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『幻の料亭・日本橋「百川」〜江戸を饗した江戸料理〜』を読みました

落語好きな人なら、「百川」という噺を知らぬ人はいないだろう。料亭百川に「入社」したばかりの田舎者の百兵衛さんと魚河岸の若い連中との噛み合わないやりとりできかせる滑稽噺だ。百兵衛さんが口をひらくたび、強烈ななまりとしゃっくりのような相づちが繰り出される。それに戸惑う河岸の若い衆。噺の中に「くわい(慈姑)のきんとん」なる料理が登場し、百兵衛さんがそれを必死の形相で飲み込もうとする場面では、そのけなげさに胸打たれながらも笑いがこみ上げる。私は古今亭志ん朝さんのCDで初めて聴いた。

『幻の料亭・日本橋「百川」』(小泉武夫 著、新潮社)は、発酵学者の小泉武夫先生が、江戸時代、明和・安永の頃から明治初期まで実在した日本橋浮世小路の料亭、「百川」の姿を描く。大田南畝をはじめとする当時の文人墨客の趣向をこらした宴会や江戸で好まれていた料理の数々、百川で供された料理や食材について、ときに小説風に、ときに発酵学者の名講義よろしく、読むと必ず食べたくなる「小泉節」の文体も取り交ぜながら話がすすんでゆく。

さまざまな料理や食材が登場するが、機会があるならぜひ食べてみたいと思ったのが「精進節」だ。豆腐を乾燥させながらカビ付けして熟成させたもので、鰹節のように削って使うと濃いうま味が出るという。インターネットで検索すると実際に作って食べてみた人が出てくる。キャラメルのような見た目でチーズのような味わいらしい。

鹿児島で縁起物や生薬として古くから食されてきた「刀豆(かたなまめ、なたまめ)」も本書に出てくる。今は健康食品や歯磨き粉の材料として重宝されている刀豆が味噌漬として百川の献立に残っていたことも興味深かった。

ペリー一行をもてなすために500人分の饗応料理を準備し、その宴を取り仕切るほど幕府からの信頼もあつかった百川は、その後、西洋料理を出すなど時代の変化に柔軟に対応……したかに思えたが、明治初期に忽然と姿を消したという。

百川とはどんな店だったのか、なぜあれほどの繁栄をみせながら消えてしまったのか。空想の世界で江戸料理を楽しみつつ、小泉先生の名推理も味わえる一冊だ。