顔のまま、彼は本心を吐き出した。

「お前、正気か。俺に気でもあるのか」
「あるわけないでしょ。他の女の子と踊られるくらいなら、私は恥も外聞も気にしないということですわ」
「チーズみたいに?」
「チーズみたいに!」
「そうか、分かった。お前のその根性だけは認めてやる」

 爽やかな笑顔のままそんなことを言い放つこの人は、やっぱり信用ならない。

「私が聖女でなくて残念でしたわね」
「あぁ、そうだな。それを知る前は、危うく無駄に口説いてしまっていた。身分といい聖女の資格といい、丁度よかったのにな」

 隣のカップルとぶつかりそうになって、ステップが乱れる。
彼は私が転ばないよう、体を支え華麗にそれを避けた。

「さっさと終わらせるぞ」

 大きなステップで一歩を踏み出す。
その力に引かれ、大胆に体が傾いた。
彼は私の体を支えながら、きらめく笑みを浮かべる。

「俺はここへ、仕事に来てるんだ」
「そんなもの、存じ上げておりますわ」
「ならいい。これ以上余計なマネをするな。さっきエマさまにも、釘をさされたばかりだ」

 腕の中で振り回されるように踊りながら、なんとか彼を見上げる。
真っ直ぐに前を向いた横顔は、もう愛想笑いを浮かべてはいなかった。
「余計なマネ」ってどういうこと? 
お姉さまと、どんな話をしたの? 
どんなに嫌がられても、彼を邪魔することは止められない。
卒の無いステップで、ダンスが終わる。
それ以上何も話さないまま、私たちは踊り終えてしまった。
お辞儀が終わると、彼はサッと立ち去る。
その後ろ姿を追いかける気には、もうなれなかった。

「殿下とのダンスはどうだった?」

 リンダが口いっぱいにジジルのパスタをほおばりながら、近づいてくる。

「どうだったもなにも、別に初めてじゃないですもの」
「楽しかった?」

 もぐもぐと咀嚼した後でゴクリとそれを飲み込むと、リンダは興味津々と尋ねてくる。

「楽しくなんかないわ。これは仕事よ。仕事であって、義務でもあるわ」

 振り返ると紅髪の彼は、今度は兵士たちに囲まれていた。
リラックスした様子で語らうその姿は、女の子たちと接している時とは全然違う。

「リンダこそ、もうあの方とはお話しにならなくてもよろしくて?」
「さぁ、どうなんだろ。殿下しだいじゃない?」

 リンダは今度はサンドイッチに手を伸ばすと、それを口いっぱいにほおばった。
どれだけ食べても太らない体質なのが、うらやましい。

「帰ろっかな」

 何だか少し、疲れてしまった。

「え。殿下の邪魔しなくていいの?」
「……。もう、邪魔はしないわ。彼も仕事だもの。それにさっき、余計なことをするなって叱られたばかりだわ」

 自分が彼の迷惑になっていることが、なぜだか申し訳ない。

「そんなことで、ルディがへこむ?」
「きっと疲れてるのよ。色々あったし。もうパーティーも終わりの時間だわ。早めに休むから、殿下に何か聞かれたら、よろしく言っておいてくださらない?」

 リンダは返事の代わりに、「うんうん」とうなずく。
今度は口に、ミートボールが詰め込まれていた。
賑やかに語らう殿下を残して、会場を後にする。
彼に嫌われてまで、彼の邪魔はしたくない。

 その日以来、リシャールはすっかり聖堂に入り浸るようになってしまっていた。
私が他の公務で顔を出せないときにも、聖堂で乙女たちと共に講義を受けたり、実験や礼拝の手伝いをしている。
もちろん愛想を振りまくことも忘れない。
彼はあっという間に乙女たちのアイドルと化していた。

「殿下。おはようございます!」
「今朝もお早いですね」

 専属の番兵たちにすら、気さくに話しかけられている始末だ。
声をかけられれば、誰にでもにこやかに手を振り返している。

「リンダの実験はとても興味深いね。君の論文を読ませてもらったが、その本人がまさかこんなにも可愛らしいお嬢さんだったとは思わなかったよ」

 当然彼の興味は、リンダにも向かっていた。

「ここにいる女性は、ルディ王女以外はみな聖女の資質があると聞いていたが?」

 彼は実験台の上に転がっていた世界樹の樹液の欠片を見つけると、リンダの手にのせる。
それは瞬時に色をなくし、まばゆい光りを放った。

「しかし、この欠片を明かりが消えた時のろうそく代わりにしている光景なんて、初めてみたよ。王城の聖堂ならではの風景だね」
「だって、安全な上に光りがなくなることもないのですもの。肌に触れていないと光らないのが厄介なだけで。ネックレスのようにしたり、はちまきの中に縫い込んだ先輩もいたと聞いてます」
「はちまき!」

 リシャールはさも可笑しそうに腹を抱え、くすくすと笑った。
もうそんな彼の姿にも、動揺したりなんかしない。

「なら私は、君のために樹液の欠片へ美しい装飾を施したネックレスにして、プレゼントすればいいのかな?」

 リンダは彼女の手がける実験が、ボヤ騒ぎ以来上手く行かないことに塞ぎがちだった。
火事を起こした原因は彼女のせいではなかったが、本番の試薬を使う予備実験の段階ですら、思うように結果が出ていないらしい。

「空気なのかな」
「実験室の空気?」

 私はリシャールと並んで座る、リンダの隣に腰を下ろした。

「乙女の祈りの言葉は、世界樹の成長に不要だってのは明らかにされているじゃない? 聖女の話す言葉が必要なのではなくて、ただ聖女と言われる女性が樹の近くに居さえすればいいのだから、なんらかの空気を媒介とする伝播性が、やっぱりあるんでしょうね。じゃないと瘴気の発生も、説明できません」
「ほう。ではリンダ嬢は、火事で聖堂の空気が変わり、その影響が実験にも出てしまっていると?」
「それは分かりません」

 彼女は深いため息をつくと、ふらりと立ち上がった。

「世界樹はいたる所に生えています。その環境は様々で、そこに聖女さえいればいいのだから、基本的に空気は関係ないはず。きっと私の実験が上手くいかないのは、私のせいなんです。だから火事のせいなんかにしちゃダメだって、分かってるんだけど……」

 リンダは新しくなったガラス窓にたたずむと、私たちに背を向けそこから動かなくなってしまった。
リシャールの紅い目と目が合う。
こういうときに、彼女にかける言葉が見つからない。

「どうだろうルディ。もう一度気分転換にパーティーを開くとか?」
「そんなことで、リンダの気が晴れるとでも思っていらっしゃるの?」
「俺に分かるわけないだろう。君の方が付き合いが長いのだから、君が考えろ」

 私は目の前にある複雑にくみ上げられた実験装置を見上げた。
その横には分厚い書物から書き写した、操作手順のメモがおかれている。

「ねぇ、この実験の解説書を書いている人に、直接聞きに行ってみるというのはどうかしら」
「え? そんなこと頼めるの?」

 ここ数日、ずっと塞ぎがちだったリンダが、目を輝かせた。

「あら。私を誰だと思っているの?」
「本当なの、ルディ! この本を書いたのは、ブリーシュア王都の外れにある、ボスマン研究所の所長なのよ。彼は世界樹研究の第一人者で、そう簡単に……」
「ボスマン研究所か!」

 リシャールがリンダ以上にキラキラと目を輝かせ、勢いよく立ち上がった。

「行こう! ぜひ行こう! ボスマン研究所には、私も行ってみたかったんだ!」
「行きたい行きたい! ルディ、本当にそんなこと出来るの!」

 子供のように無邪気にはしゃぐ黒い目と紅い目に見つめられ、私としても口にしてしまった以上、プライドがあった。

「な、何とか掛け合ってみますわね。あそこの所長は変わり者で有名らしいから、あまり期待はしないでね」
「私も依頼状を書くから! 博士にぜひ聞きたいことがあるって、嘆願書書く!」

 リンダは早速紙とペンを取り出すと、一心不乱に手紙を書き始めた。

「そうだ! 私の名前もルディ王女の横にサインして入れよう。ブリーシュアの第三王女と、レランドの第一王子の連名とあれば、いくらボスマン研究所の所長といえど断れないだろう。早速書簡を用意させ、そこに連名でサインを入れてはどうか?」

 ペンを握りしめていたリンダが、ここぞとばかりに振り返る。

「それはよいお考えです殿下! ルディ、ぜひそうして! 何がなんでも、ボスマン博士と会うんだからね!」

 カッと見開いたリンダの目は、確実に殺気立っていた。

「わ、分かりました。正式な書簡を用意してきますわ」
「私も行こう」

 その用意のために聖堂を出た私を、紅髪の王子は追いかけてきた。
彼は一心不乱に独り言をぶつぶつと呟いている。

「そうか。ブリーシュアほどの強国となると、そんなところにも繋がりが……。いや、しかしボスマン研究所へ行くとなると、手土産が必要だな。何がいいだろう。今から慌てて取り寄せて、間に合うだろうか。そりゃ後で送ると約束はいくらでも出来るが、やはり一部でも面会時に持参した方が……。目録だけ? う~ん。ありきたりなものじゃ満足しないだろうしなぁ……」

 王城の回廊を二人きりで並んで歩いている。
何だかお腹の奥がくすぐったい。

「殿下は……。聖堂の乙女たちを口説き落とさなくてよろしいの? ボスマン研究所へ行く時間を作るのなら、乙女をスカウトする機会が減ってしまいますわよ」
「スカウトも大事だが、ボスマン研究所の方がもっと重要で貴重だろう。そんなの当たり前じゃないか。なんだお前、俺を置いていこうとしているのか? なぜだ。なぜそんなことをする」

 聖女が自分の周りにいないとなると、とたんにこの態度だ。

「研究所は聖堂ではありませんのよ。聖女もいるかもしれませんが、出会う確率はほぼほぼないのでは?」
「そんな理由で俺を置いていくつもりか。なんだ貴様。俺は聖女のためだけにここにいると思ってんのか」

 その紅い目にたっぷりの不平不満を抱え、私をにらみつける。

「もちろん聖女は連れ帰る。だが、それだけじゃないだろう。そもそもボスマン博士に直接会えるのなら、聖女一人を連れ帰る以上の価値があるじゃないか。もし俺を置いて隠れてこっそり行くようなことを計画しても無駄だぞ。絶対に追いかけるからな。なんなら先回りしてやる。そうだそれだ。うん。そうしよう。そうと決まれば、早速出発の準備を……」

 王城の周囲を囲む回廊から城内に入る。
廊下の奥で偶然にもエマお姉さまとマートンに鉢会った。

「あら、お姉さま。丁度よいところでお会いできましたわ」

 真っ白な聖女としての衣装を着たお姉さまのスカートの裾が、サラリと翻る。
寄り添うマートンは、一歩後ろに控えた。
久しぶりに会う彼の緑の目が、なんだか懐かしく感じる。
彼は私がリシャールといるのを見て、心なしか微笑んだ。

「あの、お姉さまに至急お願いしたいことがございまして……」

 リンダとのことを話そうとしたとたん、リシャールはお姉さまの前にひざまずいた。

「エマさま。お願いがございます。私の話を、どうかお聞きいただけないでしょうか」

 突然の王子さまモードだ! 
その豹変ぶりに驚く私を横目にしながら、お姉さまはリシャールをのぞき込む。

「一体何事でしょう。どうか話してください」

 リシャールは立ち上がると、自然な流れでなんの迷いも疑いもなくお姉さまの手を取る。

「聖堂の火災以来、リンダが酷く落ち込んでいます。彼女を勇気づけるには、彼女の研究をよく知るボスマン博士以外おりません」

 紅い目はついさっきまでの、私への批難じみた視線から打って変わって、深い思慮をたたえた潤んだ瞳へと変化した。

「どうかリンダに、ボスマン研究所へ向かうことをお許しください」
「そうなの? ルディ」
「ま、まぁ……。そういうことですわ。お姉さま」
「分かりました。もちろん許可します。そしてリンダには、護衛をつけさせましょう。マートン。人選と配置をお願いできるかしら」
「はい。それではリンダの……」
「いえ。そのご心配には及びません」

 リシャールは、エマお姉さまとマートンの間に割って入った。

「私は彼女の支えとなりたいのです。どうかリンダと共に、私もボスマン研究所へ向かうことをお許しください。長い道のり、道中の危険と不安を取り除いてやりたいのです。彼女の身を案ずるのは、私の役目にございます」
「なっ! あなたもリンダと行くつもりなの? リシャールがリンダと行くというのなら、私も共に参りますわ。お姉さま!」
「ルディまで、殿下とリンダについていくの?」

 エマお姉さまは、マートンと顔を見合わせた。

「なら僕がお供しましょう。ルディとリシャール殿下の護衛につくには、相応しい人物が必要だ」
「それには及びませんわ! だって、だって……」

 婚約発表を延期させられたマートンに、これ以上迷惑はかけられない。
それに、マートンと一緒に小旅行だなんて、リシャールのことも見張ってないといけないのに、絶対集中出来ない。
マートンには、自分が変に焦っているところだけは見られたくない。
彼にだけは、自分のみっともないところや恥ずかしいところを、知られたくない。

 マートンの深い緑の目が見つめてくる。
ついその視線から顔をそらしてしまった私に、リシャールが進み出た。

「エマさま。あまり大がかりな人数で出掛けても、博士を刺激してしまうかもしれません。私とその従者、ルディさまのお付きの者と、少人数で出発した方が無難かと」
「ですがそれでは、リシャールさま方の負担が大きくなってしまいますわ」
「ふふ。慣れていますよ。お忍びであちこち出かけるのは、私の得意とするところです」

 彼はキラキラとした、やんちゃ王子の笑みを浮かべる。
紅髪の彼はお姉さまに向かって、リンとした表情で言い放った。

「ルディさまは、お忙しいでしょう? ですから今回のリンダの護衛は、私が務めます。その方があまり大げさにならず、いいかもしれません」
「いいえ! そんなことをさせるわけにはいきません。絶対に私も参りますわ!」
「おや。ルディさまには、他にも守るべき聖堂のお役目があるのでは?」

 すました顔してそんな殊勝な態度で、お姉さまに媚びを売ろうたって、そうはいかないんだから。
絶対にリンダと二人きりになんてさせるものですか。
そんなの危険過ぎる。
この人の魂胆なんて、私には全部お見通しよ!

 そのリシャールが、不意に頭を傾けた。

「あぁ。ですが、マートン卿でなくては、ルディさまの護衛は務まりませんかね? それなら私は、ご遠慮いたしましょう」
「殿下。マートン以外にも、ルディの護衛役は務まりますわ」
「そうですか。ならよかった。でしたら私が、お二人をお守りしましょう。エマさま、それでどうかお許しください」

 しまった。
結局彼も、リンダに付いて行くことになってしまった。
まんまと彼の思い通りにコトが運んでしまっている。
本心では上手く行ったとニヤニヤしているくせに、キリッと引き締まった真剣な表情で、律儀に胸に手を当てた。
エマお姉さまも、さすがに今回ばかりは譲るようだ。

「分かりました。リシャール殿下がそれほどおっしゃるのなら、許可しましょう。ルディ、くれぐれも殿下に、ご迷惑をかけないようにね」
「そんなこと、十分分かりきっておりますわ、お姉さま」
「ルディ。本当に僕なしで、大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫ですわよ!」

 だってもう、どれだけ望んでも、この人はお姉さまのもので、私のじゃない。

「いつまでも、子供扱いされるのも困ります。私、もう気持ちだけはとっくに独り立ちしておりますのよ。聖堂の仕事だって、ちゃんとやっているつもりだし。お姉さまやマートンの手を、いつまでも煩わすつもりはございませんから」

 扇を広げ、上から目線でフンと鼻息を鳴らしてみせる。

「私も、一人でお忍び旅行くらいできます。リンダも一緒ですもの、ご心配にはおよびませんわ」

 『リンダも一緒だから大丈夫』って、まるでリンダが私のお守り役のよう。
まぁ、今までもずっとそうなんだけど……。

「……。そうね。リンダも一緒なら、大丈夫かもね」

 それでもお姉さまは、心配そうにマートンを見上げた。
彼はにっこりと優しい笑みを浮かべると、その大きな手で私の頭を撫でる。

「ちょ、マートン! そういうのは、もうやめてください」
「そうなのか? ルディ」
「当たり前です」

 彼にはもう子供扱いされたくないし、そんなところをリシャールにも見られたくない。

「そうか。今度から気をつけるよ」

 マートンはほんのわずかに、寂しそうな笑みを浮かべた。

「困ったことがあったら、いつでも相談しにくるんだぞ」
「はい。もちろんそうするわ」

 そんな彼に、何だか少し緊張するような強ばった気分になって、自分が自分に困っている。
私が二人に背を向けようとした時、リシャールは完璧な貴公子の仕草で丁寧に頭を下げた。

「では、ボスマン研究所まで無事二人を連れ戻って参ります」
「よろしくお願いしますね。リシャール殿下」

 よく考えたら、この人にそんな手間をかけさせる必要なんて、全くなかった気がする。
お姉さまの言う通りだ。
どうしてこんな……。
二人の姿が見えなくなってから、リシャールはからかうように上からのぞきこんだ。

「君は、マートン卿のようなタイプが好みだったのか」
「何がですの?」
「いや。だったら君も、失恋中というわけか」

 あははと笑う紅い髪に、どうしてかイライラさせられる。

「私は失恋なんてしておりません。エマお姉さまに無茶なプロポーズをしたのは、あなたでしょう」
「そういえば、まだ彼女から返事をもらってなかったな」

 バカじゃないの。
そんなもの、聞かなくたって分かりきってる。
彼はまるで私を慰めるかのように、鼻で笑った。

「いいじゃないか。あんな真面目で固そうな男は、君には似合わないよ」
「あなたは一体、人のどこをどう見てそんなことをおっしゃっているのかしら」

 彼はそれには答えず、目だけで笑っていた。

「とにかく、そうと決まれば善は急げだ。ルディ、明日中に書簡をボスマン研究所へ送り、そのまま乗り込むぞ」

 意気揚々と歩く彼のステップに合わせ、紅い髪がふわふわと軽やかに揺れる。
彼はキョロキョロと周囲を見渡したかと思うと、ひょいと窓から外へ飛び降りた。

「ちょ、リシャールさま?」

 迷路のように入り組んだ通路や建物を全て乗り越え、屋根伝いに一直線に滞在している部屋へ戻っていく。
最後の壁を乗り越えると、ふわりとその向こう側へ紅い髪が消えた。

「本当に、なんなのあの人……」

 自由すぎる姿に驚く胸を抑えながら、私も彼との出発に備え自室へと急いだ。





第4章


 翌日の早朝、朝一番に仕上がった書簡に、エマお姉さまと私、リシャールの三人が直筆のサインを入れる。
それを伝令に持たせ、先にボスマン研究所へ向けて出発させた。
突然のお忍び旅行だ。
王都郊外にある研究所には、午前中にでも馬車で出発できれば、日の暮れる前には到着出来るだろう。
それまでには、宿の手配も何とかなる。
馬車一台と付き人も最小限に抑え、予定通り太陽が真上に昇りきる頃には、出発の準備が整っていた。

「では、行って参りますわ」
「気をつけて」

 忙しいお姉さまに変わり、見送りに来てくれたのはマートンだった。

「リシャール殿下。ルディさまとリンダをよろしくお願いします」
「あぁ、ご安心を。卿の代わりとまではいかなくても、無事に二人を送り届けて参りますよ」

 にっこりと微笑むその姿は、完全に王子の笑顔だ。
非の打ち所のないその仕草には、誰も文句の付けようがないだろう。

「マートン。お姉さまをよろしくね」
「はは。エマも君のことを心配していたよ」

 彼の深い緑の目に見つめられ、ドクンと心臓が高鳴る。
子供のように抱きしめられるかと思った腕は、私をエスコートするために差し出された。

「聖堂のこれからの未来にとっても、大きな仕事になるかもな。大丈夫。ルディならやれるさ」
「ありがとう。頑張ってきます」
「あの小さかったルディが、嘘みたいだな」

 恥ずかしさに顔を赤くしながらも、彼に支えられ馬車に乗り込む。
続けて自分から乗り込もうとしたリンダの手を、リシャールが取った。

「リンダ。こういう時は男が手を差し出すのを、待っているものだ」

 リシャールの腕が彼女を抱き上げる。
そのまま馬車へと乗り込んだ彼は、私の向かいの座席まで運んだリンダを、ふわりとそこへ下ろした。
慣れないリンダは、珍しくそれに緊張してしまっている。
彼もそのまま、リンダの隣に腰を下ろした。

