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【連載小説】 オレンジロード18

上手く眠れない日が二日続いた。
人間は感情に影響される生き物だと痛切に感じる。
現在の時刻は午前七時三分、僕は制服に着替え、じっと椅子に座っている。
時計の秒針の音が鮮明に聞き取れる。

とれだけの時間、そうしていただろう。
不意に扉の向こうから、玄関扉が開く音が聞こえてきた。
一階へ降りると、見覚えのある刑事の笑顔が待っていた。
笑顔と言っても、口角が吊り上がっている程度で、幼い子供が見たら泣き出しそうな怖顔だ。

「君の自転車を返しに来たんだ」
「よかったじゃない」母が小さく歓声を上げた。
父は、「やったな」というように、目で合図をしている。

「犯人が捕まったんだよ」
刑事の口角がさらに上がると、銀歯がキラリと光った。
昨夜、線路内に進入し、自転車を放置しようとした男を、巡回中の警官が現行犯で逮捕したと言う。

犯人は、無職の若い男だった。
アルバイトを首になったことに腹を立て、世間を困らせてやろうと事件を起こしたらしい。
一連の事件については、まだ男は詳しい自供をしていないが、刑事は「時間の問題だろう」と笑みを強めて胸を張った。

刑事が話をしている間、僕は耳を傾けるだけで、口を挟まなかった。
自分から、知っていることを話すつもりはない。

刑事の後ろ姿を追って玄関から出ると、橙色の自転車が僕を待っていた。
離ればなれになったのは二日間でしかないのに、とても懐かしく感じる。
十年ぶりに、幼馴染に会った心境だ。

サドルの下にはチェーン鍵が巻き付いている。
番号を「二三一六」に合わせると、鍵はすんなりと外れた。
それを後輪のホイールに通してから、もう一度鍵を掛けた。
鍵の番号はたくさんの人が知っているが、とりあえずこれでいいだろう。
二度も続けて盗まれるほど運がないとは思わない。

朝食は喉を通らなかった。
少し早めに家を出て、橙色の自転車ではなく、ママチャリに跨った。
ペダルを数回踏み込んだところで、前方に片山さんの姿が現われた。
鋭い眼差しからして、僕が現われるのを待っていたらしい。
僕は静かに唾を飲み込んでから、自転車から降り、片山さんに近づいた。

「少し、時間はあるかな?」
 僕は小さく顎を引き、自転車を引いて、片山さんと並んで歩き始めた。

「家内とは、別れることになったんだ」
思わず片山さんの横顔を見つめた。
「皿の件だけど……」
片山さんにじろりと睨まれ、僕は正直にゴミ袋のことを打ち明けた。
但し、それを拾ったのは健太ではなく、僕ということにしておいた。

「あの晩、気になって皿を調べたんだ。似ていたけれど、自分が買ってきたものではなかった。家内に問い正したら、白状したよ。家内には、随分と嫌われていたらしい」
片山さんは自嘲するように口許を歪めて笑った。

奥さんには、愛人がいた。それも、知らない人物ではなく、片山さんの会社の部下だった。
奥さんと愛人の関係は、一年以上続いていて、営業で外を回ることが多かった愛人の男は、その時間を利用して片山さんの家に上がり込んで、奥さんと逢瀬を重ねた。大胆な男である。

僕の自転車が盗まれた火曜日も、二人はいつものように密会した。
そこで、男から別れ話が出た。思わぬ男の言葉に激昂した奥さんは、片山さんが大切にしていた皿を叩き割ってしまった。愛人への怒りが、夫に対する怒りに変わったのかもしれない。

愛人に宥められ、冷静になったときには、すでに青い皿は粉々に砕けていた。「落として割ってしまった」と言うには、あまりにも細かく砕け散っていた。
もし、愛人がいることが知られたら、離婚の際に不利になる。それに、愛人の男も、自分のやったことがバレたら、会社にいられなくなる。

後ろめたいことのある人間は、猜疑心の塊になるもので、疑われる可能性のある芽は、どんなに些細なものでも摘み取らなければ気が済まなくなる。
そこで、二人は皿をすり替える計画を立てた。

奥さんは、皿を売っている店を知っていた。
だが、片山さんが帰宅するまでには、一時間程度しかない。皿を買って戻って来るには、時間が足りなかった。
そのとき、電車妨害事件と橙色の自転車が結び付いた。

奥さんは、皿の破片をゴミ袋に詰め込むとゴミの集積所へ向かった。
家の中には、皿の欠片を置いておきたくない、という心理が働いたのだろう。
そして、同じ皿を買うためショッピングモールに向かって車を走らせた。

その時刻、愛人は奥さんの指示に従い、僕の自転車の鍵を外し、犯行現場へ運んだ。
計画は上手く行き、片山さんが帰宅したときには、青い皿は棚に収まっていた。その皿が、違う皿とは気づかないままに。

片山さんは、悲しそうに笑いながら駅に向かって歩き出した。
僕は小さくなっていく背中から視線が離せなかった。

苦い思いが心を満たしていく。
奥さんは、片山さんが青い皿を大切にしていた理由を知らないのだろう。
「秘密だよ」と無邪気に笑った片山さんの笑顔が、とても切なく思える。
やっぱり、男と女は難しい。
いや、男と男も難しい。

僕は、ママチャリのペダルを踏み込んで、学校へ向かった。

オレンジロード19へ続きます。


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