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お粥やの物語 第3章5-2 「社員たちの辛辣な言葉は、僕の心を容赦なく抉ります」

建物の入れ口の前に、数人の男女の姿があった。
井戸端会議をするように、顔を近づけていた彼らだったが、僕の姿に気付いたのか、一斉に顔を上げた。

右手にいるのは総務部の女性だ。僕と同じ歳のはずだが、口許に深い皺を刻んだ顔は、三十代後半のように老けて見える。それでは美人が台無しだ。
左側で、鋭い視線を浴びせている二人の中年男は、第一設計部の課長と係長。どちらも我が社には珍しい温厚な人物だが、いまは二人とも目尻を鋭角に吊り上げ、丸い顔を四角くしている。不機嫌そうに歪んだ口許は双子のようにそっくりだ。

彼らの後ろで、隠れるようにして立っている男女はもっとよく知っている。僕と同じ、企画開発部の先輩たちだ。
僕のほうをじろりと見ると、二人とも舌打ちが聞こえてきそうな顔をして、露骨に視線を逸らした。
僕の乾いた唇の間から、希望という言葉がポトリポトリと零れ落ちていく。

足早に、僕の脇をすり抜ける男の姿に、心臓がドクンと音を出して跳ねた。
慌てて、顔を隠そうと首を折り、汚れた黒い革靴を見つめた。
足音が遠ざかったのを確認してから、上目遣いで前方に視線を走らせる。
大股で、肩を揺らしながら歩いているのは、かつての上司の貝原部長だ。
企画開発部のトップで、僕に罪を擦り付けた一人。

貝原が近づくと、集まっていた人たちは顔に笑みを貼り付かせて出迎えた。
仲間外れ、いや村八分にされたような疎外感に背筋がぶるっと震える。

貝原を先頭に、社員の人たちは建物の中に入って行く。
全員の姿が見えなくなると、背中に滲んだ冷たい汗が背骨を数えるようにして流れ落ちた。

期待なんてするものじゃない。
期待をするから、落ち込むんだ。そして悲しくなり、惨めになる。
会社に行きたくない。いますぐ、ここから逃げ出したい。

動けなくなった僕の横を、後ろから現れた社員たちが次から次へと追い越して行く。誰一人として、僕と視線を合わせない。
すでに、僕の悪い噂は広まっているのだろう。
覚悟していたとはいえ、心がポキリと折れる。

「絶対に幸せになると誓いなさい」
おかっぱ頭の女の子の声が耳の奥で響いた。
そう誓ったのは事実だ。でも、こんな状況を目の当たりにしたら……。

いや、いまが正念場だ。生まれ変わるチャンスかもしれない。
ダメな僕から、できる男は無理でも、諦めない男に変わるのだ。
「死ぬ気になれば何でもできる」とは思わない。
でも、こんな僕でもその気になれば何かができるはずだ。
上司に怒鳴られ、社員たちの冷たい視線に晒されても、命は落とさない。
警察だって、無実の人間を捕まえたりはしないだろう。仮に捕まったとしても、死刑にはなることはない。

僕は胸を膨らませて大きく息を吸い込んだ。
顎を持ち上げ、胸を張る。虚勢だと思われてもかまわない。
他人の目なんてどうでもいい。
落ちるところまで落ちた人間は這い上がるのみだ。

大丈夫、大丈夫。
絶対に幸せになってみせる。
拳をギュッと握り、僕は足を踏み出した。

閉まりかけたエレベーターに飛び込むと素早く背中を向けて、扉に顔を近づけた。
エレベーターは身動きできないほど混んでいる。誰のものかわからない甘ったるい香水の匂いが漂っていた。二日酔いの名残りらしい酒の匂いもする。

いつもと変わらない速度のはずなのに、いまはエレベーターの動きがとても遅く感じる。早く着いてくれ……。

首筋に、チクチクと鋭い視線が突き刺さってくる。
誰も声を出していない。それなのに、僕には彼らの心の声が聞こえる……。

会社の金を盗んでおいて、よく来られたな。
俺なら、絶対にムリ。
面の皮が厚いんだろう。
親の顔を見てみたいわ。
誰か、警察に連絡しなさいよ。
無数の辛辣な言葉が、僕の心の柔らかい部分に容赦なく突き刺さる。

「僕は無実です……」
気付いたら、口から声が零れていた。
「僕はお金なんて盗んでいません」
扉を睨みながら、僕は声を絞り出した。

誰も、何も言わない。
聞こえてくるのは、僕の心臓の鼓動だけだ。

エレベーターが止まり、扉が開いた。
開き切らない扉の隙間に体を滑り込ませるようにして、外へ逃げ出した。

第4章1-1へ続きます。


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