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お粥やの物語 第3章4-1 「三つの約束を守らないと、僕は地獄に落ちるそうです」

チュン、チュンとスズメの囀りが聞こえる。
遠くで聞こえるエンジン音は新聞配達のバイクだろう。
瞼を開けると、カーテンの隙間から差し込む朝陽に照らされたリュックが視界の隅に入った。リュックの端からポンちゃんが心配そうに見つめている。

僕はむんずと上体を起こし、畳に尻を付けたまま首を巡らせた。
背中が汗でじっとりと濡れていた。
着たままのスーツには盛大な皺ができている。

六畳の和室にいるのは僕一人。
シンデレラも神様と名乗った四人の姿もどこにも見当たらない。
夢の一言で片づけるには、脳裏に揺らめく残像はあまりにもなまめかしい。

胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
僕は生きている……。
そんな当たり前のことが、いまはとても嬉しい。
毎日寝起きして、こんなに感動したのは初めてだ。

大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
目尻に溜まった涙を手の甲で拭った。

押入れの戸はピッタリとしまっていた。
尻を滑らせて畳の上を進み、大きな深呼吸を三回してから戸を開けた。
押入れの中はがらんとしている。
神様と名乗った四人の人物は何処へ消えたのだろう。
やはり、夢だったかの……。

店主から話を訊こう。賃貸契約を済ませたとはいえ、店主が隠し事をしていたなら、契約は破棄できるはずだ。
そこまで考えたところで、口の中に苦い味が広がった。

この部屋を出るとして、その後は……。
雨で濡れた段ボールが脳裏に浮かぶと、背中がすっと冷たくなった。

僕としては幽霊と妖怪が出なければそれでいい。その他のものなら我慢できる。本物の神様なら、こちらからお願いしたいくらいだ。
でも、やっぱり、あの四人は神様とは思えない。
本物の神様が、いたいけな僕を童話の世界に放り込み、シンデレラと一緒に火炙りの刑にするだろうか……。

僕の肉体に異変がないのも事実だ。
体はどこも痛くない。ざっと見渡した限りでは、歯形の痕は見当たらない。
もし妖怪や悪霊の類なら、無傷でいられるはずはないだろう。

不意に、ゴムボールが僕に向かって転がってきた。
慌てて飛びのき、赤いボールを避ける。
ボールはコロコロと転がり、リュックから顔を出していたポンちゃんにぶつかって止まった。

息を呑んだまま動けなくなった僕の前を、赤い着物の女の子がトコトコと通り過ぎて行く。
女の子はゴムボールを拾い上げると、そのままの体勢で動かなくなった。
何事かと見守る僕の前で、女の子は膝を折り、ポンちゃんの頭を優しく撫でた。ポンちゃんの皺の目立つ顔はどこか嬉しそうだ。

ポンちゃんに勇気を貰った僕は、女の子の背中に向かって声をかけた。
「その子はポンちゃんという名前なんだ。僕の大切な相棒だよ」
まずは情報収集だ。そのためには女の子との距離を縮めなければならない。
「僕の女友達は、ブサイクだと言うんだけど、そんなことはないよね」
その友達とは元カノだ。美的センスのない女性だったと思う。

女の子は「ポンちゃん、遊んでね」と呟いてから、ゴムボールをポンちゃんの顔に押し当てた。
ただでさえ潰れ顔が、完全な陥没状態になってしまった。

女の子はピョンと跳ねるように立ち上がると、その勢いのまま駆けて来て、僕の前でピタリと立ち止まった。
「お姉様からの言伝が三つあるの……。一つ目は、私たちのことは誰にも言わないこと」
僕は大きく頷き返した。

「二つ目は、どんなに辛くても、苦難が待ち受けていても、絶対に幸せになると誓うこと」
どういう意味だろう……。新手の宗教の勧誘かと疑ってしまう。
黙ったままでいると、女の子は抑揚のない声で同じ言葉を繰り返した。
「絶対に幸せになると誓いなさい。さもないと、シンデレラと一緒に火炙りになるわ」

その一言を聞き、僕は背筋を伸ばして声を張り上げた。
「はい、誓います」
教会で結婚式を挙げた新郎が、誓いの言葉をするときのように、僕は神妙な声でもう一度繰り返した。
「誓います、誓いますから、助けてください」
女の子の目許が僅かに動いた。笑ったらしい。

「三つ目は、会社に行き、ありのままを受け入れなさい」
僕は会社をクビになったのだ。
解雇になったとはいえ、会社を辞めるには色々な手続きが必要だ。書類の作成は郵便で済ませればよいと思っていたが、それではまずいのだろうか。
どんな顔をして、元同僚や上司に会ったらよいのかわからない。
最悪の場合、「何しに来た」と罵られ、叩き出される可能性もある。
考えただけで寒気がする。

「守れなかったら、地獄に落ちるかもしれないわ……」
落ちるかもしれない、ではないのだろう。絶対に落ちるのだ。
「守ります。絶対に守ります。守らせてください」
僕は必死に誓った。

「行ってらっしゃい」
鈴の音のような声を残して、女の子は押入れに戻り、内から戸を閉めた。

苦い息を吐き終えるより先に、一度閉まった戸が二十センチほど開いた。
顔を覗かせた女の子は、おいで、おいで、と手招きをしている。
そっと近づけると、女の子は恥ずかしそうに頬を朱色に染めて呟くように言った。
「会社から帰ってきたら、ポンちゃんと一緒に遊んでね」
「喜んで……」

戸はパンと乾いた音を響かせて閉まった。
ピタリと閉まった戸は、朝陽を浴びて白く輝いている。

世の中には、科学の力で説明できない不思議なことがある。
いままでは、運よく、そんな現象に出くわさないで済んだだけなのだろう。
誰だって、不思議な世界に迷い込む可能性はあるのだ。
それが、たまたま僕だった。交通事故に遭ったようなものだろう。

考えてみれば、事故に遭うより、はるかに運がいい。
だって、神様なんだから……。
疑問の余地は残るが、一晩無事で過ごしたのだ。取って食われることはないだろう。そう割り切ると、随分と気持ちが楽になった。
大丈夫、いまの僕なら会社に行ける。

第3章4-2へ続きます。

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