「では、行ってくる」

 リシャールが窓からマートンに手を降ると、彼は深々と頭を下げた。
馬車が動き出す。
私も手を振ったのに、マートンはそれにニコッと笑顔で応じるだけで、手を振り返してはくれなかった。
私を大人として扱ってくれた。
だけど遠ざかってゆく彼の姿が、たまらなく寂しい。

「ふむ。マートン卿のお見送りとは。実に残念だ」

 いつまでも窓の外を眺めていた私に、リシャールが呟いた。

「どうせなら、エマさまの方がよかった」
「本気でまだ諦めておりませんの?」

 リンダと私は、今回は聖女見習いの生徒として、聖堂の制服を着ていた。
リシャールもいつもの派手な白い正装ではなく、落ち着いた普通の貴族らしい服装をしている。

「諦めるわけなどないでしょう。彼女は私にとって、永遠の憧れですよ。聖女としても女性としてもね」

 私だけでなくリンダもいるせいか、若干崩れてはいるものの、貴公子としての最低限の言動は維持しているようだ。
私といる時だけの乱暴な素振りは、リンダには見せるつもりはないらしい。

「ルディからお聞きしましたけど、殿下は聖女がお好みなのですか? あまり聞いたことのないご趣味ですよね」

 そう尋ねたリンダに、彼はにっこりと全開の笑顔で答えた。

「好きになった人が、たまたまそうだっただけですよ」

 ニコニコと上機嫌なまま、リンダを見つめる。

「あなたもそうですよ。リンダ。聡明なだけでなく、このように美しい黒髪を持った女性に、初めて出会いました」

 彼女の隣に座る彼の手が、細く長い黒髪を指ですくう。

「この髪に触れることが許される男は、私の他に誰かおりますか?」
「わたくしでございますわよ、リシャール殿下!」

 こんなのがこれからしばらく続くのかと思うと、それだけで腹が立つ! 
私はリンダとリシャールの間に割り込むと、彼女の髪を掴む彼の手を振り払った。

「お邪魔しますわね、リシャールさま。お気になさらず!」
「君は男ではないだろう! リンダに思う相手がいるのかどうかということを聞いているんだ!」
「知りませんわよ、そんなこと!」
「はーい。私、好きな人いませーん!」

 さすがに三人が同じ座席に並んで座ると、かなりぎゅうぎゅうの押し合いへし合いになってしまっている。

「ルディ! これではいくらなんでも狭いじゃないか。ほら、リンダ嬢もお困りだ」
「一番困ってるのは、殿下のことですわ」
「なぜ困る?」
「まぁ、聖堂に残ると言われても、こちらも困りましたけど? そうしたら本当に、リンダだけが一人で来ることになったのかしら」
「それはムリよ。ルディが来なければ、話にならないから。私だけだったら、博士は絶対相手なんかしてくれない」
「そんなことないわよ。リンダの実績があれば、博士も話しくらい聞いてくれるはずだわ」

 リシャールを城内に残したまま、ボスマン研究所に行かなければならなかった場合を考えると、ゾッと背筋に悪寒が走った。

「ほら。やっぱり私が君たちに同行してよかったじゃないか」

 彼は腰を浮かせると、ストンと向かいの席に移動した。

「こうやって、素敵な女性二人のお供役を務めるのは、私にとっても心躍る旅ですよ」

 切れ長の紅い目で足を組むと、サラリとそんなことを言ってのける。
この人のセリフはどこまでが本気でどこからが冗談なのか、本当に分からない。

「リンダは、ボスマン博士になんと手紙をかいたのかい?」
「私がこれまでに発表した論文の内容と、いま実験していることに関する問題点についてです」
「博士がその第一人者なんだね。世界樹の成長に欠かせない栄養素だっけ?」
「そうです。世界樹には、他の植物にはない大きな特徴があります。聖女と呼ばれる乙女の存在です。特殊な性質を持つ女性が側にいなければ、樹は育ちません。ですが、その成長のために樹に仕えた女性たちの平均寿命は、聖女としての資質を持ちながら樹に仕えなかった女性と比べ、極端に短くなっています。いくら瘴気を払い人の住める土地を保つためとはいえ、誰かの命を犠牲にすることは、間違っていると思うのです」

 聖女としての資質は、生まれ落ちた瞬間から定まっている。
リンダは孤児だった。
聖女として生まれた彼女は、城外にある、とある聖堂の前に捨てられていた。
国は樹に命を捧げる誓いを立てたその資質を持つ女性に対し、『聖女』という称号を与え特別な保護を行っている。
それはどんな条件の女性であっても、『聖女』であれば全て受け入れられた。

「聖女という存在がなくても、樹が育つ条件を探っている。君の研究内容は、そういうことだったよね」
「そうです。私は自分の命をかけて、その研究に励んでいるのです」

 馬車はコトコトと、王都の石畳の道を進む。
車窓にはブリーシュアの街並みが流れていた。

「リンダが火事の時、どうしても手放そうとしなかった茶色の小瓶のことを、殿下は覚えておいでですの?」
「あぁ、覚えているよ。ルディ。あれは君からリンダに返してくれと、頼んでおいたはずだが」
「あれは、リンダが調合した、世界樹専用の肥料ですの」
「肥料?」
「その肥料が完成すれば、聖女なしでも世界樹が育つかもしれませんわ」

 リシャールの真剣な目の動きが、リンダの上に止まった。

「その研究は、どこまで進んでいる?」
「まだなんとも言えません」

 彼女の研究内容とよく似たものは世界中で行われているが、成功したと言えるものはまだ何もない。
彼女の実験も、まだまだ発展途上だった。

「生成したものを、世界樹の若木に与えてはいるのですが、何しろ樹の成長には時間がかかります。一年や二年で成果の分かるものではありません。何十年とかけてその成長をみなければ、世界樹が瘴気を退けるアロマを放つまで、本当に完成させたのかどうかが分からないのです」
「なるほどね。気の長い話しだ」

 リシャールはそう言うと、外を眺めたまま黙ってしまった。
リンダもじっと何かを考え込んでいる。
ボスマン研究所まで、まだたっぷりと時間はあった。
私は軽やかに進む馬車に揺られながら、いつの間にか眠りについていた。
コトコトと回る車輪の小気味よい音を聞きながら、どれくらい眠っていたのだろう。
ふと聞こえてきた二人の声に、目を覚ます。

「それで君は、世界樹研究の道に?」
「そうなんです。私が聖女でなかったら、生きてはいなかったでしょう。そのことには、すごく感謝しているのです。だけど、もう誰にも、あんな悲しい思いはさせたくないのです」
「それは、私にも言えることだ」
「そうなのですか?」
「もしかしたら、私と君は似ているのかもしれないね」

 横になっていた体を、むくりと持ち上げる。

「あ、起きた」

 いつの間にかリシャールの隣にリンダがいて、私は一人横になっていた。

「ルディさまの寝顔を拝見できるとは、私も幸せものです」
「あら、ルディはいつだって机の上で寝てますよ。それくらい、いくらでも見られると思いますけど」
「おや。君も机で寝たりするのかい? リンダ」
「まぁ、そういうことも多々ありますね」

 二人は顔を見合わせると、ふふふと笑った。
私が寝ていた間の数時間で、すっかり仲良くなったようだ。
私は居心地の悪いまま、乱れたアプリコット色の巻き髪を手ぐしで整える。

「あ、ちょうど到着したみたいよ」

 馬車は石畳の街を離れ、草原の小道を進んでいた。
小高い丘の上に、様々な植物に囲まれた大きな館が見える。
その正門前に馬車が止まると、リンダは自らドアを開け飛び降りて行ってしまった。
私も降りようと腰を浮かせる。

「ちょっと待った」

 突然伸びてきたリシャールの手が、私の口元を拭う。紅い目がキラリと光った。

「よだれがついてる」

 彼は気取ったような調子でそう言うと、先に馬車を降り大げさなほど両手を広げた。

「さぁ、ルディさま。お降りください」

 よだれだなんて、そんなもの見せた覚えはないのに。
彼に触れられた口元をもう一度自分で拭う。
馬車の下で差し出された手に、渋々手を重ねた。
その瞬間、彼はパッと私を抱きかかえると、くるりと一回転する。

「きゃぁ!」
「あぁ、ルディさま。危ない! 危うく落ちるところでしたね。まだ寝ぼけていらっしゃるのですか」

 ワザとだ! 
奥歯をかみしめ悔しがる私に、彼はこっそりと耳元でささやく。

「これで目が覚めたか」
「こんなことされなくても、とっくに目は覚めております」
「そうか? 寝起きが不機嫌そうに見えたのだが」

 彼はニヤリとからかうような笑みを浮かべた。

「これからリンダの交渉に入るんだ。王女さまが寝ぼけたままだと、話にならんだろ」
「なっ! そんなことは……」

 反論しようとしたとたん、赤レンガを積み上げた大きな館の門が開いた。
慌てて駆け下り、整列させられたかのような所員たちが通路の両脇に出迎える。

「よ、ようこそいらっしゃいました。ボスマン研究所へ」

 ズラリと並んでいるのは、若い研究員ばかりだ。
歓迎ムードとは程遠い彼らの視線を浴びながら、案内に従い廊下を進む。

「お二人は、ボスマン博士にお会いしたことは?」
「私はありませんの」
「何度か学会で。顔を見たことはあるけど、話したことはありません」

 貴族の館を譲り受け改築したという研究所は、古さは目立つもののしっかりとした作りをしていた。
天井は背の高く、壁や窓にも簡単ではあるが植物の彫刻が施されている。
深い緑色の絨毯の上を所員に案内され、応接室のような所に通された。

 ソファとテーブルが用意された小さな部屋には、明らかに商人と思われる男性数人が座っていた。
彼らは私たちの姿を見たとたん、慌てて立ち上がる。

「いえ。そのままでよろしいのよ」
「そういうわけには参りませんよ。お嬢さん」

 聖女見習いの制服を着ているせいか、彼らは私を王女と気づいていないらしい。
リシャールの前でひざまずくと、丁寧に頭を下げた。

「ブリーシュアの第一王女であり聖女であるエマさまの名代として、こちらにお越しになるとお聞きしておりました。レランドの第一王子、リシャール殿下でございますね」
「あぁ、いかにも」

 私はリンダと共に、リシャールの後ろに一歩引き下がる。

「控えておりました他の商人たちは皆リシャールさまがお越しになると聞き、ここで待機しているのをお譲りしたようにございます。ですが私どもは、遙かミルトランドの地から参ったのでございます。本日のボスマン博士との面会まで、二ヶ月待たされました。今日この機会を失うと、我々は次にいつ会えるのか分かりません。どうか私どもが殿下より先に面会することをお許しいただきたく……」

 リシャールはチラリと私を盗み見た。
「うん」と小さくうなずくと、彼はにっこりと笑みを浮かべる。

「もちろん構わないよ。突然押しかけて邪魔をしたのは、私たちだからね。ゆっくりと必要なだけ博士と面談すればいい」
「ありがとうございます!」

 ノックが聞こえ、面会希望者が呼ばれる。
彼らは逃げるように、続き部屋の扉へ吸い込まれて行った。

「ルディ。君が聖堂の制服なんかで来るから、誤解されてるじゃないか。そのままでいいのかい?」
「これが私の、本来の正装ですわ」

 私は灰色のスカートの裾を持ち上げると、わずかに膝を折り曲げてみせる。
誰になんと言われようと、この制服を着ている限り、私は聖女だ。

「なるほど。君がそう言うのなら、承知した」

 リシャールはソファの上にドカリと座ると、サラサラとした紅い目で見つめる。

「ま、言動にクセの強い方々のお相手は、我々は多少は慣れていますからね。あなたもそうでしょう? ルディ」
「そうですわね」

 科学者とはあまり接することはないといえ、大臣や貴族のタチの悪さは特別だ。
難くせ着けていくらでもゴネて来る連中の相手が務まらないことには、王族なんてやってられない。

 どれだけ待たされるかと思っていたのに、意外にもすぐにドアはノックされる。

「次でお待ちの方、どうぞ」
「私が行こう。二人はついてきて」

 リシャールは立ち上がると、開かれた扉へ向かって歩き出す。
私とリンダは顔を見合わせ、互いの意志を確認し合うように「うん」とうなずいた。
彼女のためにも、この世界で苦しむ全ての人たちのためにも、リンダの研究は後押ししたい。
聖女見習いのグレイのワンピースの裾をくるりと翻すと、ボスマン博士の待つ部屋へと足を運んだ。




第5章


 通されたのは、博士の個人的な書斎のような部屋だった。
本棚には雑多に様々な書物が積み上げられ、所々に何かの模型のようなものがおかれている。
大きな机の横には世界樹の若木が一本、鉢に植えておかれていて、そこには暮れかけた西日がたっぷりと注がれていた。

「リシャール殿下……と、お呼びしてよろしいのかな」

 肩までの白い髪が、くるくると渦を巻いている。
やや小太りした初老の男性が席を立つと、私たちにソファを勧めた。
リシャールが端っこに座るものだから、私が真ん中に座り、リンダは空いた隅にちょこんと腰を下ろす。

「レランド王国の第一王子が、ブリーシュアの聖女見習いを二人連れての面会ですか」
「エマさまの名代として使わされました」

 リシャールは悠然とした王子の笑みを浮かべる。
向かいに座ったボスマン博士の視線が、私に向いた。

「ルディさまもいらっしゃるというのに、そのような格好をしているとは人の悪い。第三王女さまのお顔くらい、自分も存じ上げておりますよ」
「これは失礼いたしました。名乗り遅れましたが、ルディと申します」

 特に隠そうというつもりもなかったが、あっさりバレた。
私は背筋を真っ直ぐに伸ばし、博士の青灰色の瞳を見つめる。

「博士にぜひ、ここにいるリンダの実験について、ご協力をお願いしたいのです」
「いいですよ」

 博士は意外にも、あっさりそれを引き受けた。

「君がリンダだね。手紙は受け取った。論文も拝読させてもらったよ。うちの研究室で、助手に手順をみてもらえばいい」
「あ、あの! 私がいま行っている実験なのですが、ご相談したいことがありまして!」

 リンダは彼女なりの勇気を振り絞りながらも、キラキラと目を輝かせていた。
せっかくのこんなチャンス、逃すわけにはいかない。

「ふむ。なんでしょう。私にお答え出来ることかな」
「博士の書かれた本にある、抽出方なのですが、それがとっても難しくて、何かコツのようなものがあればおし……」
「あぁ。手紙にもあったね。あれは教科書レベルの実験ですよ。あの程度で苦労しているようなら、君は実験には向いてない」
「オイル浴の温度調整が……」
「得意な助手に任せよう。君が読んだ本の内容なら、ここにいる人間は誰でも出来るからね」
「……。わ、私の今考えている、世界樹の生育に必要だと思われる微量必須元素なのですが……」
「あぁ。手紙に添えられていた仕事のことか。残念だがそれにはもう、答えが出ている」
「えっ!」

 驚いた顔をしたリンダに、博士は表面上は平静を装いながらも、退屈そうに答えた。

「よかったら、読んでいきたまえ。うちの資料室に、文献が入っていますよ。まぁ、市井の研究家には、なかなか難しいかもしれませんがね」
「わ、私は……。聖堂にある関連の資料や文献は全て読みました。それでもなお自分で疑問に感じた点を……」
「文献の検索の仕方は分かるかな。君は王城の聖堂内では秀でているようだが、研究者としては使い物にならない。申し訳ないが、私は君のような連中は飽きるほど見ている」

 博士はソファに深く背を預けると、くたびれ果てたように両腕を組み、難しい顔を見せた。

「最新の研究成果を広く共有する手段の確立や、研究者を育てる研究者の不足に関しては、我々も申し訳なく思っている。それでも君はここまでたどり着いた。歓迎しよう。君のやりたい実験方法があるなら、学んで行けばいい。だがそのことで、今ここにいる研究者たちの実験を止めるわけにはいかないんですよ。瘴気の発生とそこから生まれる魔物たちは、待ってはくれない。この瞬間にも聖なる乙女が犠牲となっているのを、一刻も早く防ぎたいんでね」

 博士の目が、リンダの灰色の制服を見つめた。

「君は聖女になるのか?」
「そのつもりでいます」
「そうか。私は君のような役目を担う人間が、この世からいなくなることを望んでいるよ」

 彼の言葉には、その感情が骨身にまで染み込んでいる者しか発することのない重みがあった。

「さて、用件はこれで以上かな。では次の面会者と交代しよう」

「お待ちください、博士」

 退席するよう促される前に、リシャールが口を開いた。

「我がレランド王国の代表として、お願いがございます」
「分かりました。お引き受けします」

 博士は全くの興味なさげに、即答した。

「第一王子にわざわざご足労いただいて、断れる庶民がおりましょうか。お引き受けしますよ。条件や費用については、別途お知らせします。では、ご退室を」
「これからの博士のご予定は?」

 リシャールは紅い目に、柔らかく笑みを浮かべた。

「次の面会者と会う予定です」
「控えの間に、他に客人はおりませんでしたよ。みな退室したので。確認してみますか?」

 博士はとぼけたように手の平を上にすると、肩をすくめた。
リシャールの言葉に納得は出来ないが、理解はしたようだ。

「全く。王侯貴族のご訪問となると、みなこれだ。私は仕事が早く済んで助かるのだがね」
「かつてレランドから送った使者からの、返事をまだいただいていない」

 紅髪の殿下は、極めて穏やかな表情を浮かべている。

「申し訳ないが、博士のやり口はこちらも知っている。はいはいと安請け合いしておいて、返事はなしだ。高額の報酬を提示しても、全く見向きもしない」
「レランドからの依頼は知っていますよ。だが、何しろお偉方を満足させるほどの成果をあげるには、時間がかかるのでね。それを待てないというのなら、お引き取り願うしかない」
「時間がかかるのは分かっている」
「では報告出来る成果の上がるまで、お待ちください」
「それで失敗したと言われても、受け入れろと?」
「研究とはそういうものです。政治とは違う。恫喝や誤魔化しで命令に従う素振りは出来ても、そこで上がった成果にはなんの意味もないばかりか、未来への害悪でしかない。政府から出される補助金が目当てになった学者ほど、悲しいものはないですよ」

 博士は大きな体をソファから持ち上げた。

「さて、実験の反応をさせなければならない時間が来てしまったので、これにて失礼します」

 私たちが入って来たのとは、違う扉から出て行く。
きっとその向こうが、彼の実験室なのだろう。

「反応の時間とは?」

 リシャールがリンダに尋ねた。

「きっと、何かの実験中だったのだと思います。化学反応は、瞬間的に起こるものもありますが、ゆっくり時間をかけて起こすものもあります。その反応待ちを空き時間として利用して、面会時間を作っているのかと」
「邪魔するわけにはいかないっていうことなのね」

 応接室側の扉がノックされ、ガチャリと開いた。
一人の研究員が顔を見せる。

「ニックです。ボスマン研究所で実験助手をしています。リンダさん……は、どちらでしょうか?」
「私です」

 同じ聖女見習いのグレイの制服を着ている私たちを見比べる彼に、リンダが手を挙げた。

「あ、こちらでお話を伺いますので、どうぞ」

 博士は口は悪くとも、リンダを歓迎すると言った言葉に偽りはないようだ。
彼女は厳しい表情を一瞬浮かべたものの、すぐにそれを引き締め力強くうなずく。

「私たちも、見学させていただいてよろしいかしら?」

 私は焦げ茶色の髪をした青年に声をかけた。

「リシャール殿下とルディ王女さまですよね。どうぞ」

 博士の私室を出て、研究室に案内される。
聖堂のものとは比較にならないほど広かった。
見たこともない装置や器具が所狭しと置かれ、植物に限らず動物や鉱石の標本まで並んでいる。
数多くの研究者たちが単独で複数で、何らかの作業を続けていた。

