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フジロック クラフトワークの問題点 - 福島の象徴化はチフスのメアリーの再生産

クラフトワークがフジロックの『Radioactivity』で「フクシマ」「放射能」と歌ったことが話題になった。
そもそも『Radioactivity』は英語でRadioactivity=放射能であり、収録アルバムのジャケも原子力マークだ。発売は1975年。

坂本龍一が発起人の『NO NUKES 2012』でも『Radioactivity (Fukushima Version)』をアクトしている。

「日本でも 放射能 きょうも いつまでも  フクシマ 放射能 空気 水 すべて  日本でも 放射能 いますぐ やめろ」との日本語歌詞は坂本龍一監修。歌った瞬間に歓声が上がっている。2012年ということで観客の意識も違ったろうし、何せイベントの趣旨自体が『NO NUKES=脱原発』なのだからこれは問題ないアクトだったと思う。

しかし今回のフジロックでのアクトは、らしからぬ失態だったと思う。
直前に坂本龍一とのことを語り、『戦場のメリークリスマス』を演奏したのだから、彼のNO NUKES活動への共感と敬意を示す意味合いとコラボ曲だから演奏した側面もあったろうが、12年も前と"同じこと"を"違う場"でやるのはダメだ。

そもそもクラフトワークは言葉から意味を剥奪してデジタル信号のように記号化して別の価値を与える活動をしてきている。そうした彼らが「ヒロシマ」「ナガサキ」同様に「フクシマ」とカナ書きで表記・記号化することの意味へ考えが及ばず、当時のまま演奏したのは失態だったと思うのだ。
私は「福島県」を象徴化すること自体に反対であり、まして「フクシマ」とカナ表記するのは著しい象徴化と記号化だと思っている。
なぜ象徴化自体に反対なのか。第一に、問題の根幹を見誤るからだ。私たちが直面している問題は本当に「福島(フクシマ)」なのか?


以下は私の2011年10月のブログからの一部抜粋と加筆

画像は2011年10月のニュース記事より抜粋した文科省による航空機モニタリング測定結果地図。
当時の汚染状況地図でも、問題なのは「福島県」だけでないことは一目瞭然だ。猪苗代湖を境に新潟方面の福島県内より、栃木や群馬、茨城の一部の方が計測値が高い。当時からこれが事実なのに多くの人が福島県だけを問題視する。
原発事故に関して「福島第一原発」と呼称するのは正しいが、原発事故に関わる数多の問題までを全て「福島」と呼称して語るのは正確ではない。単に象徴的言語として便利だから使用されているに過ぎない。福島県は、原発全般数多の問題を象徴として全て押し付けられているのだ。

出典元記事はリンク切れ「東京・多摩地区で高濃度セシウム!“チェルノブイリ基準”上回る」


私は、『チフスのメアリー』と呼ばれたメアリー・マローンに起きたのと同様の悲劇が福島県に起きていると思っている。

メアリー・マローンはアメリカに移住したアイルランド系移民。
とても料理上手で子供の面倒見も良かったため、多くの家で賄い婦として働いた。しかし彼女が働いた家々で腸チフス患者が多く出たために強制拘束され検査。
結果、彼女は発症しない健康保菌者(無症候キャリア)発覚第一号となり、NYを挟むように流れるイーストリヴァーに浮かぶ元無人島にあった各種伝染病者が隔離されていたリヴァーサイド病院に収容される事となった。

彼女の事がはじめに報道された時の新聞画像が以下。
大きく『Typhoid Mary(=チフスのメアリー)』と書かれ、フライパンに骸骨を入れる象徴的なイラストが添えられている。

彼女ははじめの拘束後、約5年間だけ開放されるも再び収容。69歳で亡くなるまで生涯リヴァーサイド病院で隔離され続けた。当然メアリー以外の健康保菌者も相次いで発覚したし、一時的に拘束された者もいた。中には彼女より多数の感染者・死者を出した者や、食品関係の職に従事する者がいたにも関わらず、彼女だけが一生涯拘束され続けた。

なぜなのか。なぜ彼女だけが生涯拘束されたのか。
それは彼女が『チフスのメアリー』という象徴だったからだろう。

一切症状の出ない健康保菌者と放射性物質は、目に見えざる恐怖という共通項を持つ。
発症している患者相手なら危険とわかるから感染を避ける事ができる。しかし健康に暮らしている人が感染源というのは避けようがない。放射性物質も見えないけれども被曝しているかもしれないという代物だ。
「見えざる脅威」は、人に根源的な恐怖を与える。

メアリー・マローンの不幸は発覚第一号であった事にもあると思う。さらに彼女が賄い婦として優秀で料理上手だったという多くの証言。先に挙げたイラストのように、美味しい料理が実は死に至るものであるというのは想像力を掻き立てられるし、「見えざる脅威」を象徴している。彼女は腸チフスの脅威の象徴となった。

