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消費する権利 ー 懺悔

春にして陰鬱だ。
最近は文字を読んでいる時が一番充足感がある。何か新しいものをと、西村賢太が浮かんだ。信頼する人が好きだと言っていたから。

西村賢太は、『苦役列車』冒頭を立ち読みして買わなかったことがある。その時は濃厚な男臭に当てられて、自分は今は女性の文章が読みたいと気づいたため、確か代わりに今村夏子『あひる』を買った。今は男臭いのもイケそうだと思ったので、何から読もうか調べつつ、ふとWikipediaを読んだ。
生い立ちと経歴に驚いた。そして田中英光についての言葉「田中英光は、結局、一種のエリートなんですよ。そこでもう、なんか、そこでこう、もの足りないものを感じた」を読み、私は彼の私小説を感ずる感性を持ち合わせているだろうか…と自問してしまった。
私は結構変わった生い立ちでなかなかの薄暗さがあるから、その辺りを話すと必ず引かれる。しかし経済的にはとても恵まれて育ったので、西村賢太のエリート発言から拒否感を感じてしまったのだ。

つい先日以下のポストが炎上していた。

西成の町中で可愛い女の子をエモく撮った写真たち。不快に思ったり批判する人が何を言いたいのかは分かりやすい。私は表現には寛大なのもあり批判する気にはならないが、評価もしない。現場の雰囲気がどうだったかも分からないし、格差や、若い女性と映えとエモをあえてこういう形式で問う批判的な作品かもしれないからだ。ただひとつ、この作品を見て思い出したことがある。

受験の差し迫った高校3年の年末、友達が骨肉腫を発症し、年明けに片脚切断手術をした。春、友達3人で国立がんセンターに入院中のその友達のお見舞いに行った。友達は抗がん剤治療で髪も眉もなくなっていたが、帽子を被っていなかった。見渡す限り、帽子を被っていないのはその子だけだった。強いし美しいと思った。元からそういう気質の子だけれど、10代の女の子が片脚を失い、髪も失ったのに隠しもせず笑っているのだ。談話室で、私達4人はいつもと変わらないお喋りをして笑いあった。

その時ふと、テーブルの下に目が行った。"奇数の足"が並んでいた。圧倒的な不在。友達の脚が片方失われたことは聞いていたし、何よりその日一見して分かっていたけれど、私はその景色で一番心が動いた。暖かい春の陽射しが作る淡いゆらゆらした陰影の中に、強い不在。妙な言い方だけど、やっと実感して、胸が強く軋んだのだ。
私はその時ちょうど美大1年生で、写真の課題中だったから常にカメラを携帯していたため、撮りたいと思った。こんなに心が動いた景色を撮らずにどうするとも思ったけれど、撮らなかった。撮れなかったら、どれほど良かっただろう。私は撮ったのだ。後悔している。地獄の門番はきっとこの罪も指摘するだろう。
友達は嫌がる素振りもなかったし、ひょっとしたら私の意図にすら気づかなかったかもしれない。今も仲良くしているが(見事克服し義足で自在に歩ける)、当時の内心は分からないし、何より問題なのは私自身が友達を傷つける可能性も頭にあったのに実行したことだ。他者の痛みより、自分の感傷を優先したのだ。美大に入ったばかりで浮かれていたとはいえ、アートの名の元に、人として超えてはならないラインを超えてしまったと思っている。

この経験以来、人の気持ちを毀損する可能性のある作品にナーバスになった。それは自身が消費する時も同様だ。私のような人間がこの作品を享受して良いのかと。特殊な家庭環境で苦しんだが経済的には裕福だったし親の金で大学院まで行った私が西村賢太作品を読んだら、「けっ」と悪態つかれそうだ。怖い。怖いのはもちろん自身の無慈悲さだ。もし一瞬でも、自分はまあ恵まれていたなんて思ってしまったら?もし「西成ポートレート」のような視線を注いでしまったら?そんな自分と対峙するのが怖い。なぜなら、私は人としてのラインを超えた罪を犯したことのある人間だからだ。

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