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はまぐり (朗読作品)

はまぐりを買う。
こぶりのはまぐりである。
あさりより、少々大きめか、
というほどのものを、ひと袋。
潮汁にするには多すぎるので、
酒蒸しにしようと、
家に連れ帰ってきた。

なんにせよ、まずは砂出しをしなければ。

銀色のボールに水をはり、
塩をはらはら振りかける。
人さし指で舐めてみて、
塩辛い、
というほどの塩水を作る。
そこへ、はまぐりを、
そっと沈める。

亭主とふたり、
頭をつきあわせるようにして、
じっと見る。
銀色のボールを、覗きこむ。
口を開くか、と、待っているのである。
が、
はまぐりは、うんともすんともなんとも言わぬ。

釘を入れるんじゃなかったか、
錆び釘を。
いや、それは黒豆の色どめだったか。
いやいや、やはり砂出しであろう。

とにかく試しに入れてみるか、
と、
工具箱より錆びた釘を2本。
ボールの中の海に、こつんと沈める。
耳を澄ます。
依怙地なはまぐりは、なんにも言わぬ。

暗くしてはどうだろう。
台所の電気をぱちんと消して、
薄闇に沈んだ海に、目をこらす。
がんとして、
はまぐり、動かず。

じっと見ていても仕方がないので、
歩いて一分の喫茶店に、
お茶を飲みにいくことにする。
陽射しは薄い。
風は冷たい。
沈丁花の香りが、
低い雲のように垂れこめている。
ぐるりぐるりとまわりみちをして、
道草くって、三十分。
ようやく、歩いて一分の店に着く。
扉をあけると、
いつもはしんとした店内が、かまびすしい。
すみません、満席で。
振られて帰る。一分で。

ただいま、と、
誰もいない家に声をかけ、
寝室に行くとみせかけて、
そっと台所に忍んでいく。
薄暗い台所の棚の上、
銀色のボールをのぞきこむ。
わずかに、
ほんのわずかに開いた貝のあいだから、
ミルク色のからだがはみ出している。
耳をよせる。
ほんのときおり、
するかしないかというほどの
囀りが聞こえる。
亭主が無言で指をさす。
指さされたはまぐりは、
気のせいかと思うほどに、
小さく身をふるわせて、
銀色の海に漣(さざなみ)をたてた。

酒蒸しにしたはまぐりは、
強い海の味がした。
甘く、苦く、塩辛く。
とろりとするほど濃いはまぐりの旨味。

海からさらわれ、
袋に詰められ運ばれて、
銀色の海に戻されて、
ほっと安堵し砂をはき、
ようやく砂をはいたと思ったら、
酒蒸しにされた。
そんなはまぐりが、なんだか哀しい。
哀しい、
と、言いながら、
言い合いながら、
次から次へと、はまぐりを食べる。

ひとつ食べるごとに、
からだが海に浸っていく。
貝殻にたぷたぷとたまる汁を飲む。
飲みほすたびに、
ざざ、ざざ、と、
波の音が聞こえてくる。

遠い昔、
右と左に外された貝殻の、
かたわれを呼ぶ声が、
囀りのように聞こえている。

囀るような音をたてて、
汁をすすり、
いくつも、
いくつも、
はまぐりを食べる。


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見出し画像、みんなのフォトギャラリーの「世界の美術館」の画像が使えることになったと知り、嬉しくなってお借りしてみました。「はまぐり」ではないけれど、まあ「魚介類」ってことで。うふふ。

タイトルに(朗読作品)と記してあるのは、↓こういう訳です。

こちらもよろしければ。


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