見出し画像

お粥やの物語 第4章3-2 「僕の涙はとても熱くて……」

カウンターの一番奥の席を空けて、謙太と祖父は並んで椅子に腰を下ろした。
目の前には、お粥やの店主が淹れてくれたお茶がある。その左隣には、冷たくなったお粥がぽつんと置いてあった。

祖父は湯呑を手に、お茶をぐいと飲むと「美味しいですね」と頬を揺らした。隣から、コツンと湯呑をテーブルに置く音が響いてくる。
喉がカラカラに乾いていて、湯呑に手を伸ばしたかったが、それをする前に確かめなければならないことがある。

「お祖父ちゃんは、生き返ったの?」
「そんなふうに見えるかい」
祖父は、ふぉふぉ、と声を出して笑った。
足は二本あった。肌の血色も悪くない。一見したところ、普通の人間と変わらない。

「私みたいな老いぼれが生き返ったら、みんなに迷惑がかかるよ」
「どうしてさ。僕は嬉しいけれど……」
もう一つの結論に辿り着きたくなくと、その考えにしがみつく。
「介護をするのは大変だよ。お金もかかるし。なにより、生き返ったら不気味に思われるだろう。ゾンビと言われて、後ろ指を差されるのはご免だ」
祖父の口調はどこまでも呑気だ。

「でも、幽霊には見えないよ。幽霊だったら、そんな楽しそうに笑わないと思うけれど……」
「別に恨みを残して死んだわけじゃない。確かに、やり残したことや、後悔することはたくさんある。でも、それより楽しいことのほうが多かった」
「いつも、お祖母ちゃんに怒られていたのに?」
「それを言われると、何も言えなくなるんだが」
祖父は顔をくしゃくしゃにして笑った。

「私は死んだんだ。そして、生き返ったわけではない」
諭すような祖父の口調には、優しさだけでなく、厳しさも滲んでいる。
現実から逃げるな、と言いたいのだろう。
そうだとしても、自分が死んだなんて、どうしても受け入れられない。

だっと、そうじゃないか。
体はどこも痛くない。手足は自由に動く。呼吸だって普通にしている。
今朝なんて会社に行ったのだ。そして、先輩たちに会った……。

そこまで考えたところで、僕は「はっ」とした。
先輩とは言葉を交わしていない。美紀子ちゃんともそうだ。みんな、僕に目を合わそうとさえしなかった。まるで、僕の姿が見えなかったように……。

よく考えてみれば、上の命令とは言え、僕を完全無視する必要はなかったはずだ。上司たちの目を盗んで、声をかけることくらいできる。
あの陰湿な山際課長と貝原部長が、僕を見つけて、黙っていられたとも思えない。怒鳴り散らさないまでも、一言二言皮肉を口にしたはずだ。

誰も、僕の姿に気付いていなかった……。
僕が勝手に無視されていると思い込んだだけなのだ。
そう言えば、会社に向かう混雑した電車の中で、体を押された記憶がない。誰も僕の体に触れなかったからと考えれば説明できる。

それなら、今朝、電車に乗る前に、すでに僕は死んでいたことになる。
昨日の夕方、社宅を追い出されたときは生きていたはずだ。課長夫人が、僕に冷蔵庫に残っていた野菜を手渡したことを考えればそうなる。
死んだとしたら、その後だ。

雨が降り始めた公園だろうか……。
シンデレラの声はその前にも聞こえたが、彼女を見たのはベンチに座っていたときだ。

「正解よ」
背後から聞こえてきた女の人の声に、僕の肩はビクリとせり上がった。
振り返らなくても、四人の内の一人だとわかる。

じっと湯呑を見つめる僕の横で、祖父は女の人に挨拶を始めた。
「いつも、孫がお世話になっております」
お祖父ちゃん、それは違うよ。「いつも」じゃなくて、昨日からだから。それに「世話」にもなってはいないから。

僕の気持ちを知らない祖父は、しきりに頭を下げている。
それに対して、僕の心の中を覗ける女の人は、爪先で僕の足を子突いていた。
それでも、僕は振り返らない。振り返れば、すべてを認めてしまようで、頑なまでに前を向いていた。

僕のそんな様子を気遣ってだろう。
お粥の店主が、目の前にそっと丼ぶりを置いた。
それは僕が昨日注文した、店主のおすすめだった。
顔を上げた僕に、店主は「温かいうちに食べてください。お代はいりませんので」と囁くように言った。
おそらく、店主も普通の人間ではない。幽霊なのか、それとも神様なのか。
いまの僕にとってはどちらでも同じだ。

添えてあったレンゲを手に取り、お粥を口に含んだ。
やっぱり、美味しい……。
気が付くと涙が流れていた。大粒の涙ではなく、小さいな涙。
でも、とても熱い涙だった。

第4章4-1へ続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?