「立派な研究所ね」

 思わす漏れた声に、ニックは笑った。

「はは。初めてここに来た皆さんは、全員そう仰います。ルディさまも実験を?」
「いえ。私はしませんの」
「あぁ、そうだったのですね。分かりました。じゃあリンダさん。こちらへお願いします」

 彼の手には、今朝一番にリンダが書いて送った書簡が握られていた。
ニックはリンダに椅子を勧めると、実験の手順や方法について聞き取りを始める。
彼女は熱心に語りはじめたが、私とリシャールには分からない話だ。
リシャールは実験室の中を見渡す。

「この中を見学しても?」
「えぇ、どうぞ」

 広い研究室を眺めていた彼は、突然何かを見つけたかのように歩みを早めた。
私はリシャールの後を追いかける。
彼は自分の髪とよく似た、淡い赤茶色の髪の男性の元へ進んだ。

「リシャール殿下!」
「君がレランド出身の研究員か」
「はい! マセルと申します」

 リシャールよりは随分淡い赤茶色の髪だが、サラサラと真っ直ぐに流れる髪質は変わらない。

「聞いてはいたんだ。我が国からこの研究所に入った研究員がいると」
「はは。過去にはレランドの者で所属していたのは僕だけじゃないですけどね。今現在では……。そうかもしれません」

 彼は少し申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
色白で華奢なところはリシャールと変わらない。
そんなマセルに与えられていた実験スペースは、他の所員に与えられている広さの半分ほどだった。
実験器具もないわけではないが、他の所員たちほど種類も数も多くない。
本当に間借りしているだけのような雰囲気だ。

 リシャールは棚にあった土の標本を手に取る。
赤茶けた砂のようにサラサラとした乾いた土には、『ゲイン』と名付けられていた。
レランド王国の一地方の名だ。
他の瓶にも、様々な地名の書かれた土の標本が並んでいる。

「君は、レランドの土壌を調べているのか」
「はい。レランドは世界樹の育ちにくい土地です。育ちやすい土地との土壌の違いについて調べています」
「成果は?」

 そう聞いたリシャールに、彼は困ったように肩をすくめた。

「まだなんとも。レランド全土を調べても、余り意味はないので……」
「そうか」

 彼はリシャールに、これまでの研究報告を始めた。
様々な土地の地質やそこに含まれる成分を調べてはいるが、どれも決定的な違いはないという。

「やはり、聖女が必要ということか」
「現状では、そうとしか言えません。我が国の聖女の平均寿命が、他国と比較し群を抜いて短いのも、おそらく生育環境が原因かと」
「そこの比較はないのか」
「聖女に関する研究は、各国の規制が厳しく、しかも協力者も乏しくて……」

 マセルの茶色い目が、チラリと私を見た。

「あの! あなたは聖女見習いの方ですよね! 殿下のお知り合いなら、私に協力していただけませんか! 家系に他に聖女がいるかどうかと、日常生活に関する聞き取り、それと……。少々採血をお願い出来れば……。よろしくお願いします!」

 ガバリと頭を下げられ、リシャール付きのお供として心地よい返答を期待されても、そうでないから困る。

「申し訳ないけど、私はあなたにご協力は出来かねますわ」
「そんなぁ! 殿下からも一言お願いしますよ」
「彼女は聖女ではないんだ」
「え? じゃあなんでブリーシュアの聖堂の乙女の制服を着ているのですか? 聖女候補でもないのに?」
「そういうこともある。と、いうことですわ」

 聖女の資質のある者でも、それを隠したがる者は多い。
世界樹に関わりさえしなければ、普通の人生を送れるからだ。
そうでもないのに、自ら進んで聖女を名乗る者はいない。

「では彼女も、聖女ではないということですか?」

 彼は熱心に研究員と語り合うリンダを振り返った。

「君たちが聖女でないのなら、関わっても何の得もないじゃないですか」
「それを私がお答えする義務はありませんわ。知りたければご自分でお聞きになればよろしくてよ」
「では、なんのための制服なのですか?」
「誇りよ。私は私であるというための」

 意味が分からないとでもいうように、マセルは首を横に振る。

「私の血でよければ、いくらでも採血かまいませんけど」

 袖をめくり突き出した腕に、彼はため息をつく。

「聖女の体でないと、意味がありませんよ。献体はとても貴重なものです。体のサンプルは取引されていますが、信頼のある業者でないと高額のニセモノを掴まされます。自分が聖女であることを隠したがる人はとても多いですからね。聖女に関する研究が進まない要因です」

 マセルは批難するような目で私を見上げた。

「だから、あなたのような偽聖女には、本当に困ってるんです! 聖女だと偽り髪や体液を売ってる連中が後を絶たない!」
「それは別の部署に訴えなさい。取り締まりはされてるでしょ。言いましたわよね。この制服は私の誇りだと。誰に何を言われても脱ぐ気はなくてよ」
「あぁ~もう! そんなこと言ってるのは、変わり者で有名なこの国の第三王女くらいですよ! あの姫さまは聖女でもないくせに聖堂なんか建てて、なかで自分の好き勝手に……。って、まさか……。そうじゃないです……よね……?」

 何かに気づいたのか、マセルは急に大人しくなった。
おずおずと私との距離を取る。

「まぁ、そっか。異国の第一王子に、聖女見習いを二人もお供に貸し出すなんて、ありえませんよね。そりゃ監視役もつくっていう話で……」

 マセルはぐったりとテーブルの上に倒れ込んだ。

「僕、死刑ですか?」
「私はそこまで落ちぶれていませんわ」
「投獄で済みます?」
「あなたが入りたいのなら」
「あぁ! そんなことより聞いてくださいよ、殿下!」

 彼は突然話題を変えた。

「僕がここにいられるのも、あと少しなんです!」

「なんだ、どうした。ここへ来ているということは、君は国では名の知れた研究者なのだろう?」
「そうですよ! 僕だって最初はそうだと信じてここへやって来ました。ですがここでは、研究成果をあげるか、施設に運営資金を寄付する金を出せなくなればおしまいです。出て行かなくてはなりません。寄付金は……国からの補助で何とかなってますけど、それだけでは実験に必要な高額な試料が揃わないのです。これでは成果が出せません」
「金がいるのか?」
「お金もそうですけど、もろもろ合算すると……。申し訳ないですが、殿下のポケットマネーで何とかなる金額では……」
「まぁ俺としても、国の予算を勝手に動かすことは避けたいな」
「少なくとも、聖女に関するサンプルが何かあれば……。僕の本当にやりたい実験が出来るのですが……」

 リシャールはぐったりと実験台の上に倒れたままのマセルを見下ろした。

「何がほしい」
「天幕街の薬問屋、サーシェルで売っている試薬セットです。シルグレット含有率15%以上のやつ」
「要求が具体的だな」
「買ってくださるのですか?」
「俺のポケットマネーで何とか出来るのはこれくらいだと、お前は見越したのだろ?」
「そうです!」

 彼は悪びれる様子もなく答える。
リシャールはそんな彼を見て笑った。

「はは。いいよ。買いに行ってやる。こんな色気のないお使いも、そうはないだろうけどな。ボスマン研究所に入ったといううちの学者の様子をみに来るのも、予定のうちだったんだ」
「ありがとうございます殿下!」
「君も行くか? ルディ」
「そうね。どちらでもかまいませんけど……」

 研究室内部を見渡す。
リンダも聖女ではないと、勘違いしたのだろう研究員たちは、とたんに私たちに興味を失っていた。
リンダはこれから本格的に実験手順をみてもらうのか、聖堂と同じ器具を組み上げ始めている。

「よろしくてよ。私もそのお買い物につきあってさしあげますわ」
「そうか。だがそれにしても……」

 彼は紅い目でじっと私を見下ろした。

「その格好では目立ちすぎるな。君がこの国でこんなに名を知られているとは思わなかった」

 リシャールはすぐ近くにあったフード付きのローブを私の肩にかけた。
それですっぽりと聖女見習いの制服を隠す。

「これを借りてゆくぞ。マセル」
「どうぞ。よかったらもういっそ差し上げますよ。ルディさま」
「あら、それでよろしいの?」
「そのかわり、無礼を働いた罪で投獄するのはお許しください」
「仕方ありませんわね。取引成立よ」
「よかったな、マセル。ルディ王女が寛大なお心の持ち主で」
「試薬は出来るだけ早めにお願いします」
「はは。生意気なやつだ」

 リンダには先に宿に戻ると告げておく。
「分かりました」と返答したリンダの緊張した様子では、このまま実験室で夜通しの作業になりそうだ。

「ルディ。私が宿に戻らなくても心配しないで。絶対にあの実験操作をものにして帰りたいの。ここの研究員なら誰でも出来るなんて言われて、負けてられないから」
「分かった。頑張ってね」
「もちろんよ。私もルディがくれたこの機会を、無駄にしたくない」

 リンダを残し、私はリシャールと共に暮れ始めた夜の街へくり出した。
従者たちが私たちに代わり買い出しに行くと言うのを、リシャールは全てはねのける。

「それくらいの誠意は、俺にだってあるぞ」
「そうですわ。お忍び旅行での夜のお買い物なんて楽しいお話、なぜ放棄する必要がありまして?」
「そうだ。俺も完全にルディに同意する」

 夕暮れ時で賑わう石造りの街中を、指定された店まで馬車で向かう。
ボスマン研究所から少し離れた天幕街の大通りは、帰宅を急ぐ人々や夕飯の買い出しに来た人たちで賑わっていた。
あちこちから煙があがり、おいしそうな匂いが漂う。

 指定されたサーシェルという薬問屋は、国内外でも有名な大店であった。
閉店に近い時間であるにも関わらず私たち以外にも大口の客がいるのか、店の鉄格子門の前には他にも数台の馬車が止まっている。
リシャールと私は目立たぬよう、二人きりでひっそりと店に入った。

 試薬の元となる様々な薬草や鉱石、魔物素材の展示された通路を抜けると、商談用ロビーに出る。
そこは城一番の大広間にも負けないほどの広さがあった。
大きなテーブルがいくつも置かれ、その一つ一つで交渉が行われている。
三階まで吹き抜けの店内には天井までぎっしりと薬棚が並び、店員たちは梯子を使って客から注文のあった薬草や試料の鉱物を取り出すと、それぞれのテーブルに運んでいた。
大きな袋に詰めた薬草をいくつも買い求めている客もいれば、サンプル試料の入った小瓶を、熱心に観察しているテーブルもある。

「ご予約のお客さまでしょうか?」

 店員の一人がリシャールに声をかけた。

「いや、予約は入れていない。急ぎの用で来た」
「かしこまりました。ではこちらへ」

 予約がないと聞いて、店員はやや表情を緩めた。
大口の客でなければ、相手をしても面白くないといった様子だ。
勧められたテーブルに向かい合って腰を下ろすと、男は早速切り出した。

「今回はどういったご用件で?」
「シルグレット含有率15%以上の試薬セットを頼まれている。すぐに用意できるか」
「あの、お客さま?」

 呆れたのと驚いたのと、その両方を上手く隠しきれないまま店員は不自然な笑顔を浮かべた。

「シルグレットというものが、どういう品なのかはご存じで?」
「白銀竜の鱗だろ。角や爪でもいいが。それを削って試薬に混合すると、本来の薬効がさらに増強される」
「えぇえぇ。角でも鱗でもかまいませんがね……。あ! 分かった。お客さまはボスマン研究所の、所長さんのお使いですか? でしたらそう言っていただけたら……」

 突然彼は、商売人特有の媚びた笑みを浮かべた。

「どれくらいご用意いたしましょう。手に入り次第、こちらからご連絡さしあげますよ。申しつけくださったら、こちらからお伺いしましたものを……」
「いや、ボスマン博士の使いではない。そこの研究員に頼まれたのだ」
「個人でご購入を希望されると?」
「あぁ。頼む」

 店員はゴホゴホと笑い声を誤魔化すような不自然な程咳払いをし、そこからピンと姿勢を正した。

「かしこまりました。こちらがそのカタログです。商品が決まりましたら、在庫を確認いたします」

 テーブルの、店員側にある引き出しを開け、中からカードのようなものを取り出す。
紙芝居の一枚絵ほどの大きさのそれには、シルグレットの含有率別に、いくつかの種類の試薬が描かれていた。

「シルグレットそのものをご所望でないのなら、ご自分で調合されるということではないのですよね。研究所からお越しということは、世界樹に関する実験でお使いなのでしょう。こちらがよく使われる基本的な試薬を、あらかじめ選んでセット販売しているものです。シルグレット以外にも、品質と効能は落ちますが、黒グリスリンの牙を含んだものもご用意しております」
「いや、彼はシルグレット以外のものは望んでいなかった。15%以上というのは、最高級品か? それをくれ」
「最高級品というよりは、実験に必要な最低ランクといったところでしょうか。それほど世界樹研究というのは、繊細なものですので」

 そう言うと、店員はシルグレット15%以上含有の試薬セット一覧を見せた。

「どれにいたします?」
「これにしよう」

 その中から、リシャールは一番セット数の多いものを指さした。

「かしこまりました。お値段は1,200万ルピーとなりますが、よろしいですか?」

 1200万ルピー? 確かに安い買い物でないのは、確かだけど……。

「そんなにするものなのか」

 1,200万ルピーといえば、貴族の使用する装飾のついた高級馬車が一台買えるくらいの値段だ。
天幕街の露店で先ほど売っていた、パンの価格が一つ150ルピー、ミルク一瓶が200ルピーなことを考えると、確かに一般庶民には手を出せない値段だ。
だけど……。

「まあ、高い買い物ではあるが、買ってやると約束したのだから仕方がない。一ついただこう」
「ほ、本気ですか? どなたのお使いです? ボスマン博士の、新たな支援者ですか?」
「違う。私が個人的にプレゼントする相手だ」

 店員が、初めて私の顔をのぞき込んだ。

「もしや、こちらのお嬢さまが新しく入所されるのを記念して?」

 彼はそれまでと打って変わって、生き生きとしながら別のカタログを取り出す。

「だとしたら、他にも色々と揃えるものが必要でしょう。あそこはいつも資金不足で困っていますからね。必要な器具や装置も、自由に使いたいと思ったら共用のものではなく、個人で持ち込んだ方が実験は捗ります」

 そう言った彼が取り出したのは、実験用の水を作り出す装置のカタログだった。

「こちらのミリクア水製造装置は、中に入ったシーホースの肺で水を濾過することで、魔法薬を作るのに適した水を精製する装置でございます。もちろんボスマン研究所にも同じ装置が設置されておりますが、私がお勧めするのはテーブルサイズの小型のもので、これがあれば3日はかかる精製水の製造が……」
「それはおいくらかしら」

 私はすっぽりと被っていたフードを落とした。
アプリコット色の巻き髪が顕わになる。
彼はムッとした様子で私のグレイの目をのぞき込んだ。

「……。500万ルピーでいかがでしょう」
「高いわね」
「なら、入所祝いとして460万ルピー。1,200万ルピーの試薬セットとの割引き価格です。これ以上は譲れません」
「高い」

 そう言い切った私に、リシャールの手が割り込んだ。

「その魔法水を作る装置があれば、実験ははかどるのか」
「それはもう間違いありません」
「ならいいだろう。それも一緒に……」
「お待ちなさい」

 言い値で買おうとするリシャールを、私はにらみつける。

「このミリクア精製装置は、ヒッター社製のものね。それでこのお値段? ミリクア精製装置といえば、キュアポア社製のものでないと。研究者はみな、キュアポア社のものを使用していますわ」

「ですが、キュアポア社製のものは、どうしても装置が大型になります。お嬢さまには扱いが難しいかと。重量もありますし、設置するには別途費用が……」
「いりませんわ。ヒッター社のものなら、町の薬局レベルでは十分でしょうけど、世界でトップを競う研究所レベルには、物足りませんもの。それに、この型式はもう古いものね。売れ残りをさっさと処分してしまいたい算段が透けて見えますわ」
「ですがミリクアは、実験には絶対に欠かせないものですよ!」
「そんなことは分かっています。私はその品質を問題視しているのです」
「私どもとしても、お嬢さまの実験のお手伝いが出来ればと」
「あなたがしようとしているのは、決してそうではありませんわ!」

 店員はすがりつくようにリシャールを見上げた。

「旦那さま~! ご祝儀としては申し分ない品です。先日もこの装置は、大きな薬店に卸したばかりです。販売実績もちゃんとあります」
「ル……。君は、どう思う?」
「実は先日、私もヒッター社のものを買おうとして、止められましたの。ミリクアはキュアポア社製でないとダメだと」

 私は店員の持っていたカタログをテーブルの上に広げる。

「そして、実際に3台仕入れましたわ。火事で焼けてしまって買い換えが必要だったのですもの。その時のお値段は、900万ルピー。一台300万の計算になりましてよ」
「な! あなたはどちらの……」
「確か、この店も入札に参加していたはずですわ。結果はふるわなかったようですけどね」

 着せられていたローブの前を、一度だけバサリと広げる。
店員の目に、しっかりと聖女見習いの制服が映った。

「こ、これは……。ル……ディさまですか?」

 正体に気づいた店員の声が、急に小さくなる。
彼は震える手で机にあったベルを鳴らした。

「た、担当の者と変わります。少々お待ちください」
「お待ちなさい」

 私が気に入らないのは、ミリクア精製装置だけのことじゃない。

「シルグレット含有率15%以上の試薬セットが、1,200万ルピーですって? 確かに白銀竜は希少生物で狩れるハンターも少なく、一頭狩れただけで時価の付く代物ですわ。それでも1,200万は高すぎです。せいぜい800万というところね」
「800万! それは値切り過ぎですよ。ル……。姫さま」
「あら、そうかしら。確かに普段ならあり得ないことね。ですが、昨年銀竜の墓場と呼ばれる20体ほどの白骨化した死骸が見つかり、少し値を下げていたのではありませんか?」
「……そ、それは、そうですが……」
「うちの聖堂では、確か760万ルピーで2セットを発注して取引が成立しておりますわ。まぁ、落札したのはこの店ではなかったかもしれませんが……」
「こ……。そ。それはもう……」

 店の奥から、見覚えのある顔が出てきた。
うちの聖堂の担当者だ。

「これはこれはルディさま! 今日はまたどういったご用件で?」

 ニコニコと愛想のよい笑みを浮かべ、私たちのテーブルにつく。
簡単にこれまでのいきさつを説明し、値段交渉に入った。

「あぁ! ルディさまのお知り合いでございましたか。うちの店員が大変失礼いたしました」
「いいのよ。姿が分からないようにしていたのは、こちらですし」
「彼は店に忠実な者なのです。どうかお許しを」

 許すもなにも、まだ交渉の途中だ。

「それでは……。う~ん。820万というところでいかがでしょう。ミリクア精製装置のことは、またそちらの研究員さんのご意向を確認してからということで。必要があれば、またお買い求めいただければよろしいかと……」

 リシャールを見上げると、彼は「分かった」というようにうなずいた。
支払いは従者に持ってこさせた金貨で、その場で済ます。

「お買い上げ、ありがとうございました。今後とご贔屓のほど、よろしくお願いいたします」

 店にとっても、悪い取引ではなかったはずだ。
買い付けを済ませ、明日の朝一番に届けてもらうよう頼んでから店を出る。

「君のおかげで助かったよ」

 外に出た時には、すっかり空は暗くなっていた。
人通りもまばらとなった大通りを、リシャールと並んで歩く。
少し涼しくなった空気に、私は身を震わせた。

「王族が値段交渉だなんて、恥ずかしかったかしら」
「あぁ。それでも黙ってはいられなかったんだろ?」
「まぁ……。そういうことですわ」

 きっとお姉さまやマートンなら、もっとスマートな対応をしただろう。
もっと気の聞いた言葉で、機転を利かせて、おしゃれにかっこよく、あの場を丸く収めただろう。
恥をかくことには慣れているけど、もう少し他にやりようはなかったのか。
この人に「姫らしくない」と呆れられても、仕方がない。
それで嫌われても、初めから私のことなど眼中にないのだから、別にいいんだけど。
それでもどうせなら、「可愛いお姫さま」でいたかったな。
今さらだけど。

