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ctrl+sで捨てたはずのわたしの神戸がこんなとこに落ちてた話★はっぴーの家ろっけん①

ろっけん。

久しぶりに聞いたその名前にドキッとした。

偶然目に飛び込んできたその記事には、神戸のとあるシェアハウスのことが書かれていた。

はっぴーの家ろっけん。

六間道商店街、通称ろっけん。

間違いない。あの街だ。


その記事からは、わたしのよく知る下町の匂いがするような気がした。

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神戸市在住じゃないのに長田区、と聞いてピンとくるひとは、かなりの神戸通だと思う。

『神戸』といえば、海と山が近くて坂を登ると港が見渡せて、かつて外国人が住んでいた洋館が建ち並ぶ、石畳のお洒落な街並…。
県外の人からはなぜか、とてもキラキラしたイメージを持たれるのだけれど。

わたしの『神戸』は、そうじゃない。

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わたしが育ったのは、はっぴーの家ろっけんがある、神戸市長田区だ。

ごちゃごちゃした路地に簡素な文化住宅が立ち並び、小さなお店がいくつも軒を連ねる、下町の中のシタマチ。

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わたしがまだ幼かった頃、商店街は人であふれ、活気があるといえばまあ聞こえはいいが、人間の本性みたいなものむき出しで生きているひとがゴロゴロいた。

何が原因かは知らないが、お店の人にヒステリックにつっかかっているおばちゃん。昼間っから酔っぱらってふらふら歩き、小学生に小銭をせびるおっさん。

あらゆるものが猥雑に入り乱れたその街が、わたしにとっては世界のすべてだった。

けれど成長して行動範囲が広がり、やがて世の中を知るにつれ、登場人物としてそこに溶け込みたくはない、と思う自分がいた。

この街から、出たい。

日に日にその気持ちは強くなっていた。

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そんなある日、神戸をあの大震災が襲った。
長田区は、特に被害がひどかった街のひとつだ。

強烈な地震が、もともと脆弱なつくりの小さな街を襲ったものだから、それはもう、ひとたまりもなかった。

狭い路地に建ち並ぶ、古い木造住宅や安普請のビルがぺしゃんこになっているのをこの目でいくつも見た。そこへ運悪く火が回ってきて。

なにもかもなくなってしまった。



なにもかも。


あの時、それまでのわたし、は一回死んでいなくなったような気がした。

そうして当時高校生だったわたしは、卒業と同時にその街を出た。



ctrl+s

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それから何年もの月日が流れ、かつてわたしの住んでいた街は『復興』を成し遂げたと言われていた。

駅から続くアーケードに近代的なビル、整備された区画に並ぶ真新しい家。

その頃すでに神戸からも離れ、遠いところで暮らしていたわたしは、長田の街が生まれ変わったように新しくなったことは聞き伝えで知っていた。

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ある年、帰省した際にたまたまそこを訪れたわたしは、まるで古着に綺麗な柄の当て布をつぎはぎして、無理やり仕立て上げたよそゆきの服、みたいな街の仕上がりに違和感を覚えていた。

新しいなにかをただ積み上げただけでは、なんにも生まれやしないのに。

人間の性、なんてまるでないものかのように、綺麗につくり直された街には、体温がまったく感じられなかった。

この街は、ちっとも復興されてなんかいない。

わたしは心の中でスペースキーを叩きまくって、自分の思い出のフォルダを埋めた。

そう、もう全部空っぽにした。つもりだった。​

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それからしばらく月日が流れ、家族ができて母となったわたしは、再び神戸に戻ることを決めた。

こどもと共にどこで暮らすか、を考える時、はじめからあの街は選択肢になかった。

幼い頃のわたしの、言葉にしにくいなんとも複雑な想いがつまった街。
戻りたいとは、どうしても思えなかった。

まったく新しい場所で、わたしの『神戸』を上書きしたかった。


ctrl+s


そうして神戸に戻り、自分で見つけた新たな街で、自分の色の神戸、がなんとなく身体に馴染んできたな、と思えた頃。

偶然、その文字がわたしの世界に飛び込んできた。

はっぴーの家ろっけん。

夕方過ぎに到着すると、認知症のヨネ爺はフロアをウロウロし、星ばあちゃんは朝から晩まで同じ席で新聞紙を折ってゴミ箱を作ってる。どこかでおばあちゃんが騒がしい子どもたちにブチギレている声がする。

なにここ!面白すぎる!!

引き寄せられるように、その場所に関する情報を読み漁った。

小さな画面から伝わってくるのは文字と画像だけ。でも、わたしはまるで自分がその場にいて、その空気の色までもが見えるように感じていた。

あの街の、あの匂い。

あの猥雑で混沌とした、それでいてなぜだかどこよりも落ち着くような、独特の空気感がそこに流れているのが、わかった。

見てみたい、いつか。自分の目で。


そこで暮らすひとたちの温度を感じてみたかった。

そこでわたしは、SNSで情報を発信していたそのひとにコンタクトを取ってみた。

前田彰さん。

突然のメッセージにも関わらず、前田さんは快くお返事をくださり、そこから彼の発信を通して、はっぴーの家ろっけんについて知る機会が多くなっていった。

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とはいえ、はっぴーの家も長田の街もずっと気になってはいたけれど、すぐに訪れることはできず、相変わらずわたしはあの街と微妙な距離を保ったままでいた。

そんなある日、はっぴーの家のTwitter公式アカウントを見つけたわたしは、その場所のいま、を知ることができるそれに次第に夢中になっていった。

そこから流れてくる『ろっけん』の日常には、やっぱりあの頃のカオスな世界が色濃く生きているような気がした。

ごちゃまぜで、なんでもありで、いろんなひとが交じり合って、醸される街の温度、色、匂い。

空白で上書きしたはずのフォルダから、懐かしいものがどんどんよみがえり、満たされてゆく。



そう、わたしはあの街がまだ楽しく賑わっていた頃の空気感を、おぼろげながら覚えている。

それを知っているひとがどんどん、どんどん少なくなっていく今、わたしにできることはなんだ。

あの日の私が感じた想い、胸にしまいこんでいた焦げ臭い想いを、拙くともせめて誰かに語り継ぐこと。いまの私の想いをここに綴ること。

そうだ。そう自分で書いていた。

語り継ぐこと。綴ること。
わたしにできることは、それしかない。

ctrl+sで上書きされたはずの中身が、ここにまだ、生きているのだから。

考えるよりも先に手が動いていた。
気づいたら、はっぴーの家のお問い合わせにメールを送っていた。
自分の書いたnoteとともに。

しばらくたって、一通のメールがきた。

『ろっけんに、来ませんか。』
差出人の名前は、前田さんだった。


そうして、ようやくわたしとあの街の距離は、ゼロになった。


2020年9月3日。
わたしははっぴーの家ろっけんに、いた。

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おはなしはつづく。


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