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90年代の空気、鬼畜ブーム余波としての無邪気さ

ずっと二の足を踏んでいた西村賢太を読んだ。『小銭を数える』を一晩で一気に読んだ。すごく良かった。結句(via西村賢太)、私が危惧していた、著者を覗き見して上から目線で消費するみたいなことは起こらなかった。作品に力があれば、そんな下衆な感情は呼び起こされはしないのだった。

自身でも自覚しているけれど、私は他者をコンテンツとして消費することに非常にナーバスだ。
映画『PERFECT DAYS』についての記事でも平山を消費したくないと書いたし、『消費する権利 ー 懺悔』という記事では、西村賢太作品を読むことへの躊躇と過去に友達の気持ちより自身の表現欲求を優先した罪を書いた。
このナーバスさは、後者の経験からだけでなく、90年代の悪趣味/鬼畜ブームとも関係している。

悪趣味/鬼畜ブームに関しては、ロマン優光『90年代サブカルの呪い』にほぼ全面同意だ。下衆なブームだったと思うし批判は当然だが、今の感覚で断罪するのは違うし、むしろ過去に学ぶべきと。また、ブームの余波は現在も大差なく残っていると思う。

私は、あれらを引き起こした時代の空気感は確実にあったことは強調したいし、特異なものだったから、その空気感を知らない人には少し知って欲しい。

建前が道徳的な機能を失っているのに、それはなかったことにして表面上だけ建前を優先する世界。 綺麗事が蔓延し、綺麗なものしかメディアに出すことを許さない一方で、本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている、そんな時代です。

わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な異議申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。

先の見えない状況の中で不安で苛立った気分の人たちに世界へ風穴を開けるような爽快感を与える効果も。

ロマン優光『90年代サブカルの呪い』

私も薄っぺらい建前や綺麗事に辟易していたし、息苦しいほどの閉塞感を感じていた。どん詰まり感。もちろん現在の諸問題の方が深刻だが、当時の閉塞感は、ホワイトアウトしたような絶望的な景色だった。

岡崎京子『リバーズ・エッジ』

"宝物"だった死体を初めて見た時のことを、こずえは「ザマアミロって思った。世の中みんなキレイぶってステキぶって楽しぶってるけどざけんじゃねえよ。いいかげんにしろ。あたしにも無いけどあんたらにも逃げ道ないぞザマアミロ」と語る。
一方、ハルナは「実感がわかない」と繰り返し、山田は「自分が生きてるのか死んでるのかいつも分からないでいるけど  この死体をみると勇気が出るんだ」と言った。

私はこの作品を高校生の時に(93〜94年連載)読んだ。当時本当にこうした怒りにも近い苛立ちと鬱屈した感情と閉塞感と同時に、世界への現実感のなさを感じていた。
岡崎京子は作中引用しているウイリアム・ギブスンの詩の一部「平坦な戦場で僕らが生き延びること」を、単行本の最後にも添えている。

今から考えると恵まれた時代だけど、現実感なく平坦で何も起こらない出口のない終わりなき日常は、それはそれで絶望的であり、いかに生き延びるかという意味において戦場でもあった。
この後95年に阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、90年代前半よりは「日常は突然失われることもある」感覚が湧いたけれど、変わらず閉塞感と厭世観は蔓延り、2001年アメリカ同時多発テロでビンタ喰らって目を覚すまで「実感のなさ」は続いた。(私は95年大学入学、2001年大学院修了なので、モラトリアム終了と共に目を覚ました形になった)

戦時中を出すまでもなく、時代の空気からの影響は歴史上も現在も誰しもが逃れきれないのだから、これらを「甘え」と一刀両断はできないと私は思う。人にはその時々それぞれの苦悩がある。若者には、ただ過去を断罪したり批判するのではなく知って咀嚼し、今の問題に立ち向かい生き様を探って欲しいと思う。


こんな空気感の元で、95年『危ない1号』『映画秘宝』『BURST』『クイック・ジャパン』が創刊。翌96年「鬼畜系」という言葉が発信されたこの2年が悪趣味/鬼畜ブームのピークで、あっという間に本質が失われ、むしろその余波に問題があり、00年にはほぼ完全終了。

反道徳的な振る舞いは本質的にはポーズでしかありません。あくまで、偽悪的な態度・露悪的な文章・不快な素材によって、世界を挑発し、異化を狙っていただけなのです。

ロマン優光『90年代サブカルの呪い』

悪趣味/鬼畜ブームの中心人物であった青山正明・村崎百郎・根本敬にとってあくまで概念の遊びであり、"ギミックとしてクソを使用"しているのに過ぎなかった。しかし彼らには想像力が足りておらず、本気にするやつや手法だけを真似た"クソ行為を実行"するフォロワーが生まれることに気づいていなかった。

私は当時、遠巻きに眺めていた。ネットの普及していない時代のアングラ雑誌/書籍内のことだから、たまに興味本位に見て「うわ〜、やば〜」という程度に楽しみ、ハマりはしなかったし、ブームの広がりと共に引いていった。「小さな範囲でこっそり」を超えたら、単なる不謹慎だ。「ザマアミロ」は、大声で叫んだら反社会的行為だ。
前者3人のフォロワーとして、"クソなことをしたい目的"で酷いものが生まれたことも問題だが、私は世間一般にまで広まった「ちょっと不謹慎でも、興味本位で色々楽しんでもいいよね」という"無邪気な感覚"の方が耐え難かった。
個人的に、『人体の不思議展』はその系譜のものと思っている。

