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スポーツの祭典の進化/神化――『コンレボ』16話における開発問題から

 この春、二期が始まった『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~ The Last Song』(以下、略称の『コンレボ』)は、神化という元号の日本を舞台とすることで、もう一つの昭和を描きだすと同時に、その昭和から引き出しうる教訓めいたものを凝縮する形で、作品のメッセージとして強く打ち出すTVアニメである。

 超人課という厚生省の管轄のもとにおかれた組織に属する面々が中心となりながらも、毎回あらたな超人たちが登場しつつ、そこで昭和の時代(=現実)にあった事件をモチーフとした「事件」が起こる。その際に、過去との繋がりや、時代の推移による物事や人物の変化を意識させるため、フラッシュバック的に時系列が操作される特徴ある構成となっていた。

 歴史的なものを振り返り、そこからモチーフを採り上げて作られることで、政治的・社会的なメッセージが強く表れてくる点も『コンレボ』の「らしさ」の一つなのだが、このあたりに監督の水島精二、および原作とシリーズ構成及び脚本を兼ねる會川昇からなるコンビの作家性が表れているということはできるだろう。(※1)

 時系列の組み替えと、現実の出来事をモチーフとすることを作品の特徴としてきた『コンレボ』だが、第16話「花咲く町に君の名を呼ぶ」は、この前者をオミットする構成となっていた。このことは、視聴者がアタマを切り替る(ストーリーが「跳ぶ」ことに着いてゆくという)負荷が軽減される分、わかりやすい展開となっていたように見える。しかし、このことは作品のメッセージが弱まったとか薄まったことを意味することはないだろう。

 第16話「花咲く町に君の名を呼ぶ」は、冬季国際スポーツGP(HPの表記では「冬期」)の開催をめぐって開発された札幌で、土地の神と人間が絆を結び直す話だったとまとめることが出来る。(※2)そこには、一大国家事業にまい進する日本と、その流れに押し流される人々や自然という構図で切り取ることで、環境問題がテーマとされていると見ることが出来るだろう。また、かつては人と神との間で行われていた「祭」が、いつの間にか人間だけの「祭」としてのオリンピックに押しやられてしまったという点で見れば、近代化の過程における人間の世界の捉え方(自然をどう見るか)の変化という観点でも捉えられよう。

 土地の言葉で「美しき種」を意味する「ピリカッピ」という神が放つ稲妻に撃ち抜かれると、人間の頭には花が生えてくる。16話の事件はこの可笑しな出来事が起点となっている。この様子を妖怪である笑美は「人間お花畑」と嘲笑するが、ここには実際に頭から花が生えている暗に意味する状況、すなわちお祭り騒ぎに浮かれている様子を見下したものとも言えるだろう。当然この視線は現実の現在に対しても向けられており、それは商業化された現実世界のオリンピックへの批判、とりわけ2020年の東京オリンピック開催にまつわる浮かれ具合に対する皮肉として描かれていると言えるだろう。

 オリンピックで浮かれる様子は、なにも浮わついたものとして出てくるのみではない。本来ならできるはずの他者への配慮が出来なくなるという、一種の視野狭窄的な精神状態としても発現する。これは、札幌国際スポーツGPのスキージャンプ競技に日本代表選手として出場するスリーバードメンが「全部金メダルのためだ」と力む様子や、あるいはまた超人化の面々が本来の任務の管轄を超えて「人間お花畑」騒動の解決に乗り出すといった「一大国家事業」を口実としたなし崩し的な総動員体制への合流を見てみれば、やはりここには冷静とはいいがたい精神状態が出現していることは明白だろう。翻って4年後にオリンピックを控えた現実の日本への警鐘が、このような描写に込められていることは想像に難くない。

 一大国家事業への献身が異常な雰囲気を生んでいることを示すのは、テストジャンパー雨戸が「怖さ」から超人になることを拒んでいるところで描かれている。日の丸を背負う勇気がなかったという語りでマイルドに収めてはいるものの、一時は逆賊呼ばわりされたことを雨戸が述べているあたりは、なかなか皮肉が効いている。また、この様に恐怖を感じることで人間性が担保されているとも考えられ、このことは人間が流されてしまうのとはまた別の面を持っている様子が描かれていると言ってよいだろう。

 この雨戸が、中学生の時に行った神事と同様に、自ら鍛錬の成果をピリカッピに示すことで、人と神の絆を結び直し事態を終息させるというのが「人間お花畑」の顛末となっているが、ここで重要なのは、超人の力を借りることなく、人間の力によってこの騒動を解決していたという点である。超人が主人公のアニメにおいて、人間が自らの手で問題を解決したという16話は、これだけでもメッセージ性が強い回のように思われる。さらに言えば、神と人が絆を結び直したことによって、それを行った人間(=雨戸)の権威が復活し、スリーバードメンというかつての人間(現超人)との関係性が結び直された後日談も無視できない。土下座する3人の様子がコメディ的に描かれていることからもわかる通り、横柄な態度をとった彼らを通じた批判的なメッセージが込められていることは明らかだろう。超人となって優位になったと思ったものたちが、神によって権威が付与された人間にひれ伏すという様子は、もちろん超人批判などではなく、力を過信しておごると同時に、権威を盲信して態度を豹変させるような人間への警句にほかならない。

