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お粥やの物語 第3章5-1 「どんなに辛くても、逃げるわけにいきません」

自宅を飛び出して、地下鉄の改札口を通り抜けたところまでは覚えている。
でも、なぜかその後の記憶は曖昧だ。
電車に揺られた気はするが、背中や肩を押された記憶はない。
電車は混んでいた。
それなら、おしくらまんじゅうの状態だったはずなのに……。

僕は地下鉄の階段を上り、地上に出た。
空には青空が広がっている。急ぐ必要はないのに、つい早足になってしまう。大丈夫。いまの僕なら会社に行ける。

しかし、白い建物が近づくにつれ、鉛の靴を履いたように足は重くなり、歩く速度は亀のように遅くなる。

スーツ姿の男にぶつかりそうになり、僕は慌てて脇に寄った。
転びそうになるのを、足に力を入れてどうにか耐えた。
男は僕に見向きもせず、足早に遠ざかって行く。

男の仕立てのよさそうなグレーのスーツは見るからに高そうで、僕のスーツなら十着は買えそうだ。いや、二十着かもしれない。
銀色に輝く腕時計も、「オレって高級品だよ」と自己主張している。

背中を睨み付けると、男は立ち止って振り向いた。
まずい……。
僕は身を縮めて、街路樹の後ろに隠れた。
細い幹では僕の体を隠せるはずもないのだが、男の視線は幹の周辺を漂うだけで、僕に辿り着かない。男は首を傾げながら前に向き直ると、すたすたと歩き去った。

どうして、僕が隠れなければいけないたのだ……。
自分の気の弱さに腹が立つ。
熱い息を吐き出すと、額に滲んだ汗が頬を伝わって流れ落ちた。

会社に行かず、このまま家に引き返そうか……。
いや、それはできない。女の人の命令に背いたら地獄に落ちてしまう。
それに、ここで逃げたら、大切な物を失う気がする。

頑張れ、僕……。そう気合を入れて歩き出したものの、数分もしないうちに心は灰色に染まった。
皺だらけの安いスーツを着て、背中を丸めながら、とぼとぼと歩く姿は、負け犬以外の何ものでもない。

でも、と僕は奥歯を噛み締めて考える。
負け犬でも、体の中には赤い血が流れているのだ。
金があるから、偉いわけじゃない。
仕事があるからと言って威張らないでくれ。
僕は真面目に生きて来たんだ。
人に後ろ指を差されるようなことはしていない。

遠くから聞こえてきた、車のクラクションの音に息を呑んだ。
愚痴を言ってもしかたがない。
どんなに文句を口にしても、何も変わらないのだ。
それに愚痴を言うたび惨めになる。

頬の火照りを感じながら、横断歩道の手前で立ち止まった。
道路の向こうにある背の高い建物を見上げると、膝がガクガクと震え始めた。見えない手で鷲掴みされたように胃がキュッと痛む。

十五階建ての白い建物は、株式会社アモスプランの本社ビル、僕が勤めている会社、いや、勤めていた会社だ。
新卒で採用されてからの三年半、雨の日も風の日も、二日酔いの朝も、一度も休むことなく出勤した。そんな皆勤賞は昨日で終わったけれど……。

もしかしたら、解雇は何かの手違いではないのか。
僕が犯人だという、決定的な証拠があったとは思えない。
悪代官のごとき、部長と課長は当てにならなくても、正義感に燃えた誰かが僕の冤罪を晴らしてくれたとは考えられないか。
可能性は少ないが、ゼロではないはずだ。なぜなら、僕は無実なのだから。

昨日、会社を出るとき、先輩や同僚たちは心配そうに僕の背中を見送った。
僕が帰った後で、誰かが「並木は、そんなことをしません」と肩を持ってくれたかもしれない。
「彼を信じてあげましょう」と訴えた人がいても不思議ではない。
僕は先輩たちからの受けは悪くなかった。後輩から嫌われていないはずだ。
萎んでいた僕の胸が、僅かに膨らんだ。

点滅している青信号に急かされるようにして横断歩道を渡る。
歩きながら荒くなった息を整えていると、見知った顔が待ち構えていた。
僕の心臓は嫌な音を出して鼓動を打ち、僅かに膨らんでいた胸はぐちゃりと萎んでしまった。

第3章5-2に続きます。


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