見出し画像

お粥やの物語 第1章4-1 「殺意を帯びた目つきで僕を睨んでいる美少女は、幻覚ですか」

「起きなさいよ」
細いながらも鋭い女の声に、僕は瞼を持ち上げた。
ランプの灯りが左右に揺れている。

目の前に、見知らぬ若い女の人が立っていた。
橙色に照らされたその女の顔は薄汚れている。
記憶の底を浚っても、その顔は見つからない。

ランプを手にした女は、僕をじっと見下ろしたまま動かない。
黒く汚れているのは顔だけではなく、頭の天辺から、つま先まで、まるで灰を被ったように薄黒く汚れていた。
公園に住み着いたホームレスだろうか。

「いつまで寝ているつもり。本当に役立たずなんだから」
女の声音は、さきほど耳にした幻聴とそっくりだ。
確か、その声は、「靴が見つからない」と嘆いていた……。

僕は女の足元に視線を落とした。
靴を履いていない小さな足は、見るからに冷たそうだ。

「どこを見ているのよ。いやらしいんだから」
女が声を大きくすると、額にかかっていた髪の毛が左右に跳ね、パラリと灰色の物体が宙に舞った。初夏の夜の空気にヒラヒラと漂う、小さな物体が雪のはずはなく、それはまさしく灰だった。

子供の頃、冬になると、祖父は実家の庭で焚火をした。落ち葉だけでなく、いらなくなった本や雑誌も燃やすものだから、燃えカスの中には大量の灰が出現した。
環境破壊になるから、と息子夫婦に叱られ、祖父が渋々と焚火を止めたのは僕が中学に入る前だ。

僕は、まじまじと女を観察した。
汚れの隙間から覗いている肌は白くて艶がある。
年齢は二十歳には届いていないだろう。女性と言うより、少女と呼んだほうが相応しい。

長い睫毛の下にある瞳は青色で、泥のせいで茶色に見える髪の元の色はゴールド。細い鼻孔に、柔らかそうな唇……。
整った顔立ちは、汚れていなければ「美少女」の三文字がぴったりだ。

カラーコンタクトにカツラを被っているのか……。
それなら何かのコスプレだろうか。
夜中に、人気のないさびれた公園で、一人コスプレ。
それも、薄汚れた姿で……。

囚われていたお姫様が牢獄から脱出したという設定かもしれない。
怒気を孕んだ声も、そう考えれば説明できなくもなく、首を傾げたくなる設定ではあるが、絶対にないとは断言できない。好みは人それぞれだ。

しかし、コスプレを楽しむにしては、少女の表情は険し過ぎないか。
殺意のような色を帯びた青い瞳が演技だとしたら、大女優も真っ青だ。

そこまで考えたところで、僕は重要な点に思い至った。
そもそも、一人コスプレを楽しむ人間に文句を言われるいわれなどないはずだ。いまの僕の姿が不審者に見えたとしてもである。

いや、待てよ。
僕が座っているベンチはいつも彼女が夜に使っているベットだとしたら……。それなら、少女はホームレスということになる。
合わせ技で、コスプレ姿のホームレス。それが一番、しっくりくる。

僕は、少女の顔を見つめたまま、ベンチから重い腰を持ち上げた。
少女は膝を小さく曲げてランプを地面に下ろすと、両手を腰に当て、頬を膨らませた。
目線は僕より少し低い程度だから、少女の背丈は百六十五センチ以上ある。

「あなたの縄張りでしたか。すみませんでした。初めてのもので、気がつかなくて……」
とりあえず頭を下げ、反論はその後から、というのはビジネス書で読んだ客商売の鉄則だ。

「でも公園はみんなのものですから、僕がここにいても問題はありませんよね」
僕は丁寧な口調で弁明し、ささやかな抵抗を試みた。

「何を寝ぼけたことを言っているの。ここは馬小屋じゃない」
ヒヒィーンという鳴き声に、僕の心臓はドクンと激しく跳ねた。

彼女の後ろに、巨大な顔がニョッキと現れた。馬面の人間ではない。正真正銘、本物の馬だ。
茶褐色の馬は巨大な歯を剥き出し、僕を睨むように見ている。二つの大きな目玉は真っ黒だ。

何で、夜の公園に、本物の馬がいるんだ……。
それもポニーじゃない。大きな茶褐色の馬だ。

後ずさりすると、膝の後ろが何かにぶつかり、僕の体は背後に向かって大きく傾いた。
背中がゴツンと壁にぶつかり、板壁がミシリと音を出して撓んだ。
いつの間にか、ベンチと思っていた物は粗末な木製の箱に変わっている。

そう言えば、足裏から伝わってくるゴワゴワした感触もおかしい。
視線をストンと落とすと、そこに見慣れた黒い革靴はなかった。
気が付けば、大きな穴の空いた茶色い靴を履いている。
それだけではない。靴の下には無数の藁が乱雑に散らばっていた。

僕は少女に視線を戻し、巨大な歯を剥き出している馬の顔を睨んでから、時間をかけて天を仰ぎ見た。

初夏の夜空は見当たらず、木板を組んだだけの天井の隙間から、赤い満月が覗いている。
開けっぱなしの粗末な扉の向こうに見えるのは、古い洋館だろうか。

どう見ても、夜の公園ではない。
これは幻だ……。
そうとしか考えられない。
いろいろなことがありすぎて、頭が混乱したのだろう。

僕は、ギュッと力を入れて瞼を閉じた。
幻聴に続いて、幻影まで見るとは、もしかしたら、自分で思っている以上に危ない状態にあるのかもしれない。

こんなことが続いたら、僕はどうなってしまうのだろう……。

第4章4-2へ続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?