 うつむいたまま歩く私に、リシャールは声をあげて笑った。

「はは。何も恥ずかしがることなんてないさ。俺は助かったと言ったんだ。うちも財政難だからな。無駄な出費は出来るだけ避けたい」

 そうは言うものの、馬車一台が買えるような出費を、現金一括払いしてしまったのだ。
リシャールのあの研究員に対する期待は、本物なのだろう。

「マセルには、私の分も頑張っていただかないと」
「そう言っておくよ。商談の上手い王女さまのおかげで無事買えたってね」
「もっと賢ければよかった」
「俺のことか?」
「違います。あなたはそんなこと、考えたこともないでしょう?」
「考えるさ。俺よりもずっと上手い値段交渉をしたと思ってるよ」
「それは誉めておりますの?」
「もちろん」

 彼はこちらに背を向けたまま、ふらふら歩いている。
いま私が、どれだけその顔を見たいと思っているのかなんて、想像もつかないだろう。

 夜の石畳を歩く足取りが重い。
彼について来なければよかった。
リンダのために来たのだもの。
リンダと一緒にいればよかった。
大人しく先に宿に戻って、もっと別な、他のことを考えていればよかった。

「なぁ。あの店員どもの顔を見たか?」

 不意に振り返った彼が、私の手を取った。
腰に腕を回すと、腕をさっと引き上げダンスへ誘う。

「君がただ俺について来て、施しを受けるだけの人間じゃないと分かった瞬間の、驚いた顔!」
「ふふ。滑稽でしたわ。これだからお忍びの外歩きはやめられませんの」
「だけど、よくあんなことを知っていたね」
「偶然ですけどね。火事で色々ありましたので」
「そんなお姫さまなんて、見たことねぇよ」

 彼の紅い目が笑った。
心から楽しそうに朗らかに笑うと、軽快なステップでくるくると私を回す。

「君はこの国では、随分な変わり者で知られているんだな」
「あなたに言われる筋合いはございませんわ」
「君がいなければ、俺はテーブルにナイフを突き刺していただろうな」
「まぁ! それではちゃんとした話し合いに、ならないではないですか」
「あはは」

 誰もいない夜の大通りで、外灯だけが私たちを照らしていた。
灰色の制服の上にかけられた焦げ茶色のローブが、ヒラヒラと宙を舞う。
ゴツゴツとした石畳のステージでも、ステップはどこまでも軽やかで揺るぎない。

「王女自ら、入札価格の設定に参加しているのか」
「まぁ、それも仕事の一つなので」

 リシャールは抑え切れない笑い声をかみ殺しながら、苦しそうに絞り出した。

「自由過ぎるだろ」
「だから、あなたにそんなことを言われる筋合いはないかと!」
「ふふ。面白い奴だ」
「それは褒めておりますの? けなしてますの?」
「どっちだと思う?」

 紅い目が急接近したかと思うと、ニヤリとイタズラな笑みを浮かべる。

「だいたいですね、あなたはって……、きゃあ!」

 反論しようとした私の手を、高く持ち上げる。
その勢いで、くるりと一回転させられてしまった。
被っていたローブがずれ落ち、髪があらわになる。
灰色のスカートの裾が、夜道に翻った。

「もっと着飾ればいいだろ。そうすれば騙される男も増えただろうに。なぜそうしない。あの赤いドレスも、悪くなかったぞ」
「で、ですから。私は聖女ではありませんが、気持ちは常にそうでありたいと思っておりますの。自分からこの服を脱ぐことは絶対にございません。たとえ頭がおかしいと笑われても、全く気になりませんんの。自分がそうしたくてやっているのですもの」

 リシャールの紅い目が、柔らかく微笑む。

「この制服を着ていることに、誇りを持っております。これが私にとっての、一番の正装ですわ。そ、それに……」
「それに?」

 このままの自分でもいいと言ってくれる人を、待っているから。

「マ、マートンが、似合うと言ってくれましたので!」
「マートン? あぁ、あの男か……」

 リシャールの紅い眉が、不機嫌に眉根を寄せた。

「俺の腕の中にいながら、他の男の名を語るとは、いい度胸だ」

 握っている手が、強く引かれる。
夜空の下、私たち二人にしか聞こえない音楽に乗って進むステップが、大きく乱れた。

「ちょ、あぶな……!」
「ふん。俺がそんなヘマするかよ」

 転びそうになった私の体を、彼の腕が支える。
軽やかなステップから、ゆったりとしたスローステップへと変わった。
星空と石畳のステージはまだ続いている。
リシャールは私の手をしっかりと握ったまま、放そうとしない。

「ルディ。俺の国では……。まぁ、恥ずかしい話だが、聖女の地位は低い。未だに奴隷扱いと言った方が正確だ。だから、その……。王族である君が、聖女でもないのに聖女の格好をして歩いていることに、とても驚いている」

「それはあなただけではなく、他の方にもとてもよく言われますの。すっかり慣れていましてよ」
「レランドはそういう国だから、聖女が育たない。資質を持つものも、自ら望んで名乗ることも少ない。世界樹が育ちにくいという理由には、他国と比べ圧倒的な聖女の少なさというのがある」

 彼は燃えるような紅い目をそっと閉じた。
夜風がふわりとサラサラとした前髪を揺らす。

「だから俺は、そういう状況を変えたいと思っている。ブリーシュアの王女エマさまを妻にと思うのは、そういうことなんだ。レランドでの聖女の地位を高めたい。その為に彼女ほど適した方は見当たらないんだ」
「……。それでも、ご自身の都合ということには、変わりありませんわ」
「そうだな。ルディの思う純粋な愛情とは、言い難いのかもな」

 そんな話をされても、返事に困る。
繋いだ手からはじんわりと彼の体温が伝わってくるのに、その声は私の耳に冷たく響いた。
聖女見習いの制服を着ていても、私に聖女としての資質はない。

「だがそれでも、俺は愛してみせるよ。必ず。俺の妻となることを決意してくれた人のことを。そのために俺は、この国に来たんだ」

 見上げた紅い目はどこまでも遠くを見つめていて、彼の意志が揺るぎないものであることを知らされる。
やっぱり私は、この人に望まれる立場ではないんだ。
灰色の視線と彼の紅い目が絡み合う。
何かを言いかけて、すぐに言葉を飲み込んだ。

「ルディ。だから……。これ以上邪魔をしないでくれ。でないと俺は……」
「分かっております。あなたは国のためにそうしていらっしゃるのだと」

 紅い目が激しく燃え上がったかと思うと、潤んだようにその瞳が揺らいでいる。
彼が「聖女」を求めるのは、王子としての義務であり使命だということ。
だから私も本気で邪魔をしたくても、出来ないでいるんだ。

「ですから、もう邪魔はいたしません。あなたによいお相手が見つかりますよう、陰ながらお祈りしております」

 彼の手がアプリコット色の髪に触れた。
キスをされるのかと思った髪は、その指先からこぼれ落ちる。
二人だけのダンスも、終わりの時間を迎えた。
夜の石畳を歩き出した彼の手は、それでもまだ私の手をぎゅっと握りしめている。

「今夜はもう帰ろう。あまり遅くなると、またダンに叱られてしまうからな」
「そうですわね」

 私には、見守るしかないんだ。
この人が選ぶ相手を。
どんな人がこの人についていくと、決心するのかを。
私はそれを、ただ見ていることしか出来ないのだから。

 その日の夜、リンダは宿に戻って来なかった。
まだ彼女のために研究所に残ってくれているのであろう人数分の夜食を用意させ、届ける。
私に出来ることといえば、これくらいしかない。

 翌朝、研究所を訪ねると、夜通し作業をしていたらしいリンダとニックは、届けられた食事の残骸もそのままに、まだ作業に明け暮れていた。
すっかり乱れてしまったリンダの黒髪は、後ろで一つに束ねられている。

「順調……。では、なさそうですわね」
「まぁね」

 うたた寝をしていたニックが、ハッと目を覚ました。

「あ……。これはルディさま。おはようございます。昨晩は差し入れ、どうもありがとうございました」

 まだまだ目の覚めきらない呆けた顔で、口元を拭う。
聖堂でもここでも、研究員は皆同じようなものだ。
一晩徹夜したくらいではビクともしないリンダの向こうに、リシャールの紅い髪が見えた。
昨夜購入した試薬セットを手に、マセルの元へ向かっている。

「ほら。君の所望した品が届いたぞ」
「ほ、本当ですか、リシャールさま!」

 彼は渡された大きな木箱の蓋を、そっと持ち上げる。
キラキラと輝く白銀竜の鱗を混ぜ合わせた大小18本のガラス瓶が、ビロードの台座に割れないようしっかりと埋め込まれていた。

「す、凄い! フルセットじゃないですか!」

 彼はサラサラと流れる試薬の入った瓶と、遮光された小瓶を取りだす。

「これで実験がはかどります! 実験の精度と反応速度が全然違いますよ!」
「あぁ。我が国期待の学者には、ぜひ頑張ってもらいたいからね」

 うれしそうにはしゃぐマセルの隣で、リシャールもまた楽しそうにしている。
そんな二人に、ボスマン博士が声をかけた。

「試薬が揃っただけでは、マセル。君の研究はどうにもならんよ」

 博士は彼の実験台に並んだ土壌サンプルの瓶の一つを手に取った。

「世界樹の育つ土地とその土壌成分の研究なんて、飽きるほどやられている。この世界の土壌条件の、空いているピースを埋めてゆくことは、決して間違いではない。思わぬところから思わぬ発見は出てくるもの。それがこういった仕事が続けられている理由だ。だが今のままでは、君の出す成果にこの研究所に残れるほどの価値はあるのか? 調べた地質から、何を見る? ただ道具を揃えただけでは、どうにもならんよ。君がやっていることは、ただの作業でしかない」
「僕にだって、世界樹研究に貢献したい気持ちはあります!」
「気持ちだけでどうにかなるなら、もうこの世界は世界樹などなくとも、魔物も瘴気もない平和な世界が出来上がっているだろうよ」
「ルディさま!」

 突然マセルが、私に向き直った。

「お願いがあります。どうかブリーシュア城内の、世界樹の庭の土を僕にください!」
「えっ?」
「僕だって、ただリシャール殿下に高価な試薬を買ってもらって、それでこのままでいいだなんて思っていません。どうすればいいか、昨日一晩ずっと考えてたんです」

 詰め寄る彼の赤茶けた目は、真剣そのものだった。

「ブリーシュアの、城外周辺の土は最も世界樹の育成に適した土として、散々比較検証されてきました。各地の世界樹育成のための土壌改良は、そのほとんどがブリーシュア城周辺環境に合わせて作られています。ですが、そのブリーシュア国内でも、一度も採取分析されたことのない場所があります。城内にある、世界樹の庭の土です。一度も枯れたことのない世界樹の大木が生えている土地の成分を、僕に分析させてください!」

「それは……」

 世界樹の庭に立ち入ることの出来る人間は、特別に許可された者だけだ。
高い石垣に囲まれた円形の庭は城の中心部にあり、入り口には鉄格子がはめられ、番兵によって常に警備されている。
エマお姉さまの成人を祝うパーティーで開放されたのが、異例中の異例だったくらいだ。
その前は私の誕生を祝う生誕パーティーだったと聞いている。
もう16年前の話だ。
もちろん中にあるものは、枯れ葉一枚土塊一つ、持ち出すことは許されていない。
一日数回の聖女たちの祈りの時間にだけ、門が開き中へ入ることが許されている。

「私がいまここで、お返事出来るものではございませんわ」
「そこをなんとか!」

 マセルはボスマン博士を振り返った。

「ブリーシュアの世界樹の庭の土なら、初めての成果となりますよね! 僕がまだここに残って、研究を続けられる成果となりますよね!」
「それは……、なんとも言えない。庭の土から何が出てくるかによる。ただ、世界樹の庭の土を分析し、公表した研究者は、他にいないことは確かだ」
「ルディさま!」

 気づけば、全研究員全ての視線が集まっていた。
私だって、協力したい気持ちがないわけじゃない。
ボスマン博士が、白髭で隠れた重い口を開いた。

「私も調べられるのなら調べてみたい、もっとも興味深い場所ではある」
「で、ですから、私の一存では、お返事出来ないと申し上げているのです」

 リシャールの紅い目が、私の視線と重なった。

「私からもお願いしたい。どうすればいい?」
「まずは、聖女であるエマお姉さまの許可をいただかないと。そこから王と議会に申請して、許可が出ればあるいは……」

 リシャールが不意にピンと背筋を伸ばした。
胸に手を当て、私に向かって丁寧に頭を下げる。

「ルディ王女。エマさまへのお取り次ぎをお願いしたい。私はこの世界の世界樹と、そこに暮らす人々を救うためにここへ来た」
「聖女のためではなくて?」
「聖女もまた国の民だ」

 あぁ、ようやく分かった。
この人は私と似ているのだ。
私に聖女としての力がないように、男として生まれたこの人にも瘴気を払う聖女の力はない。
だけど、人々を守りたいと思う気持ちは、同じなんだ。

「分かりました。努力してみましょう」
「本当か!」

 研究所内が、一気に湧き上がる。

「ただし、上手く行くかは分かりませんし、すぐにことが運ぶ保証は、どこにもありませんわよ。かけあってみるだけです」
「ありがとうございます!」

 赤茶色の髪のマセルが、飛び上がって喜んでいる。
その横で、リシャールは再び私の目を見つめた。

「ルディ。私に出来ることならいくらでも協力する。レランドを代表して、君に感謝する」
「だからまだ、それには気が早いと……」

 いくら釘をさそうとしても、もう誰も話を聞いてはいなかった。
ボスマン博士は、庭の土からどんな新発見があるか、子供のように目を輝かせてマセルと語り始めている。
もっと精度のいい分析方法を使って、どんな微量な成分も逃すこと無く測定するつもりのようだ。
そのための分析方法を新しく考えてみようと、すっかり盛り上がってしまっている。
もしこれで土から他にない成分や特徴が発見されれば、それは素晴らしい成果になると。
気の早い所員たちに半ば呆れながらも、微笑ましい気持ちになる。
世界はこうやって、誰かの手によって守られているのだ。
そんななか、ふと視界に入ったのは、厳しい表情を崩さないリンダだった。

「どうしたの? 聖堂に戻っても、ここで習ったことはやれそう?」
「……。分からないわ。同じ器具、同じ試薬、同じ装置を使っても、ニックさんはちゃんと全部上手くいくのに、私には出来る時と出来ない時があるの。どうしてかは分からないって」
「何か特別なコツでも?」
「彼が言うには、何度も練習して慣れるしかないって……」

 昨日から一睡もしていない彼女の目は、真っ直ぐにどこか遠くの見えない何かを見つめていた。

「ねぇルディ。私って、かわいい?」
「どうしたの急に」
「ここの人たちに、私の今までの研究が『かわいい』って言われたの。私って、そんなにかわいかった?」
「あなたはうちの聖堂で、一番の研究者よ」
「……。そうね、私もそのつもりだった。だけど、それがここでは『かわいい』って言われたの」

 彼女が火災の時危険を冒してまで守ろうとした、世界樹を育てる画期的な肥料となるはずの新薬の瓶が、その蓋を開けたまま放置されていた。
中身も半分にまで減っている。

「早く聖堂に戻って、自分でちゃんと試したい」
「戻りましょう。ここでの用が済んだのなら」

 リンダの目は、それでもまだ強い力を放っていた。
彼女がうなずいたのを確認し、研究所を後にする。
今後の約束をいくつか取り決め、別れの挨拶をすまし馬車が動き出した瞬間、彼女はあっという間に眠りこんでしまった。
リシャールはリンダを座席の上に横にすると、毛布をかけてやる。
私の隣に腰を下ろした。

「リンダはとても努力家なのだね」
「城内に部屋を与えられるほどには、優秀ですわ」

 大丈夫。
リンダならきっとやれる。
どんなことでも、彼女はその持ち前の努力で智恵を絞りながら前に進んできた。

「なるほど。ブリーシュアは最古の世界樹を有するだけあって、実に様々な聖女がいるものだ」
「どういうことですの?」
「エマさまのような、聖女の中の聖女もいらっしゃれば、リンダのように研究者としての顔を持つ者もいる」
「聖女とは、職業を示すものではありませんもの。聖堂は聖女としての心がけを学ぶ学園のようなところですし、居場所のない者にはリンダのように保護を与えますけど、それぞれに自由な暮らしは認められておりますわ」
「それはもちろんだ。瘴気と世界樹のアロマの狭間にあって、常に魔物の脅威にさらされている我が国には、ハンターとして戦う聖女もいる」
「まぁ、そんな方もいらっしゃるのね」

 どんな女性なのだろう。
魔物を狩るハンターとして戦うのであれば、この人と共に馬を走らせることもあるのだろうか。
鎧を身に纏いサンドホースにまたがり、颯爽と赤茶けたレランドの大地を駆け抜ける姿を、今この隣に座っている彼の姿からは想像出来ない。
時には互いをかばい合い、背中を預けるような相手が、本国に帰れば待っているのだろうか。
不意にリシャールの手が、私の髪に触れた。

「ふふ。そうかと思えば、聖女でもないくせに、自分は聖女だと言い張って聞かない姫さままでいる」

 私はその手をパチンと扇ではねのけた。

「ですから、私は聖女でありませんので、あなたのそういった関心の対象ではありませんのよ」
「もちろんだ。そもそも王女である君やエマさまを、そう簡単に持ち帰れるだなんて、思ってもないさ」

 彼は腕を組むと、窓の外に向けた目を閉じてしまった。
そんなことを言って、エマお姉さまにはしっかり求婚したくせに。
聖堂へ足繁く通い、聖女たちを口説いているくせに。
あなたの目には、私なんか映っていないくせに。
あぁ、お姉さまにプロポーズすること自体が、この人の本当の目的だったんだ。
エマお姉さまに相手にされなくても、返事を待つ間はブリーシュアに滞在し、好みの聖女を探すことが出来る。

カタカタと揺られる馬車の中で、リシャールも寝てしまったようだ。
私は城までの長い道のりを、サラサラとした燃えるような紅髪を眺めながら、いつまでも馬車に揺られていた。




第6章


 ボスマン研究所から戻って数日が過ぎたある日、王宮の一角にあるテラスへやって来たリシャールは、いつも以上にピシッとめかし込んでいた。
レランド風の白い衣装ではなく、ブリーシュアで新しく仕立てたような、流行のデザインで空色の上着を羽織っている。
それは彼の紅い目と髪の色にもよく似合っていた。

「やぁルディ! 今日はとてもいい一日になりそうだ」

 そのうえ、とてつもなく上機嫌だ。

「君のその、黄色いドレスだって悪くないぞ」

 そう言って簡単にウインクなんてしてみせるから、こっちの方が恥ずかしくなる。

「あの、今日は真剣なお話をしに行くのですから、真面目にやってくださらないと」
「もちろんだ。俺はいつだって大真面目だが? ルディ以外の前ならな!」

 あははと笑う紅い目に、少し悔しくなる。
彼が今日この日のために新しく服を仕立てたのは、私のためじゃない。
私が着ているこの新しいドレスだって、彼のためなんかじゃないし。

「さぁ、行こう。エマさまがお待ちだ」

 私たちはお姉さまに、一緒にお茶をするよう申し込んでいた。
もちろんその目的は、ボスマン研究所に世界樹の庭の土を送ってもいいかどうか、許可を得るためのものだ。
指定されたお姉さまの居室に近い屋外のテラスには、今が盛りと淡いピンクのロネの花が咲き乱れている。

「いらっしゃい。ルディ。リシャール殿下」

 お姉さまはいつもの聖女服ではなく、プライベートらしい淡いブルーの、すっきりしたシンプルなドレスを身に纏っていた。
もちろんその隣には、黒いナイトの制服で固めたマートンもいる。

「久しぶりだね、ルディ。元気にしてた?」
「えぇ、もちろんよ。マートンもお久しぶり」

 黒く穏やかな目に優しく微笑まれ、逆に申し訳ない気持ちになる。
マートンやエマお姉さまにしてみれば、純粋にお茶に誘われたから、自分たちで招いただけのつもりのはずだ。
それなのにリシャールは、のんきに生け垣のロネの花を一輪むしり取っている。

「どうぞ。エマさまにこれを」

 またここでお姉さまにプロポーズする気!? 
急いで止めなければと思ったのに、彼はひざまずくことなく、今回は立ったままそれを差し出した。

「お美しいエマさまのために、ここに咲いていた花です」
「まぁ、ありがとう」

 そんなリシャールの冗談も、エマお姉さまとマートンは笑って許せるから感心する。
そもそも本来なら、私がお姉さまとリシャールの橋渡しだなんて、やりたくもないのに! 
彼は淡いピンクのロネの花を、お姉さまの波打つ金色の髪の耳元にさした。

「今日はお二人から、お茶の誘いを受けるなんて、うれしいわ」
「ですが結局、お姉さまにお招きしてもらってるわ」
「ふふ。だって、リシャール殿下もご一緒なんですもの。それはねぇ。マートン」
「もちろん僕たちが招待しないといけないだろ。ボスマン研究所へ行ったんだって? 博士はどうだった?」

 今が盛りのロネの花で香り付けされた紅茶が運ばれてくる。
焼きたてのお菓子やフルーツが、ケーキスタンドに並んでいた。
お姉さまにどうぞと着席を促され、リシャールとマートンは素直に席につく。
なんで? 
私はまだ、リシャールに花をさしてもらってないんだけど?