『人体の不思議展』がかつて盛況だったことを記憶している人は多いだろう。ホルマリン漬けでしか保存できなかった死体が、プラスティネーションという技術によって手で直接触れられる状態で長期常温保存可能になり、展示された。
第1期開催は96年〜98年と、悪趣味/鬼畜ブームと重なる。契約問題で一旦終了するも2002年からまた開催され、正式に閉幕したのは2012年。
実際の人間の死体の展示なのだから、当初から人権や倫理面からの批判もあったが、フランスの裁判所が中止の判決を下した2009年の翌年、やっと日本でも日本医師会から中止を求める要請が出た。しかし2011年の開催時は5万人以上が訪れたという。

特に第1期ブーム時の盛り上がりは異常だった。学術的にも画期的だった点からテレビニュースなどでも好意的に頻繁に取り上げられた。カップルがデートで訪れたり、子供連れの家族もいた。行楽で本物の死体を見に行き、無邪気に死体に触れ、笑顔でインタビューに答えていた。

私は行かなかった。当初から酷く不快だった。なぜ他人の身体を、しかも遺体を、興味半分の怖いもの見たさでコンテンツとして消費できるのか理解できなかった(学術的意義だけで観に行った人はほぼいないだろう)
まして「胎児を子宮に入れた状態の妊婦の死体」を家族で見るなど理解不能だ。自分の愛する妻と産まれるはずだった赤ちゃんが、全裸かつ輪切りの状態で、怖いもの見たさの好奇の眼差しの衆目に晒される気持ちを一瞬でも考えないのだろうか?
私はアングラ雑誌に悪趣味/鬼畜コンテンツを"クソと自覚して"書いた人より、『人体の不思議展』を"無邪気に"楽しんだ人たちの方がよっぽど信じ難いし、まして2011年になっても訪れた5万人に関してはその倫理観を疑う。
また、紙媒体の悪趣味/鬼畜コンテンツを消費することと異なり、直に観るという体験を通して「消費者」ではなく「加害者」になった点に自覚的な人はどれほどいるのだろうか。

なお、私は死体が恐ろしかったわけではない。むしろ見るべきか悩んだ。高校時代、養老孟司『唯脳論』や、弟子にあたる布施英利の現代文明論『死体を探せ! バーチャル・リアリティ時代の死体』が好きで、スプラッター映画にもハマった。もし美大に落ちたらスクリーミング・マッド・ジョージの特殊メイク専門学校に行こうと思っていたし、美大に受かってからは主に「身体」をテーマに作品制作し続け、学部卒業制作は体長180cmの人型ぬいぐるみ2体だった。
私の学部時代は95〜99年。『人体の不思議展』第1期開催は96年〜98年。プラスティネーションに触れることで作品に反映できる知見が得られるはずだと悩んだ。しかし「身体」はただの入れ物ではないのだから、商業目的の大規模展示という形では決して見るべきではないと判断した。医学部研究室などで見るのとは話が違う。


悪趣味/鬼畜ブームがとっくに過ぎ去り、ポリコレという言葉が一般化した今も、同様のムーブはネットに蔓延っている。大して変わっちゃいないと思う。
悪趣味なもの、ショッキングなものを見たいという感情はなくならないし、あの頃アングラ雑誌にあった画像や危険な情報なんてネットで簡単に見れる。
言動や容姿が「変」な人、精神疾患の人などを嘲笑目的で「ネットウォッチ」している人たちもたくさんいる。彼らはプチ根本敬以外の何者でもない上、根本敬が持っていた"対等な目線"がないという"手法だけ"のクソフォロワーと変わらない。他人を上から目線で面白おかしく消費しているだけのクソ行為だ。注目を集めるために競ってクソなことをするYouTuberもたくさんいる。
悪趣味/鬼畜ブームに当初あった社会へのカウンターとしての機能がなくなっても、後続余波のクソは今もネットにある。

言い逃れをするわけではない。どんな時代の空気感があれ、悪趣味/鬼畜ブームは当時からクソだったし、何よりもクソなフォロワーを生んだ。青山正明・村崎百郎・根本敬のことも別段評価していない。
人間の奥底には悪趣味なものへ惹かれる感情があるし、興味本位で覗きたい欲望もある。少なくとも私はそれらを持つサブカルクソ野郎だから慎重かつナーバスなのだ。先の3人は人々に潜むそうした欲望を掻き立て、やっても良いという契機を与えたことは確かだ。

本当にありきたりな結論にしか結び付かないのだけど、他者への想像力を持つこと、自身の行動が正しいか常に自問自答して価値観・倫理観のアップデートを怠らないこと。そして、無邪気な時ほど何も見えてないケースがあるから留意することと思う。

私は個人的に"無邪気さ"が一番恐ろしいと思っている。クソを自覚していたら反省できるのだから救いようがあるが、他者を無邪気にコンテンツとして消費する、行楽で死体と触れ合うような、無意識に見下し悦に入って嗤うような、そうした類似行為は本人に屈託がないから救いようがない。

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