『コンレボ』は超人という架空の存在を参照項として設定することで、人間という存在を描こうとしている作品だと、ワタシは考えながら見ている。だからこそ雨戸とスリーバードメンのあいだで、構築され、そしてそれが揺らいで変化する両者の関係性といったものに注目する。

「超人と人間」のように対になるもののあいだには、両者に差異があるゆえにそこに階層が出現する。階層の間には、〈上位/下位〉が存在し、それは必然的に〈優/劣〉の関係性へと転化してゆく。これを図式的に表せば、〈上位/下位=優/劣=超人/人間〉と表せるだろう。数の上で言えば、人間の方がはるかに超人よりは多く存在し、地球を覆いつくしてはいるものの、その人間をしのぐ力を持った存在だからこそ、超人に優位性が付与されているのが神化の時代なのである。

 この神化の日本に、16話では「神/人間」という二項対立が持ち込まれることになる。人間の限界を超えた力を持つものを神と呼ぶとき、そこには超人が含まれてもおかしくないのだが、しかしそれとは別の存在として「神」が出現したとき、超人の神がかった存在意義はかすれてしまうことになる。つまり神の介在により、人間と超人の関係性が揺らぐことになるのだ。その意味で「神」は超人を超える存在であるからこその超神であり、したがって「超神/超人」という関係性が挿入されたわけだ。しかし、だからと言って超神(=神)>超人>人間という序列が出来るかと言えば、そうではない。人間の祭(オリンピック)の波の前に、神の森は開発の渦中へと没してゆく。これを神が止めることはできなかったのは物語の展開のとおりであるし、そのように消えて行った「古き捨てられた土地神」へのノスタルジーに、来るべき東京オリンピックへの危惧が重ねられていると見るのは、考え過ぎに属することではないだろう。

 もっとも、「地元でずっと開催されてきた神事」として描かれる弓で的を射る祭りについて考えてみれば、札幌が開拓されたのは明治維新以降のことであるわけだから、それ以前に存在していた信仰などは忘却されている点ぐらいには思いを馳せておいてもよいかもしれない。もちろん、札幌に近代日本の手が伸びてゆく以前から存在した祭りが、地元の神事として融合している可能性も否定こそできないが、羽織袴姿で弓を射るというのはきわめて「日本文化」的ないでたちであることからも、先住民文化などは『コンレボ』の視界からはこぼれ落ちてしまっている。超人と人間の関係を通じて人間を描こうとしていることが、かえって人間内部の問題点――16話で言えば国家の近代化過程における国内植民地問題ないし周辺地域に対する文化的ジェノサイドに等しい国定の文化の強制や国民の均質化といった問題――に目をつぶることになっているというアポリアが発生していることは、政治的・社会的メッセージがきちんと盛り込まれている作品への敬意の意味も込めて指摘しておくべき点であろう。

 以上、16話で扱われたテーマを整理しつつ、最後にその外側にあるものがなにかを素描した。今後の『コンレボ』では、超人の多様なありかたにより迫ってゆくことで、本作の本質たる超人と人間の関係(更にそこから進んで人間そのもの)に迫っていくものと考えられる。お説教じみたものにならないようにとの配慮と工夫が随所に感じられるからこその『コンレボ』の面白さであるから、今後もどのようなネタが差し込まれるのかは気になるところだ。

 なお、ネタについて言えば、16話だけでも、例えば札幌であるがゆえの爾朗に供されたおもてなしビールであるとか、あるいは「神様の仕業」に集められたお花畑人間たちが祭り・祈りをする際に流れていたBGMがトランス調だったあたり、細やかに考えられている様子にニヤリとさせられる場面が見られたことは付記しておきたい。さらにもう一つ脱線するならば、この後者が、ある意味今季の神アニメである『くまみこ』と奇妙なシンクロを遂げた点は興味深いものだった。もっとも、「ピリカッピ」という言葉の次元でとどまった『コンレボ』に対し、はっきりとアイヌ文化の描写に踏み込んでいる点で、そこに明確な意図があろうがなかろうが、『くまみこ』に政治的・社会的なモチーフの意外性見出すことに驚かずにはいられない。別のアニメ作品へと広がる面白さを孕ませてくるのを前にして、今季もアニメから目が離せない。


注記

(※1) 水島監督と言えば、水島精二監督と水島努監督の双方が想起されるのが昨今のヒット作の流れから自然だろう。たまたま名字が一緒なだけの2人とはいえ、彼らを敢えて対置した場合、両監督共に人間と向かい合いながら、しかしその描こうとしているところが違う、と言うことはできるだろう。精二監督が国家や政治を通じて人間の「あり方」を描こうとしてきたのに対して、努監督は、家族・許嫁・チームや会社を舞台とした人間の「関係性」を描こうとしているように思える。こう並べると、両監督の根源的な部分での関心が存在論的なものにあるのか認識論的なものにあるのか、といった違いにあるようにも見えてくる。網羅的に見る機会があれば、こういった作家論的なまとめも面白そうなテーマだが、当面はどうやら時間がなさそうで残念な限りである。

(※2) サブタイトルの「花咲く町に君の名を呼ぶ」の君とは、ピリカッピという「神の名」であったということが出来よう。

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