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【短編】お粥やとその周辺「銀色のバス(下)」

クラクションの音が響き、銀色のバスが近づいて来た。
見慣れないそのバスは、どう見ても旧式で、前面には大人が大の字になれるくらいの広いボンネットがある。
窓ガラスの向こうには乗客の姿があり、その何人かの顔には見覚えがある気がしたが、どこで会ったのか思い出せない。

バスは音もなく止まり、車体の中程にある乗車口がすっと開いた。
彼女は躊躇う様子もなく、バスに乗り込んで行く。
ダメだ、そのバスに乗ったら……。

足を踏み出した僕に、そうはさせまいと女の子がしがみ付く。
このままでは、彼女はバスに乗って何処へ行ってしまう。
引き剥がそうと腕に力を入れても、子泣き爺のように、女子は離れない。

それならばと、僕は女の子をむんずと抱きかかえて駆け出した。
女の子をお姫様抱っこした状態で走る若い男の図は、どう見ても怪しくて、もし、女の子に泣かれたら、変質者か誘拐犯に間違えられてしまう。
だが、その心配は杞憂に終わった。僕の腕の中で、女の子はケラケラと笑い出したからだ。その笑顔は少し不気味だが、泣き出されるよりましだ。

停車したままのバスに駆け寄り、僕は閉じてしまった乗車口の扉を叩いた。
扉が開く様子はない。くそ、と僕は毒づき、車の前方に回り込んで、運転手に向かって大声で叫んだ。
「開けてください。乗ります。乗せてください」
運転手は帽子を目深に被り直し、僕と目を合わせようとしない。

どうして、扉を開けてくれないんだ。
彼女を何処へ連れて行くつもりだ……。
僕は彼女の名前を呼んだ。何度も何度も呼び続けた。

前から三番目の窓ガラスの向こうに彼女の姿が現われた。
「降りるんだ。このバスはおかしいよ」
窓が開き、彼女の顔がはっきりと見えた。

一瞬、呼吸ができなくなった。
彼女は優しく微笑んでいる。でも、瞳からは大粒の涙が溢れていた。
「あなたは、このバスに乗ってはダメよ」
「それなら、君も降りるんだ。その窓から飛び出ればいい」
彼女は弱々しく首を横に振った。

「僕は君を守ると決めたんだ。最初に出会った日からずっと君のことが好きだったんだよ」
頭の中に、その日の光景がくっきりと浮かんできた。
秋の大学の構内で、肌寒い風に吹かれ、白い頬を薄っすらと赤く染めた彼女はとても綺麗だった。
思い出した……。僕がアルバイトを入れた日は、その記念日だったのだ。

「ごめん、僕は忘れていた。でも、それには理由があるんだ。言い訳にしか聞こえないかもしれないけれど、君にプレゼントを買いたかったから。それでアルバイトをたくさん入れたんだ」
「知っているわ。お粥やのご主人から聞いたから」
なぜ、面識のない店主がそんなことを知っているのだろう……。

クラクションの音が響き、バスが走り出した。
行かないでくれ。バスから降りるんだ。
僕は、女の子を抱いたまま、必死になってバスを追い駆けた。

どこまでも、どこまでも走り続けたが、追いつくことはできなかった。
くたくたになって、その場に崩れ落ちると、女の子が僕の汗で濡れた頭をポンポンと優しく叩いた。

顔を上げると、女の子の姿はなかった。
その代わり、そこにあったのは父と母の涙に濡れた顔だった。
「先生、目が覚めました」
女の人の声が終わると当時に、白衣姿の男が現われた。
急に頭が重くなり、僕の意識は遠のいて行った。

そこが病院の中であると知ったのは、再び目を覚ました後だ。
僕が乗った観光バスにトラックが衝突し、運が悪いことに、その弾みでバスは橋から転落した。運転手と乗客を合わせた二十三人のうち、助かったのは僕一人だけだった。
バスの目的地は千葉の南房総、秋のグルメを楽しむ日帰りのツアーで、料金は一人当たり五千円。二人で一万円になる。

僕が助かったのは、隣に座っていた彼女が抱き締めていてくれたからだと聞かされたときは、悲しさと情けなさで涙が止まらなくなった。
彼女を守ると言ったのに……助けられたのは僕だった。

銀色のバスの行先は天国なのだろう。
バスの窓に現れた見覚えのある乗客は、ツアーの参加者たちだった。

退院し、どうにか一人で歩けるようになってから、僕はお粥やを探した。
しかし、どんなに歩き回っても見つけることはできなかった。
そのことを僕は不思議だと思わなかった。

いまでも、街中を歩くと銀色のバスを探してしまう。
いまは見つからなくても、いつかは僕の前に現れ、扉を開けてくれるはずだ。
できれば、そのとき彼女がバスに乗っていてほしい。
目的地にたどり着けなかった旅の続きを一緒にしたい。
そう願って、僕は今日も生きていく。
彼女に胸を張って笑いたいから……。   (了)

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