「ルディ? どうしたの?」
「いいえ。エマお姉さま。なんでもありませんわ」

 私も慌てて空いた席に腰を下ろす。

「博士は厳しそうな人でしたわ。研究熱心なだけではなく、成果にも厳しい方なのね」
「それはもちろん。研究者だからね」

 マートンはなにも言わずとも、私の一番好きなプルアの実のタルトを取ってくれる。

「エマさまは、どちらにいたしますか?」

 すかさずリシャールもトングをつかみ、お姉さまに尋ねた。
それを横目に、マートンは私と同じプルアの実のタルトをお姉さまの前に差し出す。
紅髪の彼がムッとしたその瞬間、マートンは彼にも同じタルトを勧めた。

「これは今朝、エマが焼いたタルトです。殿下とルディにと」
「ほほう。そうでしたか。ならいただこう」
「僕も一緒に手伝ったのです。お口に合えば幸いです」

 マートンはすました顔で、自分もそのタルトを口にする。

「ルディ、おいしいかい?」
「もちろんよ、マートン」

 リシャールはそれを口にしたものの、何も言わずただ苦虫をかみつぶしたような顔をしている。

「リンダが研究所から戻って以来、大変だと聞いたのだけど」

 エマお姉さまは、紅茶のおかわりを私のカップに注ぐ。

「そうなのです。リンダは聖堂へ戻って以来、実験室に籠もりきりですの。体を壊さなければいいのだけれど」
「彼女は期待の星ですもの。聖堂始まって以来の、秀才聖女ですから。私としては、彼女には聖女としての役割ではなく、研究者としての道を選んでもらってもいいと思っているのだけれど」

 それは私も同じ気持ちだし、きっとリンダ自身もそう思っていたのだろう。
だけどボスマン研究所で彼女の実績は、全く評価されないものだった。

「エマさまとしては、聖女としての彼女の資質は惜しくはないのですか?」

 今日のリシャールは、明らかに王子さま仕様だ。
上品でにこやかな気品あふれる仕草は、私の前で見せる粗野で全くの遠慮のない彼とは、全然違う。
キリッとして礼儀正しい、お手本のような貴公子だ。
紅く切れ長の目を、優雅さを持ってそれとなくお姉さまに向ける。

「もちろん聖女の数は多いにこしたことはありません。ですが、聖女として生まれてきた者に与えられた使命とは、それだけと思ってほしくはないのです」
「私もその意見には賛成です。エマさま。あなたにはぜひ我が国の現状を、ここブリーシュアばかりではない、他国の様子も見ていただきたい」

 リシャールはおもむろにお姉さまの手を取った。

「どうです? もしよかったらプロポーズの話は抜きにして、一度レランドへ足をお運びください。そうすれば……」
「そういえばお姉さま!」

 私は立ち上がると、ワザとリシャールの目の前に腕を突きだし、置いてあったティーポッドをつかみ取る。
自分のカップに自ら紅茶を注ぎ入れた。

「ボスマン研究所に、レランド出身の学者がおりましたの!」

 それを見たリシャールは、私の手からポットを奪い取る。
カップに注がれた半分の紅茶に、残りの半分を彼が注ぎ足した。

「まぁ。それで、殿下ともお話になったの?」
「もちろんです。エマさま」

 彼はにっこりと笑って、そのポットをお姉さまに掲げた。

「お茶のおかわりは?」
「いただきます」

 彼が嬉しそうにお姉さまのカップに紅茶を注ぐのを見て、私は自分のカップに注がれたばかりのものを、一気に飲み干した。
リシャールがお姉さまのカップを満たす前に、それを彼の前に突き出す。

「ぷはっ! おかわり! レランドの研究者はマセルと申しますの。レランド人らしい赤茶けた髪の、とても変わっ……はつらつとした方でしたわ」

 侍女が現れ、突き出したままの私のカップに紅茶を注ごうとするのを、リシャールが止めた。
彼は渋い顔でそのカップにも紅茶を注ぐ。

「それで実は、その彼にお願いをされましたの」
「お願い?」

 リシャールが紅茶を飲んでいる。
きっと空にして誰かに注いでもらうつもりだ。
それを察したお姉さまの手が、ポットに伸びた。

「そうなのですエマさま。彼は世界樹の生育しやすい土壌研究をしているのです」

 リシャールが空になったカップを差し出す前に、私はお姉さまの手からポットを奪い取った。
空になった彼のカップに、紅茶を注ぐ。
紅い目が明らかに私にだけにらみを入れた。

「それで、世界樹の庭の土を分析したいと、私に頼んできましたの」
「まぁ。あの庭の土を?」
「それは考えたことなかったな」

 マートンが侍女たちに合図を出した。
新しく運ばれてきたポットからは、ミトの葉を煎じた爽やかな香りが漂う。

「しかしあそこの土を運び出すには、王の許可が必要なのでは?」

 気づけばマートンのカップも空になっていた。
私は新しく運ばれて来たポットを侍女から受け取ると、ゆっくりと丁寧にマートンのカップに注ぎ入れる。
彼が小さな声で「ありがとう」とささやくのを聞くと、久しぶりの低音ボイスに、何だか耳の奥がむずがゆい。

「ルディ。クッキーも食べる?」
「マートンが選んで」
「了解」

 彼が私のために取り分けてくれたクッキーの皿を受け取ろうとした瞬間、リシャールの手がそこへ伸びた。
皿の中から一番大きな一枚を奪い取ると、パクリと自分の口に放り込む。

「んな! ちょっ……」
「実はそのことで、エマさまにお願いにあがったのです」

 にらみつけた私をもろともせず、彼はキラキラと輝く王子スマイルを浮かべた。
続けてマートンがリシャールのために取り分けたフルーツの皿を、彼の前に置かれる前に私が取り上げる。
目に付いた皿の上のキーウを、自分の口に放り込んだ。

「ルディ!」

 お姉さまの怒りを抑えた声が、のどかな庭園に響き渡る。
マートンは「やれやれ」といった表情を浮かべ、リシャールは笑いを押しつぶすようにぐしゃぐしゃと口元を歪めていた。

「だってリシャールが!」
「エマさま」

 リシャールは憎らしいほど完璧な笑顔を浮かべる。

「私からもお願いいたします。レランドの一研究者のためというわけではなく、この世界に住まう全ての者たちのために」

 ブリーシュアは世界樹のアロマに守られた国だ。
世界最古の世界樹を有し、その恩恵が途絶えたことはない。
そのためその良好な土地を巡り、各国と争いの歴史を繰り返してきた。
今はその反省から、世界樹の育成技術や苗木の供給を積極的に行い、平和的な外交を実践している。
世界樹と聖女に関する情報は、各国において重要な外交手段であり国家機密でもある。
お姉さまとマートンは、互いの顔を見合わせた。

「殿下。それをあなた方に提供することで、こちらに何の利点がございますの?」

 リシャールに反論するように、お姉さまが問いかける。

「お姉さま! これは私からも……」

 マートンは諭すように私を見下ろした。

「ルディ。君はこの国の王女だ。だから常に、ブリーシュアのことを考えて動かなくてはならないよ。もちろん今までずっとそうして来たことは、僕もよく知っている。そしてそれは、これからも変わらない」
「もちろんよ。マートン」

 だからこそ私は、自分の意志で彼に協力したいと思っている。

「そうね、こういうのはどうかしら。聖堂の方から、庭の土を使いたいと申請を出すの。そうやって聖堂で預かった土を、ボスマン研究所に共同研究として持ちかけるのはアリなのではなくて? 最初からそれありきでは、難しいかしら」
「まぁ、それくらいしか、方法はないかもね」

 エマお姉さまは、侍女が新しく注いだお茶にミルクを足した。
そのクリーマーを置いたとたん、リシャールはそれを自分のカップに注ぐ。
私はそのクリーマーを、マートンのそばに置き直した。
ムッとした表情を隠しきれなかったリシャールに、お姉さまは諦めたようにクスクス笑っている。

「で、それを私から陛下に進言しろと?」
「お姉さまが無理だとおっしゃるのなら、私からお願いいたします!」

 立ち上がった瞬間、カップが傾いた。
新調したばかりのドレスに、紅茶がこぼれ落ちる。

「あぁ。ルディの初めて見るドレスなのに……」

 マートンが慌ててナプキンで拭いてくれる。
侍女たちも飛び出してきた。

「いいのマートン。大事なのはドレスじゃなくてよ」

 大きな膝掛けが用意され、それを隠すよう侍女たちに促される。
私はそれを受け取ると、再び立ち上がった。

「ね、お姉さま。これはレランドのためだけじゃないですわ。本当よ。ブリーシュアのためでもありますわ。より精度の高い研究成果を出すためにも、分析資料は多い方がいいに決まってるもの」

 お姉さまの柔らかな茶色の目が、眩しそうに私を包み込む。

「聖堂の乙女たちにとっても、ボスマン研究所と共同研究の機会を持てることは、大変な名誉ですわ!」
「ふふ。そうね。さっきマートンから、ブリーシュアの国益のために動きなさいと、聞かされたばかりだったわね。分かった。いいわよ」

 お姉さまはテーブルに肩肘をのせるとそこに顎を置き、探るような目で私にニヤリと微笑む。

「ルディからそこまでお願いされちゃったらね。リシャール殿下も、きっとお喜びだろうし」
「リ、リシャールはここでは、関係ありませんのよ!?」
「ふふふ」

 楽しそうに微笑むお姉さまを、紅い目がのぞき込んだ。

「誤解なさっては困ります。私はあなたに、プロポーズをしているのですよ」
「あら、そうでしたっけ?」
「お忘れとは、なんてつれない方なのでしょう。まだそのお返事も頂いておりませんのに」

 リシャールはエマお姉さまの金色の髪に、ふわりと指を絡める。

「こうしてあなたとお話し出来る日がくるのを、ずっと心待ちにしておりました」

 その光景に、どうしてかズシリと胸に痛みが走る。
私はお姉さまを誘うこの人の姿を、見たくない。

「汚れたドレス。染みになる前に着替えて参ります」

 立ち上がり、その場から逃げるようにテーブルを抜け出す。

「エマ。僕も少し席を外すよ」

 立ち去った私を、当然のようにマートンは追いかけてきた。

「マートンは、こっちに来ていいの?」

 そんな彼を振り返った。
声にした言葉が、思った以上に大きな声になり震えている。

「ルディのことが気になって」
「ねぇ、マートンは戻って。どうして? マートンは平気なの?」

 テーブルに二人だけを残しておきたくない。
だけど私はそれを、邪魔しにいく勇気はない。

「なにが?」
「だからマートンは……。ううん。何でもない」

 目から何かがあふれてきて、そこからこぼれ落ちてしまいそう。
そうなる前に一刻も早く消えてしまいたいのに、マートンの手が私の肩に添えられた。

「ルディ。少し話さないか」

 この人にそんなことを言われて、断れるわけがない。
小さくうなずくと、エスコートされるまま回廊を歩く。

「元気にしてたかい? 最近は君と会う機会も減って、エマが心配してる」
「大丈夫よ。私には聖堂の仕事があるもの」
「ルディ。リシャール殿下はレランドからこのブリーシュアへは……」
「ねぇ、ちょっと待ってマートン。どうしてここでリシャールの名前が出てくるの? あの人が私に、なにか関係ある? 私なんかより、お姉さまの方が……」

 不用意に視界に入ってしまったテーブルでは、二人が仲睦まじく談笑を続けている。
にっこりと微笑むお姉さまの姿に、彼は眩しそうに目を細めた。

「ねぇ、マートンはお姉さまのナイトで恋人なのでしょう? 早く行かないと。気にはならないの?」

 マートンの背中をグイと押し退ける。
彼はそんなことには、ビクともしなかった。

「ルディ。君の心はいつだって自由だ。そのことは誰も否定しない」

 マートンは私の腕をしっかりと掴むと、体を引き寄せた。
緑の目は誰よりも深く私をのぞき込む。

「戻れるうちに、戻っておいで。沼に深入りすると、そこから抜け出すのが大変だ」
「私にはマートンが何の心配をしているのか、さっぱり分からないの。いいから早く、お姉さまのところへ戻ってあげて。きっと二人にされて困ってるわ。私は着替えついでに、もう失礼するわね。殿下とお姉さまに、よろしくお伝えしておいてね」

 マートンを振り払い、走り出す。
これ以上ここにいるのは、限界だった。
駆けだした私は回廊を支える柱越しに、二人とすれ違う。
お姉さまはきっと驚いているに違いない。
私がマートンの言いつけを無視するなんて、ありえないことだもの。

 城内を駆け抜け自室に飛び込むと、ベッドへ倒れ込んだ。
どうしてか後から後から涙があふれてくる。
見たくなかった。
お姉さまにニコニコと笑顔を振りまくあの人の姿を。
私にはもう決して向けられることはなくなったあのキラキラと輝くすました笑顔が、たとえ作り物だったとしても。
出会った時には囚われてしまっていたのだ。
初めて踊った時に向けられたあの情熱が、彼の本心ではなかったとしても。
紅い目の誘惑が幻と分かった今でも、それを向けてほしいと願っている。
今の私はそれを向けられる全てのものに、嫉妬しているのだ。

 彼のために新調したドレスを脱ぎ捨てる。
マートンやお姉さまは、すぐに気づいていた。
あの人も褒めてはくれたけど、あんなのは社交辞令に決まっている。
今日のために新しくしたことを、彼は知らない。
当然だ。
あの人にとっては、どれも初めてみる衣装だもの。
私には似合わなかった。
ただそれだけのこと。

 侍女を呼び、すぐに着替えを用意してもらう。
あの人の前に立つ時は、この灰色の制服の方が似合っている。
本物の聖女でなくても、これを着ていれば彼は話しかけてくれる。
聖女でないと知っていても、接点は出来る。
一人で着替え終わった私は、涙を拭った。
侍女たちから入室の許可を求められ、声の調子を整えると、気取られることのないよう返事をする。
今日は遅くなると伝え、急ぐように自室を離れ聖堂へ向かった。

 高い壁に囲まれた城内の、石造りのこの聖堂こそ私の一番落ち着ける場所だ。
緩やかに上る芝生の小道を上ると、聖女見習いの乙女たちや警備兵が気軽に声をかけてくれる。

「あら、ルディさま。今日はもういらっしゃらないのかと思っていました」
「ラウラ。久しぶりね。エマお姉さまと、お茶していましたの」
「まぁ、素敵!」

 無邪気におしゃべりをはずませ喜ぶ彼女たちに、私も笑顔を浮かべる。
ここの人たちは誰もが、無条件で私を受け入れてくれる。

「そういえばルディさま。今日は祭壇でアリナの錫授式が行われているはずです。顔を出してみればいかがです? きっと彼女も喜びます」
「そうだったの? なら行ってみようかしら」

 アリナか。
彼女もついに、ここを出てゆくことになったのか。
この聖堂へ来て何年になるだろう。
彼女は確か、城外にあるパン屋の娘だったはずだ。
時々両親から送られてくる美味しいパンを、みんなに配っていたっけ。

 王城の聖堂へ来る女の子たちの背景は様々だ。
リンダは学業の成績と実験への意欲を示し、城外の聖堂から推薦を受けてここに来た。
さっき声をかけてくれたラウラは、男爵令嬢でありながら、世界樹のために祈ることを決意してくれた。
普段は城外の屋敷でダンスや礼儀作法のレッスンを受けるなど貴族の娘らしい生活をしながら、週に何度かここへ通っている。
貧しい家の者は救いと保護を求めて聖女となり世界樹に尽くすことを誓う者も多いが、家柄のある者たちの間ではあまり多くはない。
贅沢で自由な暮らしが出来るのに、自らの時間を祈りに捧げるなんて、そんなことは出来ないそうだ。

 生徒たちで賑わう廊下を進み、祭壇へ続く扉を開く。
中ではマレト施設長と、ペザロ副施設長、アリナとその両親と思われる夫妻、彼女のごく親しい友人数名が並んでいた。

「私、アリナは、聖女として活動するにあたり、必要な知識と技能を身につけ、また、その善良なる心により、ここで学んだ掟を守り、自らの意志で聖女となることを誓います」
「あなたが聖女として、心身共に健やかなることを祈ります」

 ペザロ副施設長の隣には彼女の友人が、それぞれ聖女の証である錫と世界樹の葉を模した冠を持ち控えている。
祭壇の中央にある世界樹を表したステンドグラスからは、午後の日差しが鮮やかに降り注いでいた。

「おめでとう。これからもあなたは私たちの仲間よ。アリナ」
「はい。ありがとうございます」

 ペザロ副施設長が冠を差し出すと、マレト施設長はそれを受け取る。
真っ白な聖女の衣装を着てひざまずく彼女の頭に、冠を授けた。
続いて錫を渡され、晴れやかな表情で立ち上がった彼女に、一同から拍手が送られる。

「おめでとう、アリナ!」
「よかったわね」

 聖堂で学ぶのは、世界樹とはどういう樹であるのかということ。
その歴史と関わり。
瘴気と魔物、アロマの関係。
世界樹に自らの寿命を捧げ祈りながらも、自分の身を守る方法。
誹謗中傷への対処方と、その救済の求め方。
体調の管理と祈りの時間を、聖堂に届け出ることやそれによって受けられる保護の手続きの仕方等々……。
それら全てを修了したと認められたものに、「聖女」の称号を名乗ることが許され、自ら申請することで、ようやくその活動が許可される。
一般的な学校のような、「入学」「卒業」といった概念はなく、知識を身につけたと認められた本人が「聖女になる」と決めたその日から、彼女たちは聖女となる。

「ルディさま!」

 離れたところから拍手を送っていた私に、アリナが気づいた。キラキラと眩しく光る真っ白な衣装を身に纏い、駆け寄ってくる。

「ルディさま。私、聖女となることに決めたのです」
「そう。これから頑張ってね。ここはもう出て行くの?」
「はい。それでお家のパン屋を手伝いながら、祈ろうと思っています」
「素敵ね。またいつでもここへ顔を出してくださいな。もちろん美味しいパンも一緒ですわよ」
「はい! お世話になりました」

 賑わう祭壇を後にし、聖堂の執務室へ入る。
この部屋にいる間は聖女見習いの生徒としてではなく、聖堂を管轄する王女として働いていた。
それほど広くはない部屋の壁には本棚が並び、びっしりと資料や記録が詰め込まれている。
書斎机の上には決裁を待つ書類が並んでいた。

 仕事をしていた方が楽だなんて、そんな風に考える日が来るなんて思わなかった。
この仕事に就くことは、聖女にはなれない自分にとって、義務であり贖罪のようなものだった。
背もたれの高いフワフワの椅子に腰かけ、ぼんやりと書類の束を眺めている。
窓から差し込む日差しが、いつの間にかすっかり午後の日差しに変わっていた。
この部屋に入ってぼんやりとしたまま、気づけば数時間が過ぎている。
仕方がない。
少しでも進めるかと、ようやく書類に手を伸ばした時、ノックが聞こえた。

