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お粥やの物語 第3章1-1 「真夜中に、僕の部屋に突如現れた女の子は人間なのでしょうか」

息ができない……。
夢にしては、妙にリアルな苦しさだ。
瞼を持ち上げると、目の前が赤色に覆われていた。
顔が弾力のある何かで潰されている。
ガバっと上体を後ろに引くと、目の前に、おかっぱ頭の女の子が現われた。
二つの大きな黒い瞳が、僕の顔をじっと見つめている。

僕は上体を起こし、畳に尻を滑らせながら、女の子から距離を取った。
女の子はぷっくりと頬を膨らませ、いまにも泣き出しそうな顔で僕を睨んでいる。小学三、四年生くらいだろうか。
洋服でなく、赤褐色の着物を纏っている。肩まであるストレートの黒髪の上で、花の髪飾りがフルフルと揺れていた。

両手で大切そうに抱えているのは、空気が抜けかけた赤いゴムボールだ。お粥やの主人に案内されたとき、二階の廊下に転がっていたものに違いない。
ボールの表面が薄っすらと光っているのは僕の唾液だろう。

僕は首を回し、周囲を見渡した。
部屋の隅に、キャリーバッグと大きなリュックが置いてある。その横に紙袋が転がっていた。
ここは、お粥やの二階、僕が借りた七号室の部屋で間違いない。

僕はその場で正座して、女の子に向き直った。
女の子の瞳は底の知れない沼のように真っ黒で、日本人形のように何の感情も読み取れない。
背筋がすっと冷たくなっていく。乾いた喉がヒリヒリした。
それでも、僕は訊かずにいられなかった。

「君はシンデレラでは、ありませんよね」
女の子は僕の顔をじっと見つめたまま身動きひとつしない。
「シンデレラというお姉ちゃんを知りませんか」
女の子は小さく首を横に振った。

やはり、シンデレラは夢だったのか……。
むるの奥で燻っている、この切ない感情は、映画を観て、不幸なヒロインに涙を流すのと似ている。僕は夢を見て、感傷的になっただけなのか……。
でも、そう簡単には割り切れない。シンデレラの悲し気な声が耳の奥にこびり付いている。切なそうに揺れる青い瞳を思い出すと、胸が締め付けられたように苦しくなる。

頭の中からシンデレラの幻影を消すべく、僕は首を力強く振った。
突然、目の前の女の子が、髪の毛を振り乱しながら、激しく頭を左右に振り始めた。

何事かと思い、僕がじっと見つめると、女の子はピタリと動きを止めた。
もしかして、と思いながら、僕はもう一度、軽く首を振った。
それを待っていたかのように、女の子が激しい首振り運動を再開した。

どうやら、僕の真似をしているらしい。
それにしても、赤い着物姿で黒髪を振り乱す姿は、子供とは言え、少し不気味だ。

僕の冷たい眼差しに気づくと、女の子の動きがピタリと止まった。
表情の乏しい顔で、僕を上目遣いで見ている。その顔はかなり不気味だ。

女の子の赤い唇が震えるように動いた。
「遊ぼ……」
女の子が突き出した赤いゴムボールを僕は反射的に受け取った。
表面を汚していた僕の唾液はすでに乾いている。
空気が抜けかけたボールは弾力が乏しくて、グニャリと指先がめり込んだ。

自分の体温でゴムボールが温かくなるのを感じながら視線を窓に流した。
カーテンの隙間から見える窓の向こうは、夜の闇に沈んでいる。
腕時計の針は、午前二時を回ったところだ。
こんな真夜中に、着物姿の女の子……。
シンデレラほどではないが、この女の子だって、十分に不思議、いや、奇怪な存在だ。まるで、座敷童のようだ。

「君は、どこの部屋の子なのかな……」
女の子は唇をキュッと結び、小首を傾げた。
「お父さんとお母さんはどこにいるの?」
女の子はさらに首を傾けると、口の両端を吊り上げて、ニッと笑った。
不気味さを通り越して、恐怖を感じる。

僕が肩を落として息を吐くと、女の子も、フゥと息を吐いた。
僕の真似をする遊びを続けているらしい。

苛立ちちを抑え切れず、僕の声は大きくなった。
「この部屋は僕が借りたんだ。他人の部屋に、勝手に入るのはよくないよね。子供でもそれくらいわかるでしょ」
僕の強い口調に、女の子は力なく項垂れ、肩を震わせて泣き出した。

顔の前で両手をひらひらさせて、僕は声を絞り出した。
「怒ったわけじゃないんだ。大きな声を出してごめんね」
子供であれ、大人であれ、老婆であろうと、女の人を泣かすのは苦手だ。
二十六年の人生の中で、女性を泣かせたことは数えるほどしかない。
一番印象に残っているのは、大学四年の冬、一方的に別れを告げた彼女に、「もう一度、やり直そうよ」と縋り付いたときだ。
「他に好きな人ができたの」と言い、彼女は白い頬に幾筋もの涙を流した。
僕が彼女の十倍くらいの涙を流したのは言うまでもない。

そう言えば、夢に現れたシンデレラも泣かしたんだ。
もしかして、僕って嫌な奴かもしれない。

肩を落とした僕の隙を狙うように、女の子はくるりと背中を向けると、押入れの戸を開け、その中に駆け込んだ。
戸は内から静かに閉まった。

一人、部屋に残された僕は、しばし呆然として、押入れの引戸を見つめた。
手にしたままの赤いゴムボールは、僕の体温以上に熱くなっていた。

第3章1-2へ続きます。


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