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書くことで自分を保てている。気持ちの機微を、なかったことにしないでよ。

有料で聞いているラジオがある。

服部みれいさんという編集者の方が半年前に口にしていた言葉が、ずっと心の中にあって、音声を文字起こしして、プリントアウトして手元に置いているくらい。

気になった時に、見返して、うんうんそうだよなぁと唸っている。

言葉を通して、自分の気持ちを伝えたい。
言葉を通して、相手を知りたい。

と、やっぱり私は思う。

気持ちの機微や合間がある

服部みれいさんが話していた内容をざっくり書き出すと、、

私たちにはみんな気持ちの機微があって、合間がある。それをまるでなかったかのように、話す。そもそも、その機微や合間を感じることすらも自分に許可していなくて、感じる前になかったことにしてしまっている。(自分自身で気付かないということは、相手にもそれがあることに気付かなくて当然。)

だから、人に何か伝える時に雑になってしまたり、容易に傷付けたり、もしくは口にすること自体やめてしまったり。

そんなふうに、いろんな感情をなかったことにしたまま、一緒に住んだり、子育てしたりしてるけど、何にも話せてない。なんとなく日常を送ってる人がほとんど。

下手したら、人との関係がうまくいかなくなったり、ぶつかり合ったりすることもなく、淡くいろんなものを回避して、紛らわせて暮らしていけちゃう。

服部みれいの「声のメルマガ」

ただ日常の会話の中で、自分の気持ちの機微や合間をいきなり口にしてみようというのは、ハードルが高いような気がする。

だから、ひとりでもの思いにふけって、ぼーっとしながら、書いてみたりしたらいいんじゃないか。

整った文章なんて最初から出てこないから、「なんだかよくわからないけど悲しい」「目がしょぼしょぼする」「山のイメージが浮かんでいる」とか、とにかく頭の中にあるものをまず取り出して、机の上に出して、眺めてみればいいのかなと思った。

自分の中にあるかもしれないものを、まず探ってみる。ないと思ってたら見つからないと思うけど…

私は絶対にあると思う。
言葉になる以前の何か。


生き生きとした心の躍動を言葉にする

そして、もう一つ印象的だった部分。

先生が喜ぶようなオチを付けるような作文の書き方に多くの人が毒されている。もっと生き生きとした心の躍動を言葉にするのが国語の授業なんじゃないか

服部みれいの「声のメルマガ」

「国語教育の弊害」とみれいさんが口にしていたけど、私も小学校から高校まで、作文なんて自分のためじゃなくて、先生に見せるため、評価の対象になる、公の文章というイメージを抱いていたと思う。(もちろん、当時は何にも考えていなかったけど)

私は、ただただ自分のためだけの日記を4年弱続けている。書かないと気が済まない。夜寝る前だけじゃなくて、電車の中で思い浮かんだことを書いたりもする。書くことで私は自分を保てていると思う。

何を感じているのか。
何を考えているのか。

目の前に言葉が置かれるとほっとする。あぁ、私こんなこと感じていたんだって。私自身に聞いてもらったような気になるし、そんなふうに感じていた自分を手放せるようにも感じる。

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そんなこんなで、
私は
言葉にすること、
書くこと、
作文
にすごく興味があるし、もっとこういうテーマで動いていきたい。

ということで、私がライターをしているgreenz.jpというメディアでも、「作文の教室」という講座をやります。

5/28(日) 地方からも海外からもどうぞ! あなたと社会を作文がつなぐ。書きたいことを楽しく共創で書く体験「作文の教室 1DAY(オンライン)」



オンラインで一日、がっつり学べるので、興味がある方は見てみてほしい。アーカイブも今後追加するそう。

なんか、宣伝みたいになってしまったけど、ほんとうに書くことはおもしろいと思う。

最後に、もう一つ。。

先日、ホリスティックマッサージをしてくれたフランス人の女性が口にしていたこと。

私も他人も本物であることを心がけています。

自分自身だけじゃなくて、自分と接する人も本物であってほしい。それが自分の誠実さにもつながるような気がする。私だけが本物であろうとしても、足りない。

言葉によって背筋が伸びて、立ち止まれる。

私は今の気持ちを手紙にして送ってみようと思う。一緒には居られないと思って距離をおいた人に。手紙を送ることは、その瞬間の自分を相手に託すことでもある。

日々何か感じ、考えているものを手放して、また何か私の中に生まれることがきっと楽しいんだと思う。


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