「入っていいか?」

 リシャールの声だ。
気づけばすっかり日は傾いている。

「どうぞ」

 そう言い終わるか終わらないかのうちに、扉は開いた。
お姉さまとお茶会をした時そのままの格好で、紅い髪の精悍な王子が入ってくる。
手にはお姉さまの髪に挿したのと同じロネの花を持っていた。

「なんで茶会に戻ってこなかったんだよ。俺の邪魔はどうした」
「邪魔したら邪魔したで怒るくせに、邪魔をしなくても私に怒ってらっしゃるの?」

 淡く上品なピンク色の花をくるくるともてあそびながら、彼は表情のないまま机の角に腰掛けた。

「マートン卿と出て行くから。どうしたのかと気になっただけだ」
「着替えに行くと言いましたけど」
「一緒に着替えたっていうのか」
「マートンと? そんなことしませんわよ」
「分からんな。一緒に席を立ってから、戻って来なかったのは事実だ」

 彼は持っていた花を私の頬にぐりぐりと押しつけたかと思うと、すぐに引き戻し自分の口元を埋めるようにしている。

「彼になにを言われたか知らんが、あんな男の言うことなんか、気にするな」
「何を話したかもご存じないのに、どうしてそのようなことが言えるのかしら」
「聞かなくても分かるだろ。くだらん」

 彼は花を胸のポケットに挿すと、腕を組み天井を見上げている。
何を考えているのかさっぱり分からないところは、王子のフリをしている時でも、そうでなくても変わらない。

「それより、こんな所で暇潰しをしていてもよろしいの? 今日も一人、新たな聖女が旅立ちましてよ。下の階に残っている未来の聖女たちを、口説き落とさなくて大丈夫なのかしら」
「どうも俺の魅力は、ブリーシュアの女どもには伝わらんらしい」

 リシャールは天井にはめ込まれた板の数を数えるような顔をしたままだ。

「本国に戻れば、誰も俺を放ってはおかないのにな。なぜだ」
「あら、それほどおモテになりますの?」

 彼はようやく振り返ったかと思うと、紅い髪と紅い目で、妖艶な笑みを浮かべる。

「知りたい?」
「結構です」
「ふふ」

 リシャールは微かに声を漏らすと、また天井を見上げた。
ようやく機嫌を戻したかのように、足をブラブラさせている。

「王城の、君の部屋にいるのかと思って訪ねて行ったら、ここだって聞いて来たんだ。またその制服を着ているとは思わなかったよ」
「これは私の普段着でもありますので」
「うん」

 今度はにこにこしながら、やっぱり天井を向いている。
彼がずっとそこから動こうとしないから、私にはどうしていいのか分からない。
にらめっこを続ける天井は、ただ高くて真っ平らなだけの木の板だ。
じっと黙ったまま動かないその人に、私の方がなんだか居心地が悪くなる。

「何か、ご用があったのではないのですか?」
「うん? あぁ。……。今日の……、あの、黄色のドレスは、新しいものだったのか?」
「え? どうして?」
「違うのか?」
「それが、あなたが気になりますの?」
「いや……。そうでもない」

 本当に、この人はなにをしに来たのだろう。
天井と壁を眺めてばかりの煮え切らない態度に、だんだんイライラがこみ上げてくる。

「お姉さま以外に、めぼしい聖女さまは見つかりまして? 早く下へ行って、素敵な聖女さまをお探しになったらどうかしら」
「それでもあの、マートン卿に敵わないのだから情けない」
「リシャールは、何を言ってるの?」

 彼はようやく、机の角から飛び降りた。

「なぁ、ルディ。君はあのマートン卿の、どこに惹かれてるんだ? 俺にはその良さがさっぱり分からん」
「そんなこと!」

 ドン! と、両手を机に叩きつける。
思ってもいなかった自分の行動に、自分で驚いている。

「どうして私があなたにお伝えしなければならないのでしょう。そうね、強いて言うなら、あなたと全てが真逆なことかしら」
「なるほどね。だから俺に興味がないわけだ」

 またロネの花を私の鼻先に押しつけると、こっちから自分に喧嘩を売ってこいと言わんばかりの視線を投げる。

「見る目がねーな。そんなんだから、お前はモテねぇんだぞ」
「そ、それが何か関係あります?」
「大アリだね」

 彼は持っていたロネの花を、私の髪に挿した。

「聞いたよ。君のお姉さんのこと」
「お姉さまって?」
「ミレイア第二王女さまのこと」

 エマお姉さまだ。
私とマートンがいなくなった時、この人に話したに違いない。
そう言われればミレイアお姉さまの髪は、この人と同じように燃えるような紅い髪をしていた。

 あの人はとても明るくて活発で、私以上にお転婆で侍女たちの手を煩わすような人だった。
自分の感情に真っ直ぐで、気に入らない野菜のスープが出てくれば、皿ごと床に投げつけていたし、王女という立場を利用して、世界中を見て回るのが夢だとも話していた。
将来は魔物を狩るハンターズギルドを自分で作り、全てを狩り尽くしてやるとまで言っていた。
好き勝手に振る舞うミレイアお姉さまに、エマお姉さまはいつも困っていたし、私はただ呆然と見ているだけしか出来なかった。

「エマさま以上の、魔力の持ち主だったらしいね」
「そうよ。お姉さまが樹液の欠片に触れるのを初めて見た時の、あの光景が忘れられませんの。真昼だったのに周囲が暗く感じるほど光ったのよ」

 部屋の中に、もう一つ別の太陽が現れたようだった。
凶暴なほど強い光が、周囲の人間の目まで眩ませてしまった。

「おかげで誰も、彼女のわがままを止められなかったんだろ?」

 エマお姉さまは、今も悔やんでおいでなのだ。
あの自由闊達だったお姉さまのことを。

「聖堂の、多くの聖女たちからも心配されていました。世界樹の管理を司る神官たちからもです。その頃はまだ聖女見習いとしてこの聖堂で学んでいたエマお姉さまも、止めたのだけれど……」

 たった一度。
たった一度だけのことだった。
自分も祈ると言って、まだ11歳のミレイアお姉さまが、世界樹の前にひざまずいた。
聖女たちに混ざり、普通に祈り終えたかと思った瞬間、彼女の体は砂の山が崩れ落ちるようにその場に倒れたそうだ。

「……。時折、報告される内容だ。強すぎる魔力を持つ者は、一瞬にして生気を奪われると」

 祈っていた時間は、5分もなかったという。
世界樹の前にひざまずく数分前まで、王城の庭で泥だらけになって走り回っていたお姉さまが、もう息をしていなかった。
怒った父は、城内にあった世界樹を守る神官たちを全て追い払い、エマお姉さまのいた聖堂だけが残った。

「日頃の振る舞いが……。それほどよくはなかったから、神の怒りに触れたとまで言われたのよ。だけど、そんなことがあるわけない」

 ミレイアお姉さまの死は、城内での事故死とされた。
エマお姉さま以上に、聖女としての役割を期待されていたのに。
いつも優しいお姉さまが、父である王に食ってかかり、一時期は王命で自室に幽閉までされていた。
誰も何も悪くない。
それはみんな分かっているのに……。

「エマさまは、『本当は私もルディも、世界樹のことが嫌いなの』とおっしゃっていたよ」
「そうね。本当は大嫌いよ」

 忘れていた涙が滲み出す。
それでも私は、自由なミレイアお姉さまに、心の底では憧れていたのだ。
あんな風に振る舞えたら、どれだけいいだろうかと。

「私には、どうあがいたって聖女にはなれない。だからその代わりに、数多くの聖女を送り出すことに決めたの。あの可哀想なお姉さまみたいな人を、もう見たくはないの」

 エマお姉さまは、お父さまの反対を押し切って聖女となる道を選んだ。
自分の進むべき道を、自分で選んだんだ。
自分の妹を守れなかったことを、救えなかったことを抱え込んだまま。

「エマお姉さまは私におっしゃったの。ルディが聖女じゃなくてよかったって。だけど私は、そのことをありがたいと思ったことなんて、一度もないわ」

 だからこの灰色の制服に誓う。
聖女でなくとも、聖女であれと。

「君たちは、とても強いんだね」

 リシャールの手が伸び、私の頬に触れようとして、動きを止めた。
代わりに耳元に挿したロネの花を指先で撫でる。

「なぁ、少し歩かないか」
「どこへ?」
「散歩だよ」

 窓の外には、すっかり午後の日差しとなった緩やかな光りがさしていた。

「結局俺は、君に城内を案内してもらっていないのだが?」
「そんなお約束、いつしましたっけ」
「とぼけるなんて、君らしくないじゃないか」

 そんなふうにフッと斜めに構えて煽られたら、行かないわけにはいかない。

「まぁ、少しだけならよろしくてよ」

 書斎を出る。
すれ違う灰色のワンピースの乙女たちはスカートの裾を持ち上げると、片膝を曲げて私たちに礼をした。
それににこやかに応えながら、聖堂を後にする。

「どこを案内すればよろしくて?」
「そうだな。いつも君が通る道とか?」
「そんな所が知りたいのですか?」
「別に。君と歩くなら、どこだっていいんだ」

 そんなことを言われても、城内をただ並んで歩いて、なにが楽しいのだろう。
聖堂から続く緩やかな芝生の小道を渡りきり、城の中に入った。
石造りの回廊を、彼はゆったりとした歩調のまま私の隣を歩いている。

「城内は、全てよく知った場所ですわ」

 高い城壁に囲まれた一つの街のような城で、私は生まれ育った。
城の中のことなら、知らない場所はない。

「この廊下は、城でも1、2番に広い廊下なの」
「あぁ」

 話しかけてもろくに返事もせず、本当に私について来るだけだ。
案内しようにも、どこをどう案内していいのか分からない。

「ねぇ、どこか行きたいところや、見たいところはないの?」
「だったら、ぐるりと城内を一周しよう。君の行きたいところでかまわない」

 だから、私の行きたいところなんてないのに。
困ってしまい立ち止まると、彼も一緒に立ち止まった。
穏やかな表情を変えることなく、じっと私を見下ろす。
どうしようかとチラリと見上げたら、彼は私にしか分からないほど微かな笑みを浮かべた。

「ここがルディの好きな場所?」
「いいえ! ただ立ち止まってみただけ」
「そう」

 リシャールはこんなことをして、どうしたいのだろう。
私なんかと一緒にいたって、なんの得にもならないのに。
それでも彼は、なぜか楽しそうだった。
再び歩き始めた私に、今度は彼が話しかける。

「あの建物はなに?」
「物見の塔よ。昔は、戦争が盛んだった頃は、兵士が付きっきりだったみたいだけど、今はただの展望台よ。見晴らしはいいけど余り広くはないから、お部屋にするには不向きなのよね」
「あそこの四角いのは?」
「下級役人の官舎よ。近づいてもいいけど、あまり入り込みすぎると嫌われますわ」

 左手に城壁を見ながら、ゆっくりと歩き続ける。
リシャールはあれこれ質問してくるわりに、返ってくる返事にはほとんど興味なさそうだった。

「もっと、君が普段足を運ぶようなところが見たいな」
「広間の方とか?」
「いいね」

 複雑な迷路のようになっている回廊から、城本体の建物に入る。
人通りの少なくなった回廊で、彼はそっと私の手を握った。

「この廊下は、聖堂へ通る道?」
「そうね。外に出るためには、ここかもう一つ向こうの階段を降りる必要があるの」

 繋いだ手の指が絡む。
強く握ってきた彼の手を、私も握り返した。
しっかりと繋ぎ合ったまま、私はもう一方の手で、建物の合間に見える広場を指す。

「あそこが、いつもあなたの姿が見えるところ」
「あぁ、いま借りている部屋から近いんだ。あそこからなら、王城の全体がよく見渡せる」
「知ってるわ。いつもそこから、城を見上げているもの」
「へー。そうだったんだ」

 朝起きて一番に窓の外を確認する。
あまり早いとあなたはまだ出ていなくて、ずっと気にしていると侍女たちが怪しむから、私は聖堂へ向かう回廊に出るまで、紅い髪を探すのを我慢している。

「あの円形広場はね、お城の一番大きなテラスから見下ろせる位置にあるの。兵士たちの御前試合や式典が行われる時には、時々使われるわ。城内のどの場所にいても、よく見えるから」
「そうなんだ」

 リシャールの横顔が、すぐ隣にある。
繋いだ手を、きゅっと握りしめた。

「だいたいいつも同じ時間ね。食事の出される時間は私のところもあなたのところもあまり変わらないから。それが終わって、すぐに出てくる時と、そうでない時がある」
「はは。俺だって、遊んでいるばかりじゃないからね。他の用もある」

 だからあなたの姿が見えない時は、少しがっかりして、聖堂で待っているの。
来たらすぐに分かるわ。
生徒たちが騒ぎ始めるから。
そしたら「あぁ、来てくれたんだ」ってほっとして、私は自分の仕事に区切りをつけるの。
生徒として下の階へ降りていって、あなたがいつも来ている聖女のように白い服と紅い髪を探すの。
他の女の子たちと話している姿を見て、ドキドキしてイライラしたり、呆れたり。
あなたが私に気づいて振り向いてくれるまで、話しかけてきてくれるまで、ずっと順番を待っていたわ。

「君を見つけるのは大変なんだ。他の子たちと同じ、灰色の制服を着ているからね。そのアプリコット色の髪も、よく似た色合いの子は以外と多いんだ」
「他の方と、私を間違えるの?」

 握った手をぎゅっと強く引いたら、彼は申し訳なさそうに笑った。

「あはは。仕方ないじゃないか。みんな同じ制服を着てるんだ」
「それでも、間違えないでほしかった」
「ルディ。俺の話をしよう」

 小さな芝生広場を見下ろす空中回廊を、ゆっくりと進む。
リシャールの紅い前髪がふわりと揺れた。

「レランドという国は、砂漠に近い国だ。街を離れればすぐに、砂の世界が広がる。そんなところにでも、湧き水があり人や生きものの世界がある。レランドにも、世界樹の葉は茂っているんだ」

 本当にあの樹は不思議な樹だと、リシャールは言った。
レランドでは固い岩盤の上にも、世界樹が生えているらしい。
夜の寒さにも昼の暑さにも耐え、岩と砂の世界の中でも、万能薬となる緑の葉を茂らせる。

「俺には腹違いの弟妹がいてね。双子なんだが、妹の方が『聖女』だったんだ。それまで我が一族のなかに、聖女の資質を持って生まれてきた者なんていなかった。すぐに二人は『処分』されたよ。聖女の生まれる確率なんて、遺伝でもなんでもなく、ただの偶然とされているのに。レランドの王族に今まで聖女がいなかったのは、いなかったんじゃない。『いない』ことにされてたんだ」

 聖女がいないと、世界樹は育たない。
リシャールの国では、世界樹は命の樹とされている。
人の命を救う代わりに乙女の命を奪う、悪魔の樹だ。

「君たちのいう『聖女』は、俺の国では樹の生まれ変わりだとか、妖精と呼ばれている。どちらにしろ、人というより魔物に近い扱いだ」

 樹を取り囲むように壁が築かれ、「聖女」と認定された者は、一生そこから出ることを許されなかった。
今ではそういった制度は廃止されているとはいえ、人々の間に偏見は根強い。

「魔物と交わった女に、『聖女』が生まれるとまで言われている。夜な夜な現れる樹の化身に、見初められたってね」

 その弟妹は母親に連れられ、城を出てしまったという。
幼い頃に幾度か顔を合わせたことのある幼い二人の姿が、今も忘れられないそうだ。

「かわいらしい子だったんだ。二人とも。そのまま一緒に育っていたら、どうなっていたんだろうと思う。父は探そうともしていない。まぁ、彼らを追い出したのは、王妃の仕業だなんて言われているから、そう単純な話でもないんだろうけど」

 私たちは手を繋いだまま、その庭へ降りた。
ここからは城の様子がぐるりと見渡せる。

「砂漠の真ん中にポツリと立つ世界樹は、とても不思議な存在なんだ。俺たちはその姿を見ただけで、安心する。生きているという実感を取り戻す。旅の仲間に聖女がいれば、樹の周辺には魔物も現れない。過酷な環境から、生を取り戻したような感覚になるんだ。魔物を呼び寄せる魔樹から、命を救う樹に変える、そんな能力を持つ乙女たちが、王の子でありながら城にいられないなんて、おかしいじゃないか」

 リシャールが顔を上げる。
その視線の先には、エマお姉さまが世界樹の庭へ行くためにいつも通る回廊があった。

「だから、俺はエマさまに目をつけた。伝統ある由緒正しい国のお姫さまで、しかも聖女だ。高嶺の花とはいえ、俺だって身分的に申し分ないだろう?」

 その回廊を、聖女たちの隊列が通ってゆく。
祈りの時間は決められているから、決まった時間にここに出ていれば、必ず姿が見られる。
真っ白な衣装を着て歩くその隊列の中に、お姉さまの姿はなかった。
今日の礼拝の当番ではなかったのだろう。
リシャールの紅い目は、それでも過ぎてゆく白い隊列を追いかけていた。

「美しい人だと思った。俺の妻となるに相応しい人だと。レランドは新興国家でブリーシュアの財力に劣るかもしれないが、降嫁先の条件としては悪くない。もちろん簡単に進む話ではないと分かっていた。だがそれでも、こんなにも思い通りにならないとは、思わなかったな」

 彼は丸い円形広場の、芝生の上に腰を下ろした。
繋いだ手に引かれ、私も隣に並ぶ。

「好きとか嫌いだとか、そんなものは必要ないと思った。俺たちにとっての結婚なんて、そんなもんだろ。だったら一番有効で利益ある、いい結婚にしたいと思っていた。どんな国に生まれても、王族なら同じことを考える」

 秋が近づき少し涼しくなった風が、ぽっかりあいた王城の隙間のような庭に流れ込んでくる。
繋いだままの手は、どこまでも彼の体温を伝えてくる。

「正直な話、エマさまじゃなくてもよかった。身分があり聖女であるなら、誰でもよかった。それを調べ上げたら、丁度いい相手が、エマさまだったってだけで」
「お姉さまには、マートンがいるわ」
「やっぱり君も、ああいうのが好みなのか?」

 マートンのことは、ずっと好きだった。
お姉さまとの関係に気づいてからも、私の求める理想の相手、そのものだった。

「君の好みがアレだというのなら、やはり諦めるしかないな。俺はマートン卿にはなれない」

 繋いでいた温かな手が離れる。
彼は芝生の上にごろりと横になった。
急に涼しくなった風が頬を撫でる。

「マートンは、私にとって理想の相手であり憧れの方だということです。たとえ彼の想う相手が別の方であったとしても、この気持ちに変わりありませんわ」
「そうか。それは残念だ」

 芝生に寝転がる、この人の隣に私も横になった。
彼の求める相手が聖女だというのなら、私も聖女にはなれない。

「あなたにもきっと、そのうちよい相手が見つかりますわ。演技なんてなさらなくても、そのままで十分素敵でした」
「はは。それでも俺は、演技を続けるよ。それも俺の一部だ。気になる相手に振り向いてもらおうと思えば、多少は自分の見せ方というのにも、工夫は必要だろ」
「気になるお相手が、他にもいたのですか?」
「まぁね。だがその方に合わせたやり方というのが、最後まで分からないままだ」

 知らなかった。
どんな人だろう。
聖堂の乙女? 
城内で知り合った他の人? 
それとも、レランドの国内に残してきたとか……。

 寝転がったリシャールが、紅い目を閉じる。
仰向けになっている彼の手に、自分の手を重ねた。
次にこの手に重ねる人は、どんな人だろう。

「……。その方が、うらやましいですわ。あなたのような方に愛されるのなら」
「そうかな。もしそうなら……。そうだと、いいな」

 空に向けられた目は閉じられたままで、彼は遠いどこかへいる人に向かって話しているようだった。

「レランドに帰る。国から連絡が入った。戻ってこいって」

 寝転がったこの人の手に、重なる自分の手を見ている。
いつかそうなることは分かっていた。
だからそんな言葉にも、動揺したりなんかしない。
私は起き上がると、頬にかかる髪をかきあげた。
彼の手がぎゅっと私の手を掴む。
紅い目は閉じられたままで、私は彼の眠っているような顔の輪郭を、視線でなぞっている。