つまり彼女は、象徴化されたことによって生涯拘束されて人生を終えたのだ。実際に彼女以外の健康保菌者も多数いたのだし、腸チフス問題の根幹は彼女にないことも明白なのにも関わらず。
人々は、腸チフスへの恐怖を『チフスのメアリー』として象徴化したメアリー・マローンひとりに押し付け、安心感を得たかっただけなのだ。彼女を生涯拘束したのは"安全確保"のためではない。"安心感を得る"ためだ。

同様に、「福島県」だけを特別視している人達は、原発事故や放射性物質への恐怖や現在も累積する数多の問題点を全て「福島=フクシマ」という象徴に押し付けているだけなのだ。
メアリー・マローンが『チフスのメアリー』という象徴として人々に利用された悲劇と同様のことが起きている。

私は、「福島の風評被害をなくそう!」「福島を食べて応援しよう!」と訴える人も上記の点においてほぼ同類だと思っている。問題の根幹は「福島県」ではないのに「福島」と発信してしまうのは、例えば「メアリー・マローンを励まそう!」とか「支援物資を送ろう!」と言うのと同じだ。問題の根幹は別だし、それではメアリーは救われない。象徴化を辞めることと拘束を解くことが第一だし、腸チフス対策自体は全く別問題なのだ。

福島も同様だ。好意的な発信であれ、「福島」と声高に呼びかけるほどに、数多の問題は「福島」にあるとの認識が広まり、「福島=フクシマ」との象徴化が進む。「福島は助ける必要がある」という主張は、逆説的に風評被害になるし、福島県が抱える問題は解決されないどころか深刻化する側面もあるのだ。

ドイツ人であるクラフトワークの面々が「ヒロシマ」「ナガサキ」同様に「フクシマ」と表することに屈託がないのは仕方ない面はあると思うし、何より歌詞の監修は坂本龍一だ。私は彼らの音楽と言葉と活動を好いているからこそ、今回はガッカリしてしまった。
しかし私たちも「チェルノブイリ」に同様のことをしているのだ。
3.11直後にTwitterで「チェルノブイリ産のレタスって、食べたくないでしょ?フクシマ産って海外じゃもうそういうこと」と言っている人を見た。正しい。余りに正しくて心底腹が立った。日本人としてそれに当たり前に迎合して良いのか。
私は「福島県」の象徴化に抗いたい。

「福島(フクシマ)」という呼称は非常に便利だ。それは既に象徴化され、意味内容が多岐にわたるという面でも便利なのだ。私たちは様々な象徴や記号の便利さを熟知し多用している。しかし象徴化されたことで悲しみ、傷付き、苦しむ人がいる場合は、便利に使用してはならないと思う。

私自身は生まれも育ちも東京だが、両親は福島の出身だ。母は猪苗代湖周辺の地形に守られ奇跡的と言えるほどに放射線の影響を受けなかった地。父は新潟に近い奥会津で、より影響のなかった地。そんな私は偶然3.11の数ヶ月後に福岡へ引っ越すこととなった。
福岡で初対面の人に出自を聞かれて答える度に、「まあなんて不幸な…」という反応をされることに辟易した。福島県には安全な地もあることを説明しても暖簾に腕押しだった。誰も彼もが、「福島は不幸に見舞われた土地」との認識だった。

悲しい。本当に悲しいし悔しい。福島県の一部が多大な被害を受け、支援が必要なことも事実だ。しかし安全かつ変わらず美しい土地があることも事実なのだ。なのにみんな揃って「福島を応援しよう」とか「福島は汚染されている」とか、何もかもを「福島県」に押し付ける。それは象徴として便利だからだ。

繰り返すが、問題は「福島県」ではないのだ。原発の是非や処理水問題等にどのような思想を持っていても、「福島」と発する時、それは「福島県」のことではなく「象徴化された福島(フクシマ)」という〈虚像〉であり、その記号と化した便利な呼称の裏で悲しむ人たちがいて、実被害も発生しているのだ。
人々が「福島県」を「福島(フクシマ)」という象徴として便利に利用している事実を自覚して欲しいし、本当に今のままで良いのか考えてみて欲しい。



メアリー・マローンの悲劇については、『病魔という悪の物語 - チフスのメアリー』という新書がオススメ。私は決して忘れてはならない語り継ぐべき史実だと思う。2011年にブログを書いた時は絶版だったが、コロナ禍をキッカケに復刊されたようだ。



以下は私が事故から2ヶ月後の2011年5月に行った福島県猪苗代町のガイガーカウンター画像。毎時0.10μSv(マイクロシーベルト)を示した。
環境省の放射性物質汚染対処特措法に基づく汚染状況重点調査地域の指定や、除染実施計画を策定する地域の要件は毎時0.23μSv以上の地域。



Fukushima Versionではない通常の『Radioactivity』


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