「近々、城で送別会が開かれるだろう。そこに君も来てくれるか?」

 指と指が絡み合う。
もう二度と、綺麗に丸まったこの爪の先を、これほど間近に見ることもないのだろう。
彼の整えられた爪の先に、指をそっと這わせる。

「もちろん。お別れの挨拶くらいさせていただきますわ」
「ありがとう」

 その言葉を最後に、彼は動かなくなってしまった。
わずかに開いた唇の隙間から、かすかな寝息が聞こえてくる。
「エマお姉さまじゃなくていいの?」という言葉が何度も何度も頭に浮かんでは、それを無理矢理消し去っている。
最後の最後まで、自分で自分を傷つける必要もないにちがいない。

 涼しくなった空気の上から、温かい日差しが照りつけている。
重ねた手はそのままで、私ももう一度横になると目を閉じた。
ウトウトとまどろみながら、この先のことなんて何にも思いつかない。
もしも願いがあるとすれば、このままずっとここで眠り続けることだ。
ぽかぽかと温かい日差しに、意識が遠のいてゆく。
聞き慣れた侍女の声に、ふと目を覚ました。

「ルディさま! このようなところでお休みになるなんて!」

 時間としては、ほんのわずかだったと思う。
侍女は私の上にバサリとブランケットをかけた。

「城中から丸見えですよ。お二人ともこんなところで、何をしていらっしゃるんですか!」

 リシャールの方にも、いつも一緒にいる従者のダンが駆け込んで来た。

「おいおい。いくらなんでも自由過ぎるだろ。二人とも」

 彼の声に、リシャールもようやく起き上がる。

「風邪ひくぞ」
「ひかねぇよ」

 リシャールは寝ぼけたような顔で、こちらを振り返った。
何かを言いかけるように口を開いて、すぐ閉じる。

「ではこれで、失礼する」

 こんなところでカッコつけたって、今さらどうしようもないのに。
彼はのろのろと立ち上がると、ダンに引き取られるようにして行ってしまった。

「ルディさまも早くお立ちを! こんなところで、いくらお相手がリシャール殿下とはいえ、度が過ぎます!」
「ごめんなさい。私もうっかりしていたのよ」

 回廊や部屋の窓から、城中の人がこちらを見て見ぬふりをしている。
注目されることには慣れているけど、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

「少し部屋で休みます」

 肩にかけられたブランケットを引き寄せる。
ふと立ち止まり振り返っても、もうそこに誰も残ってはいなかった。




第7章

 

 ずっとこの城にいることが当たり前のようになっていたのに、その日常がなくなろうとしている。
リシャールの帰国の日が決まり、送別会として夜会が開かれることになった。
それに出席できない聖女見習いの乙女たちへ別れの挨拶をするため、リシャールは聖堂へ姿を見せている。

「殿下がいなくなると、寂しくなります」
「いつでもレランドへ遊びにおいで。君たちなら大歓迎だ」

 彼は乙女たちに囲まれ、にこにこと愛想を振りまいている。
気の利いた冗談も優雅な仕草も、それらは全て彼の戦略であり演技だと分かっているのに、王子として洗練された極上の微笑みを自然なものとして受け入れてしまっている。
彼の言った通り、それも彼自身の一部だった。

「最後まで、営業活動は怠らないのね」
「これが俺の仕事だ」

 そうやってパチンと放つ軽薄なウインクにさえ、こんなにも胸が苦しくなる。

「前にダンが、ここでのあなたの様子を国の方々がみたら驚くだろうと話していましたけど、実際のところ、どうなのでしょうね」
「はは。たいして変わりないな。切り替えるタイミングが、ここでは回数の多いだけだ」

 次々と現れては挨拶をしていく乙女たちと、気軽に言葉を交わす。
手作りの花束と共に、乙女たちが一針ずつ刺繍したという世界樹の葉をモチーフにしたハンカチーフを贈られていた。

「ありがとう。こんな素敵なプレゼントは初めてだよ。今夜の夜会には、これを持っていこう」

 彼はその場で畳んだハンカチーフを胸に挿す。
その言葉通り、夜会に現れた彼は胸に聖堂の乙女たちから贈られたそれをちゃんと飾っていた。

 華やかな会場に、ひときわ目立つ紅い髪がサラサラと揺れる。
今夜の参加者は国内の上級貴族たちばかりのせいか、エマお姉さまのお誕生パーティーよりも、ずっと和やかな空気が流れていた。
昼間聖堂に顔を出していた時の動きやすい服装とは変わって、真っ白なレランドの気品ある正装で彼は現れた。
リシャールには、やっぱり自国の衣装が一番よく似合う。
王子としての風格が引き上げられるようだ。
ブリーシュアの風習とは異なる独特の仕草も、さらに彼を目立つ存在にさせている。
異国の香り漂う王子は、ここでも大人気だった。
美しく着飾った令嬢たちが、彼の周囲を取り囲む。
今日のために彼の髪色に合うよう仕立ててもらった淡いピンクのドレスは、見てもらえているのかな。
自分のアプリコット色の髪とも合わせてもらったのに……。

「ルディは、お別れの挨拶をしなくていいの?」

 黒に金糸の刺繍を纏った、ナイトの正装でマートンが声をかけてきた。

「もう聖堂で済ませましたので」

 マートンはにこにこと目元を緩ませながら、それでもからかうように私を見下ろす。

「特別なお別れは、芝生の上で済ませた?」
「マートンも見てたの!」
「あはは。城中の人間が見ていたよ。ルディとリシャール殿下が昼寝をしているところ。びっくりした」

 マートンがこんな風に、私をからかうなんて珍しい。
彼は私の手を取った。

「今夜は、殿下とは踊らないの?」
「さぁ。そんなこと分かりませんわ。お誘いがあれば考えますけど」

 帰りたい。
マートンがいるということは、エマお姉さまも遅れて顔を出すということだ。
華やかな音楽が鳴り響く。
リシャールは一人の令嬢をダンスに誘った。
あの人は聖女だったっけ? 
彼の気になった人? 
そんなくだらないことばかりが頭をよぎる。

「だったら、僕と踊ってくれるかい?」

 マートンが手を差し出した。
彼にこうやって誘われることが、どれだけうれしかっただろう。
夜会があると聞く度に、マートンは行くの? 今夜は誘われた? と無邪気にお姉さまに尋ね、彼からダンスに誘われるのをじっと楽しみに待っていた。

「もちろん。喜んで」

 その手に自分の手を重ねる。
マートンは静かに微笑むと、ゆっくりとステップを踏んだ。

「聖堂の仕事はどう?」
「順調よ。火事の事故処理もすんだし、修復工事も全て完了しましたわ。おかげで中の改装工事もできたし。退所していった乙女たちとの連絡網も、新しく作りましたの。受け入れ人数にも少し余裕が出来たから、新しい方をお迎えしてもいいわね。どこかで誰か……」

 ずっと一人でしゃべり続けていることに気づいて、おしゃべりをやめマートンを見上げる。
彼はじっと静かに、私の話し終えるのを待っていた。
こういう時は彼から、とてもいい報告があるのか悪いことがあるのかの、どちらかと決まっている。

「どうしたの、マートン。何かお話があって、私をダンスに誘ったの?」
「エマが、ルディの助けがほしいって言ってる」
「お姉さまが?」

 広いホールの中央では、数組のカップルがダンスを続けていた。
リシャールがいま踊っているのは、ナタン伯爵令嬢のカトヤだ。
リシャールに耳元でささやかれ、彼女はくすぐったいような顔をしてうつむく。
カトヤはとても明るくて賢くて、白い肌に柔らかな頬と唇がとても可愛らしくて、ダークブラウンの髪がリシャールの紅い髪とよく映える。
彼の想う人は、彼女だったのかな。
自ら「聖女」と名乗っていない女性は、聖女かどうかは分からない。
嫌がって隠す人も多い。
聖堂に通わなくても、聖女としての能力は生まれながらに持っている。
もしかしたら、彼女がそうだったのかもしれない。
だからリシャールは、彼女に惹かれたんだ。

「ルディ、どうしたの? エマを手伝うことに、何か問題でも?」
「え? あぁ。そうじゃないの」

 いつの間にかダンスは終わっていた。
マートンにエスコートされ、フロアの隅に移動する。
運ばれてきた赤いサララントの実のジュースを、彼は私に手渡した。

「もう聖堂の仕事にも慣れた頃だろ。ルディが成人を迎えるのはもう少し先の話だけど、その日はすぐにやってくる。他の仕事も頼めないかと、エマに探ってくるようお願いされたんだ」
「他の仕事?」

 聖堂以外の公務に就くということは、聖女見習いの制服を脱ぐということだ。
私はもう、聖女であるフリをすることすら許されないの?

「ルディ。君が今の仕事をとても大切にしていることはよく知っている。だからこそもっと、多くのことを見て、聞いて、知って、経験を増やしたらどうかと思ってるんだ」
「それだと、聖堂の仕事は減ってしまいますわね」
「君には出来ることがたくさんある」

 真っ赤なサララントの果汁が、あの人の目の色を思わせる。
すぐそばにいるのに、手の届かない人。

「もちろん、今すぐにというわけじゃない。今後のことを考えれば、早めに慣れておくのも悪くないんじゃないかな。まぁ、ゆっくり考えてみてくれないか」
「……。そうね、分かったわ」

 グラスの中の赤い果汁を、くるくると転がす。
王女として、いつまでもこのままではいられないよと言われているのだ。

「リシャール殿下もいなくなる。君が聖堂に残って、あれこれ気に病む必要もなくなる。早く楽になればいい」
「お姉さまには、近々よいお返事をしにいきますわ」
「よかった。期待しているよ」

 優しいマートンの微笑みには、いつだって安心させられる。
幼い頃からずっと見守ってきてくれた人だ。
風邪を引いた時も怪我をしたときも、大好きなぬいぐるみをなくして泣いていた時も、この人はいつも助けてくれた。
マートンとエマお姉さまが喜んでくれるなら、なんだって出来る。

「そうだルディ。今度ダオランの街にね、新しく出来た……」

 不意にマートンはおしゃべりを止め、一礼すると後ろへ下がる。

「失礼。邪魔したかな」

 リシャールだ。
二人の時なら悪態をついて髪の毛やスカートの裾を引っ張ってくるくせに、今は上品なよそ行きの笑顔を崩さない。

「リシャール殿下。あなたがいなくなると、この城も寂しくなります」
「まさかあなたのような恋敵がいるとは、思いませんでした。私の最大の誤算ですね」
「お戯れを。私など殿下の足元にも及びません」
「いやいや、完敗ですよ。おかげで手ぶらで帰国することになりそうだ」

 マートンが恐れ入るように頭を下げる。
リシャールは美しく整った高貴な目を、私に向けた。

「ルディさま。私とダンスをするのは、もうお嫌になられたかな?」

 すました顔をして平然と誘うこの人に、私だってちょっとは困惑している。

「まぁ。そんなことはありませんわよ」

 渋々差し出した手に、彼の手が添えられた。
腰に回された手が、私をエスコートする。

「よかった。君に嫌われたままここを去るのは、心残りだったんだ」

 ふわりとしたリードで、ダンスが始まる。
彼の腕の中で小鳥の卵にでもされてしまったような感覚だ。
そんなに大事そうに恐る恐る丁寧に扱わなくても、今さら壊れたりなんかしないのに……。

「どうされたのですか。私になんか優しくしても、なんの意味もありませんのに」
「意味なんてあるかよ。ただ俺がこうしたいから、やってるだけだ」

 リシャールが王子の微笑みを浮かべる。
私が聖女でないと知ってから、一度も向けられることのなかった笑みだ。
最後にこんなことをしてくるなんて、本当にズルい。

「……。殿下が、いつも楽しそうにしておられるのを、遠くからお見かけするのが唯一の楽しみでした」
「もっと近づいてくればよかったのに」
「あなたとここで過ごした日々は、決して忘れません」
「ふふ。そうだな」

 繋いだ手が高く持ち上げられた。
触れているのも分からないくらい、腰に軽く添えられただけの腕で、くるりとターンする。
紅い目がじっと私を見つめているのに、会場の片隅がどよめいた。
リシャールの視線は、たちまち会場へ現れたエマお姉さまに奪われる。

「あなたの恋が報われないことに、ほっとしましたわ」
「どうして?」
「だって、そんなことになったら、私が困りますもの」

 彼とのステップに、もう力強さは感じない。
初めてこの人と踊った時の、あの焼け付くような情熱は、やっぱり私に向けられたものではなかった。

「君を困らせるようなことばかりを、俺はずっとしていたんだな。そうか。この先は全部、忘れてくれ」

 真っ白なお姉さまの聖女服が、目に眩しい。
キラキラと輝く純白の衣装が、こちらへ近づいてくる。
エマお姉さまは、明らかにリシャールが踊り終わるのを待っていた。
彼の視線もまた、お姉さまへ向けられる。
顔を出すのは分かっていたけど、こんな時にまで、この人がお姉さまにひざまずく姿を見たくはない。
音楽は終わりを迎えた。

「さようなら。よい旅路を。無事の帰国をお祈りしております」

 まだ踊りきっていないのに、私は彼の腕から離れた。
一歩早いタイミングで、膝を折り礼をする。
彼が頭を下げた瞬間、背を向けた。

「ルディ、待て!」

 走ってはいけないと分かっているのに、足が止まらない。
それは勝手に動いて、階段を駆け上がる。
後ろを振り返りたくても、怖くて出来ない。
お姉さまが来ていた。
彼は追いかけて来ない。
そういうことだ。

 夜の闇がテラスを包み込んでいる。
ようやく一人になれた。
ひんやりとした手すりにしがみつくと、そこに顔を埋める。

やっと分かった。
私は好きなんだ。
彼のことが。
こんなにも胸が高なるのも、どうしようもなく苛立つのも、楽しくて仕方ないのも、腹が立って眠れなくなるのも、あの人のことが好きだからだ。

紅い髪が揺らめくのを、視線の先が見ているものを、彼の指が触れるものを、もう知ることが出来ない。
あの人の話す声が、聞こえてくる言葉が、私に向けられたものでなくても、聞いていたかった。
遠くで見ているだけでも、彼に見られているのならそれでよかった。
出来ることならいつまでも側にいたい。
だけど、あの人が本当に望む側にいたい人とあの人が一緒にいるところは、絶対に見たくない!

 流れ落ちる涙を拭う。
冷たい夜風が、火照った頬を冷ましてくれる。
遠くに行くのなら、行ってしまえばいい。
きっと彼は、いつか自分の望みを叶えるだろう。
だったら私も、忘れるだけだ。
もう二度と会うこともない。
大丈夫。
マートンのことだって大好きだったもの。
それでもお姉さまとの幸せは祝えるのだから、彼のことも平気よ。
そもそもリシャールにとって私なんて、なんでもないんだから。

 肺に溜まる濁る空気を、一気に外へ吐き出す。
新たに吸い込んだ冷たく新鮮な風に、体ごと生まれ変わったみたいだ。
空には月が出ていて、星は見えない。
彼がこれから旅立つレランドは、南西の方角にある。
そこからでもきっと、同じ月はみえているだろう。
自分でもバカなことをなんて分かってる。
それでも繋がった同じ空の下にいることが、今の私にとって唯一の救いだった。

 夜会もそろそろ終わりを迎える。
冷えた体を抱きしめた。
今日はもう帰って早く眠ろう。
こっそりと振り返ったホールでまだ夜会は続いているが、部屋に戻っても問題のない時間帯だ。
誰にも見つからないよう部屋に戻るには、どうしたらいいだろう。
ここからだと、一旦ホールに戻るしかない。
もう少し待って、人が減ってくるのを待とうか。

 冷たい夜風に、指先が震える。
あの人がいなくならないことには、このパーティーは終わらない。
早く帰ってくれないかな。
別れ難い人との最後の逢瀬を楽しんでいるのなら、さっさと抜けだして二人きりになってしまえばいいのに。

 自分の息を吐きかけながら、指先を温める。
そうだ。
ここからならあの人が部屋に戻る時に、回廊を渡る姿が見えるかもしれない。
それを確認したら、私も出よう。

 テラスの隅へ移動する。
かじかむ手を抑えながら、身を乗り出した。
夜会に出席していたカップルが、退出を始めている。

「ルディ!」

 頭上から声がして、思わず空を見上げた。
リシャールが屋根を伝ってテラスに飛び降りる。

「ちょ、どこから来て……!」

 不意に彼の手が私の口元を塞いだ。

「静かに。ここじゃすぐに見つかる」

 彼は慎重に辺りを見渡すと、片付けの始まったホールを背に、テラスの反対側へ移動した。
この下には、低木の茂みが広がっている。

「ここから降りられるか?」

 リシャールはそう言うと、二階のテラスから地面を指さす。

「降りるって、飛び降りるってこと?」
「そう。出来るか?」
「え? そんなの、無理に決まって……」

 人の近づく気配に、私たちは息をひそめる。

「先に行く。ちゃんと受け止めてやるから」

 片腕を手すりに乗せ、彼はヒラリと階下に飛び降りた。
真っ暗な茂みの中で、白い服を着たリシャールの腕が、私に向かって伸びる。

「おいで」

 月明かりに、紅い目と髪が誘う。
私は手すりを乗り越えると、迷うことなく彼の胸へ飛び込んだ。
ふわりと受け止めてくれたその力強い腕に、しっかりとしがみつく。
ぎゅっと抱きしめた背に、彼の手が回った。
痛いほど抱きしめたつもりだったのに、彼の腕は愛おしそうに優しく私を包み込む。

「行こう。こっちだ」

 茂みをかき分け静まりかえった城内を進む。
足音を忍ばせ、建物の壁に沿って月影を歩くこの人の、紅い髪を見ていた。
繋いだ手が、このまま離れなくなってしまえばいいのに。

「見ろ。いい眺めだろ」
「そうね。とっても素敵なところだわ」

 リシャールより私の方が城内に詳しいことは分かっているのに、彼は嬉しそうに高台へ案内する。
ここは王城の東にある夏の広場だ。
暑い時期には人工の池に舟を浮かべ、手前にある広い芝生に馬を並べて競い合う。
リシャールが私を連れ出したのは、そんな広場を見渡せる東屋だった。
風通りのよいこの場所は、夏こそ夕涼みに最適でも、秋の深まった今では、確かに人気はない。
幼い頃からよく座っている石造りのベンチに、リシャールと並んで腰を下ろす。
池には大きな月が浮かんでいた。

「不思議。ここでこうして並んで座ることがあるなんて、思いもしなかったですわ」
「明後日にはレランドへ戻る。こうしてゆっくり話す機会は……。いくらでもあるか」

 紅い目が笑っている。
もう会えなくなるのは分かっている。
だからそんなことを言うのね。

「そうよ。望めばいつでも会えるわ」
「はは。ならよかった」

 扇を広げ、笑った口元を隠すフリをして顔を埋める。
扇を持っていてよかった。
今にも泣き出しそうな顔を、夜の闇と一緒に隠せるから。

「初めてこの城で出会った時、もちろん俺の目的はエマさまだった。だけど君がいるなら、それでいいと思った。エマさまは予想通り素晴らしく美しい人で、一瞬で心を奪われた。だけどルディ、君がレランドに来てくれるなら、それでいいと思ったんだ」
「だけど私は、あなたの望む人ではなかったでしょう?」
「……。それは、そうなんだが……」

 言いよどむ彼に、にっこりと微笑んで見せる。
こうして会いに来てくれただけで、十分だ。
彼の特別な人になれなくても、私にとってあなたは、いつまでも変わらずそこにある人。

「私も殿下のことが……。好きになりました。それはもちろん、最初はなんて酷い人だろうと思いましたけど、それも誤解だと分かったからです。あなたの聖女を思う心と、国を思う心が本物だと知れたからです」

 だからこそあなたには、私じゃ駄目だったのだ。
触れたくても触れられなかった髪に手を伸ばす。
初めて触れた紅い髪は、想像よりずっとつるつるとひんやりしていた。
指に絡ませようとしても、するりとほどけてしまう。

「どうかこの先、殿下にもよい人が現れますように。あなたの幸せを、心より祈っております」

 両手の指を組み、世界樹へ祈るように彼に祈る。
目を閉じたのは、こぼれそうな涙を押し戻すため。

「君はこれからどうする? 聖堂の管理者を続けるのか?」
「お姉さまに手伝いを頼まれております。きっともうあの灰色の制服を着ることはないでしょう」

 彼はとても驚いたような顔をして、すぐに横顔を向けた。
怒っているように見えるのは、きっと私の気のせい。

「殿下も本国にもどれば、忙しい日々が待っているのでしょう?」
「だろうな。きっと忙しすぎて、すぐに君のことも忘れるだろう。君がそうやって忘れようとしているように」
「忘れろと言ったのは、あなたの方ですけど」
「俺がいつそんなことを言った?」
「まぁ、そんなことももう忘れてるのね」
「どうすれば分かってもらえる? 俺が本気だったってことを」
「お姉さまへのプロポーズ、とても素敵でした」
「そうじゃないだろ!」

 あなたはそうじゃなくても、それが現実だ。
私は聖女にはなれない。
だからそういうことにしておかないと、この恋は報われない。

「残念ながら、今回はこの国の聖女を差し上げることは出来ませんでしたが、またお越しくださいませ。その時には、殿下と寄り添えあえるような乙女が、聖堂にいるかもしれませんわ。そしたらその方が殿下の花嫁候補として、共に……」
「聖女かどうかなんて、関係なかったんだ」

 冷たい夜の風に彼の温かな手が私の頬に触れ、唇に触れる。

「それでも君がそう思うのなら、そうだったのだろうな。俺はその誤解を解いておきたかっただけだ」

 そっと胸に抱き寄せられる。
わずかに触れた頬が燃えあがる炎のような熱を持ち、彼の心臓を高鳴らせていた。

「私だって、聖女に生まれたかった……」

 呟いた肩を、彼はもう一度強く抱きしめる。

「君が何者だろうと、もう俺には関係ないんだ」
「ありがとう。リシャール」

 白く広い胸に顔を埋める。
激しく打ち付ける彼の心音の記憶が、これからの私を慰めてくれる。

「エマお姉さまとは、何をお話したの?」
「君を泣かすことは許さないって。ルディをレランドには渡せないって、そう言われた」
「聖女でもないのに?」
「聖女でなくてもだ」

 抱き寄せる彼の手が、私の髪をかき上げる。
このまま「好きだ」と言ってしまえたら、どれほど楽になれるだろう。

「元気でね。あなたにはあなたの役目があるように、私にも私の役割がある。私はここで、お姉さまを手伝うわ。あなたはあなたで、どうか思うままに、望む道を進んでね」

 手を伸ばし、彼の唇に触れる。
その形の確かめるように、指の先で輪郭をなぞった。
次にこの人が触れるのは、どんな令嬢のどんな髪だろう。
どんな柔らかな手に、この唇からキスを落とすのだろう。

「さようなら」

 背を伸ばし、そっとキスをする。
誰かの唇が、こんなに柔らかいなんて知らなかった。
ドレスの裾を持ち上げ、逃げるように東屋を後にする。
涙があふれ出す前に、彼の元を去りたかった。
泣いている姿なんて、見せたくなかった。
もつれそうな足を必死で動かす。
今にも転んでしまいそうな体で、ようやく自室にたどり着いた。
ベッドに倒れ込む。
誰もいないことが確かな部屋で、声を上げて泣いた。




最終章


 リシャールの帰国を翌日に控えたその日、聖堂に思わぬ客が現れた。

「わぁ。本当に城内の聖堂にいる、王女さまだったんですね」

 マセルだ。
ボスマン研究所にいたレランド出身の赤茶けた髪の研究者が、聖堂を訪ねていた。
リンダが案内役を務めている。

「なかなか立派な建物じゃないですか。実験設備もそれなりに整っているし」

 マセルはそう言って石造りの実験室の中を見渡した。
ボスマン研究所に行って、実際に中を見てきたから分かる。
ここの設備は、その足元にも及ばない。
聖堂で行われているのは、実験のまねごとみたいなものだ。

「研究所の方は、どうですの? 世界樹の庭の土は、お役に立てました?」
「あぁ、そのご報告をしなくてはいけませんね。その節は大変お世話になりました」

 エマお姉さまから陛下に申請が行ったのは知っている。
私も直接手紙を書いた。
許可が下りるのに、さほど時間はかからなかったように記憶している。

「無事、貴重な土は研究所に運び込まれましたよ。たった一握りの土ですが、それだけでも分析するには十分有り余る量でした。今は保存瓶の中に入れ、大切に保管されています」
「それで、分析結果は?」

 マセルの表情は、妙に落ち着いたままだった。
喜びあふれる報告を期待していた私に、リンダはゆっくりと首を横に振る。

「お庭の土は、ブリーシュアの他の土地の土と、全く変わりなかったそうよ」
「え? それでは……」
「はい。僕は研究所を首になりました」

 マセルはにっこりと笑顔を見せると、観念したかのように「あはは」と笑った。

「やはり僕には、ボスマン研究所のような高位の研究所は無理だったのです。レベルが高すぎました。せっかくリシャール殿下に高価な試薬まで用意していただいたのに。国に戻られると聞いて、それが申し訳なくて、ご挨拶がてら報告に来たのです」
「そうですか。それは残念でしたね」

 努力しても、どうにもならないことはある。
彼は彼なりにベストを尽くしたのだろうし、リシャールや私も協力は惜しまなかった。
少なくとも彼は、レランドでは優秀かつ期待の人物なのだ。

「それでも、悪いことばかりではないですよ。ボスマン研究所を首になった代わりに、殿下に王立の研究所へ誘われました」
「王立の研究所?」
「えぇ。これでもいちおう、僕も厳しい選抜を勝ち抜いて、推薦してもらった立場ですからね。その経験を生かして、これから立ち上げる研究所を手伝ってくれないかって」
「リシャールが?」

 マセルは「はい」とうなずいた。

「どうせこのまま、レランドに帰るつもりでここへ立ち寄ったのです。殿下の隊列に同行する形で、そのまま帰国の途につく予定です」

 レランドは、ここからとても遠い。
砂漠の民の暮らしも、話でしか聞いたことがない。
リンダがマセルに向きなおった。

「リシャールさまが、新しい研究所をおつくりになるの?」
「そうみたいですよ。今まであった研究所とは別に、新しい施設を作るって」
「それは、どんな感じになるのかしらね」

 ふとつぶやいたリンダに、マセルは力なく微笑んだ。

「さぁね。なにしろ、まだ何も決まってないみたいだから。僕も『行きます』なんて元気よく返事はしたものの、どうなるかなんて、何も分からないのです。なるようになるしか、ありませんね」

 彼はまるで、他人事のように笑っていた。

「ま、何とかなるでしょ。なんともならなくても、その時はその時です」

 何もかも設備の整った最高峰の研究所を追い出され、彼は傷ついているのだ。
かける言葉が見つからない。

「私には、あなたがうらやましいです。マセル」

 リンダは真っ直ぐに伸びた黒髪をサラリと揺らし、彼を見上げた。

「それでも行けるところがあり、チャレンジする場所があるでしょ。私には、ここしかないから」

 リンダはボスマン研究所から戻ると、実験室に籠もり出てこなくなってしまった。
彼女が長年続けていた研究は、彼らの興味を引くものではなかった。
彼女なりに、何かを感じていたのだと思う。
素人の私の目からみても、あの研究所は別格だった。
何をしていたのかは分からないが、リンダは聖堂に戻ってからもずっと作業を続けていたらしい。
本を読み装置を組み上げ、試薬を調合していたそうだ。
表情を沈ませるリンダに、マセルは寄り添うように微笑む。

「ここはとてもいい所だよ。君はここで頑張ればいい。整った環境で過ごすということは、それだけで十分幸せなことだからね。君のこれまでの実験は……。君だけのものだ。それを誰にも、否定される覚えはないよ」

 彼の言葉は間違いなく、リンダを慰めようと彼の本心から出た言葉だった。
だけどその気遣いが、余計に彼女を傷つけた。

「マセルは、私はこのままでいいと思ってるの?」
「思ってるもなにも、恵まれた環境にいて、僕にはうらやましいよ」

 彼は聖堂の実験室を、ゆっくりと見て回る。
聖堂の乙女たちが行っている実験作業を見学しながら、ただ黙って静かにその様子を眺めていた。
やがて外の植物園が見たいと、その場にいた乙女の案内を受け、出て行ってしまう。

「うらやましいのは、こっちの方なんだけど」

 リンダは不意に実験の詳細な経過を記録したノートを取り上げると、それを装置に向かって振り上げる。
ガラスで出来た繊細な器具を叩き割るかと思った瞬間、彼女は元あった机の位置にそれを投げつけた。

「ルディ……。私はね、めちゃくちゃ悔しいの。分かる? このままじゃいられない。自分がバカだったと思ってる。世間知らずだったって。マセルやボスマン博士に、そんな気はないって分かってても、私はバカにされたのよ。『かわいい』って言われて、うれしい? 私は全然うれしくなかった!」

 ボスマン研究所で教えてもらった通り、器具と試薬を新たに買いそろえ、何度試しても思うような結果は出なかった。
彼らが簡単に成功してしまう製法でも、彼女には難しかったのだ。
リンダの知識と実験の腕は、ここでは他に誰も並ぶ者のいないほど飛び抜けている。
それでもまだ、世界は広かった。

「私はどうすればいい? ねぇ、ルディ。どうすればいいと思う?」

 彼女の潤んだ瞳から、一筋の滴が流れた。
世界樹を育てる肥料を作る。
聖女がいなくても、枯れずに育つ世界樹を作る。
聖女として生まれ、聖女であるが故に捨てられた彼女にとって、それは自分の存在と価値を賭けた研究だった。
リンダを抱き寄せ、その肩を抱きしめる。

「私はいつでも、あなたの味方よ」

 リンダはそっと私の腕を払うと、その頬を濡らしたまま首を横に振った。

「少し一人にして」

 実験室を出て行く彼女を、追いかける者は誰もいなかった。
思えば彼女はいつも、一人で戦っていたんだ。
ここに彼女の質問に答えられる人間はいない。

 執務室に戻ると、聖堂を取り巻く雑務の処理を始めた。
私がここに居て出来ること。
それは聖堂に通う聖女候補の乙女たちが、聖女としてよりよい活動が出来るようにすること。
聖女として世界樹のために祈ることを決断してくれた彼女たちの人生から、聖女であることによって起こる困難を排除していくこと。
自分にとっては、生きがいとも言える仕事になっていた。
だけどそれも、もうすぐお終い。
私はお姉さまについて国の仕事を手伝うことになる。

 ふとリシャールの姿が頭をよぎる。
彼が腰を下ろした書斎机の角を見つめた。
彼も同じだ。
国に帰れば、王子としての仕事が待っている。
妻となる人を探しにブリーシュアへ来たと言っていたけど、それが叶わなかったことについては、どうするのだろう。
本国の女性を妻として選ぶのだろうか。
その人もやっぱり、聖女としての能力を持つ人なのかな……。
どこからかいいようのない寂しさがこみ上げてくる。
空はすっかり秋の空に変わっていた。
最後に彼と触れた唇の、その感触を確かめるように指を這わせる。
ドアがノックされた。

「どうぞ」

 わすかに開いた隙間からするりと滑り込んできたのは、リンダだった。

「リンダ? どうしたの?」

 彼女の漆黒の髪が、いつも何にも染まることのない黒い目が、決意に満ちまっすぐに私を見つめている。

「ルディ。私、レランドへ行っていい? ルディがいいって言ってくれたら、私はレランドに行きたい」
「どうして私の許可がいるの?」

 彼女は一瞬ビクリと体を動かした。
そんなこと聞かないで。
ずるい。
行かないでなんて、言えるわけない。
座っていた椅子から立ち上がる。

「行きたければ、行けばいいじゃない。きっと喜ばれるわ。大歓迎よ。聖女を連れ帰るのが、最大の目的であり望みだったのですもの」

 あの人に求められ、あの人に愛される条件を揃え、あの人を追いかけていけるのに、そうしない理由が分からない。

「私は、喜んであなたを送り出しましてよ、リンダ。推薦状が必要かしら? あぁ、きっとそんなものは必要ありませんわね。あなたは殿下とも親しく、殿下もあなたのことをよくご存じだもの」

 リンダの闇の底よりも黒い目が、じっと私を見つめている。
そうね。
私は行けないから。
求められてもいないし。
リンダの方が正解かも。
彼女は入ってきたまま、扉の前から動こうとしない。

「早くご挨拶に行った方がよろしいのではなくて? マセルも一緒なら安心ね。出立の準備は間に合いますの? 行くと決まったなら、お別れ会をしたかったのに、こんな急ではなにも出来ないじゃないの。荷物は? 他の方にちゃんとご挨拶はしたの?」

 そうか。
リンダが彼の求める人だったんだ。
ぴったりじゃない。
彼の理想の人は、こんな近くにいた。

「リシャールには、もう言ったの? もっと早く打ち明けてくれていたなら、こんな……」
「まだ言ってない。ルディの方が先だと思ったから」

 胸が痛い。
息が苦しくて、リンダをちゃんと見られない。
リンダはキチンとしているのに、私は全然出来ていない。

「いつから? いつから二人はそういう関係だったの? 私に黙って行くつもりだったのなら……」

 なんでリシャールと、あんなキスしたんだろう。
しなければよかった!

「殿下のことは関係ないの! そう思われるのがイヤだから私はここに来たのに! ルディはこのまま、離ればなれになっちゃっていいの!」
「いいわけないじゃない! どれだけ寂しくて辛いか、リンダには分からないの?」
「だったら、なんでそう言わないのよ!」
「じゃあ行かないでって言ったら、行くのをやめるの? そんなの、リンダじゃない!」
「え? ……。」

 彼女は潤んだ目で私を見つめた。

「私のことじゃないのよ。ルディのことを言ってるの」
「え? リンダがリシャールとレランドに行くって話でしょ?」
「それはそうなんだけど、今はルディの話でしょ」
「私の話って……」
「ルディは、レランドに行かないのかってこと」

 私が? レランドに?

「だ、だって、私は行けないに決まってるじゃない。だって、これからエマお姉さまのお手伝いをするし、王女だし、そもそもレランドに行く理由が……」
「私だってないよ」

 リンダはそう言った。

「だけど、ルディが行くなら私も行くって言ってんの」
「なんで私?」
「だって、リシャール殿下のこと、好きでしょ。ルディなら、『行きたい』って言えば、行けるもの。それに私も付いて行くことにするから、レランドに行って」
「なんで?」
「新しい実験設備で、実験したいから」
「……」

 ガックリと膝から崩れ落ちる。
あふれ出た涙に、リンダは笑った。

「なによ。どうしてルディが泣いてるの?」
「リンダが、リシャールに付いて行くのかと思った」
「付いて行くよ。だけど、私から『行きたい』って言って、許可されるとは思えないもん」
「……。そ、そんなことはないんじゃない?」
「断られたら恥ずかしいから、ヤダ」
「は……、はは……」
「うふふ」

 私が可笑しくなって笑ったら、リンダも笑った。
小さな子供の頃に戻ったみたいに、一緒に手を繋いで床の上に座り込む。
ひとしきり笑ってから、お互いにこぼれた涙を拭った。

「ね、早く殿下のところに行こうよ。早く行かないと、行っちゃうかもよ」
「出発は明日の朝の予定だから、まだ大丈夫よ」
「だけど、早い方がよくない?」
「今さらだけどね……」

 立ち上がり、私たちは互いの目を見つめた。

「リンダは、本当にいいのね」
「もちろんよ。私は真新しい研究室の立ち上げに関わって、自分好みの研究所を作りたい」
「私は……」

 『彼の側にいたい』と言おうとして、恥ずかしくなって言いよどむ。
そんな背中を、リンダがパシリと叩いた。

「理由なんて、なんだっていいのよ! とにかく、行きたいなら行きたいって言いに行こう!」

 手を繋いで走り出す。
二人並んで廊下を駆け抜け、階段を走り降りた。
聖堂の扉から、バン! と勢いよく外へ飛び出す。

「痛っ!」
「リシャール!」

 扉で顎をぶつけたらしいリシャールが、手で口元をおさえている。
彼と目があった瞬間、明らかにリシャールの口元が歪んだ。

「ル、ルディ。あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……」
「な、なんですの?」

 私にも言いたいことがあるから、出来れば手短にすましてほしい。

「いや。ルディって、俺のことが好きだったのかなって」
「いつ私がそんなことを言いました!?」

 恥ずかしさに顔が真っ赤になる。
リシャールはニヤニヤした口元を隠しているつもりかもしれないけど、全然隠せてない。

「え。だってほら。昨日さ……」
「昨日の晩は夜会でお会いしただけですけど!」
「いやいや、その後の話だよ」
「その後って?」

 もしかして、私から言わせるつもり?

「ルディの方から、俺にキ……」
「わー!!」

 慌てて彼の口を塞ぐ。
リシャールはニコニコとやけに浮かれたままだ。

「だってさ、突然そんなことされて、驚かない奴なんて、いる?」
「私は、リシャールのことなんか、リシャールのことなんか……!」

 突然言葉の出てこなくなった私を、紅い目がニヤニヤとのぞき込む。

「俺のことなんか?」
「べ、べ、別に……。好きとか嫌いとかじゃなくて……。その……」
「ははは」

 リシャールは楽しそうに笑うと、ぎゅっと私を抱きしめた。

「ねぇ、ルディ。レランドにおいでよ。君が俺のことを嫌いでも、俺は君が好きだよ」
「わ、私も好きですよ?」
「なら決まりだ」

 リシャールは上機嫌で拳を空に突き上げた。

「友好親善ってことで、今度はルディをレランドに招待だ!」
「やったー!」

 すぐ横で聞いていたリンダまで、リシャールと同じように飛び上がる。

「リンダも来る?」
「もちろん」

 彼女は満足げににっこりと微笑んだ。

「ぜーったいに、付いてく!」

 リシャールの旅団がレランドへ向け旅立つ日の朝、見送りに来たエマお姉さまは、めちゃくちゃに腹を立てていた。

「だからどうして、ルディまでレランドに行く必要があるのよ!」
「仕方ありませんね。彼女が俺について来たいと言うのですから、止めようがないじゃないですか」

 詰め寄るお姉さまに、リシャールはフンと高い鼻を鳴らした。

「あなたにルディは渡さないと言ったはずですけど」
「それはルディに聞いてください。そもそも、私の方から彼女に手は出していませんよ」
「ルディ!」

 お姉さまの目が、キッと私をにらみつける。

「あ、あの……ですね。私もお姉さまのお手伝いを始める前に、色々と見聞を広め、各国の聖女の置かれた立場とか状況というものを知っておいた方が……」

 リシャールの腕が、不意に私の腰を持ち上げた。

「きゃあ!」
「はいはい。ご託はいいから、さっさと乗れ」

 リシャールは私を馬車に放り込むと、その扉を閉めた。

「じゃ、妹さんはお預かりします」
「絶対に返してもらうわよ」
「ははは」

 リシャールの合図で、隊列が動き出す。
私は窓から身を乗り出した。

「お姉さま! 行って参ります。きっと、たくさんのことを学んで戻ってまいりますわ!」

 少しずつ小さくなっていくエマお姉さまとマートンが、手を振ってくれている。
私はそれに応えるよう、大きく手を振った。
見慣れたブリーシュアの城と街が、どんどん小さくなってゆく。
やがて馬車は郊外の森の中へ入った。

「もう別れはすんだか」
「えぇ。ありがとう。リシャール。最後にお姉さまに会えて嬉しかったわ」
「なら窓を閉めてこっちを向け。俺と二人でいるのに、いつまでもそんな寂しそうな顔をするな」

 リシャールが私を抱き寄せる。
彼は窓を閉めると、そっと私の顎を持ち上げた。

【完】

 




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